第二十七章 天網恢恢疎にして漏らさず
真っ先に駆け寄ったのはカグツチだった。母熊のそばに膝をつき、毛が血で固まった脇腹に、両の手のひらを当てる。
「急がないと。血が流れきってしまう」
温かな橙色の炎が指のあいだからあふれ出し、母熊の体をすっぽりと包みこんだ。傷口の血がじゅっと音を立て、毛皮の上に甘ったるい湯気が立ちのぼる。血が止まり、ゆっくりと、少しずつ、傷の縁が寄り合っていった。
最後の傷がふさがると、炎は静かに沈んで消えた。それでも母熊は目を覚まさず、脇腹は苦しげに、喉を鳴らしながら上下していた。
炎の魔術師は巨人を見上げた。眼窩の炭が、ふっと暗くなる。
「すまない、兄弟。流れた血までは戻せない」彼は少し黙り、悲しげに言い添えた。「できることは、全部やった」
マトゥンは息を整え、そばにしゃがみこむと、大きな手のひらを母熊の頭にそっとのせた。その声は重く、低かった。熊の姿でうなっていたときと、まったく同じ声だった。
「休め、娘よ。もう大丈夫だ」
途切れがちだった重い息づかいが、少しずつ整い、深くなっていった。それでも、母熊は目を開けなかった。
それからマトゥンは、茂みのほうへ手を差しのべた。子熊たちがおそるおそる這い出してきて、近づき、その指のにおいを嗅ぐ。しばらくのあいだ、二頭は大きな人間から目を離せずに立ちすくんでいた。が、やがて小さくうなり、彼のまわりをくるくると回りはじめた。膝に体をすりつけ、甘え、額で互いを押しあう。
〈おじさんだったの……おじさんが、母さんを助けてくれたの……〉
子熊たちはひっきりなしにうなり、鳴き、うれしそうに巨人のまわりを駆けまわった。ときどき母熊のもとへ走っていっては、首すじに鼻を押しつけ、また戻ってくる。
人の姿のまま、マトゥンは熊の言葉でうなった。
〈心配するな。母さんはいま眠っている。おれの友だちが治してくれた〉
子熊たちはカグツチのほうへ顔を向けた。それから駆け寄って、前足で彼の脚にしがみついた。
火の神はしゃがんで、二頭の首すじをなでてやった。そばに浮かんでいた杖も、あとを追うようにすっと降りてくる。カグツチは、もし子熊たちにも傷があればと、同じ温かな炎で二頭を包んだ。子熊たちはおとなしくなり、目を細めた。
リックはマトゥンに歩み寄り、その背中をぽんと叩いた。
「お前は正しいことをしたよ、兄弟」
マトゥンは悲しげに友を見た。それでも、口の端がわずかに震え、笑みのかたちになった。
「いちばん大事なのは、お前が間に合ったことだ」リックは続けた。「こいつらは、ただの盗賊にすぎない」
彼は空き地を見まわし、ふと何かを思い出したようだった。リックは亡骸から亡骸へと歩き、そのそばにしゃがんでは、持ち物を探った。
「何か証になるものを見つけないとな。依頼の書き付けでも持っていればいいんだが」
服の内ポケットから、徽章が出てきた。交差した二本の刃に、一匹の蛇が巻きついている。リックはそれを手のひらに集めて、じっと見つめた。カグツチとマトゥンがそばへ来て、子熊たちもあとから駆けつけ、興味しんしんに鼻を伸ばす。
「おっ、兄貴、見てくれ」カグツチが顔を近づけた。「金のが二つに、銀のが二つ。それに金のほうは、蛇の頭に冠がある。きっと位が違うんだな……」
リックは盗賊のひとりの服から紐を引きちぎり、徽章をすべてそれに通した。しまいこみはせず、紐を手に握ったままでいる。徽章が触れあって、かすかに鳴った。
マトゥンは険しい顔で、死んだ盗賊の服の切れ端を取り、顔に近づけると、ゆっくりとあたりを見まわした。においは四方から流れてくる。彼は首を巡らせて空気を吸いこみ、目当てのひとすじをたどっていく。やがて、その目が、クロイツフルトのほうの茂みで止まった。
「ちょうど帰り道だ」その声は深く、地鳴りのようで、ほとんど獣の咆哮に近かった。「ついでに、やつらから話も聞いてやる」
彼は母熊を、まるで綿毛のように軽々と抱き上げ、赤子のように、そっと左腕に寝かせた。右手には、あの巨大な剣を握っている。マトゥンが子熊たちに顎をしゃくると、二頭はちょこちょことあとについてきた。
リチャードとカグツチは、何も訊かずにそのあとに続いた。
「やろう、兄弟」リチャードは彼の背に手を置いた。
* * *
帰りは、来たときと同じ草原を行った。
朝の草はまだ露に濡れて立ち、湿った茎が脚を打った。背後では、青灰色のもやの中に、山々が少しずつ溶けていく。マトゥンは先頭を歩き、においで道を選んでいた。ときおり足を止めて空気を吸いこみ、ひと言も発しないまま、向きを変える。腕の中で、母熊の頭が歩みに合わせて揺れていた。その息は、もう穏やかだった。
子熊たちは、はじめは彼の足もとにぴたりとくっついていた。やがて慣れてくると、バッタを追いかけはじめ、遅れては、きゃんきゃん鳴きながら追いついてくる。少し遠くまで行きすぎると、マトゥンが短くうなり、二頭はすぐさま駆け戻ってきた。
昼には、日差しが草原を焼いた。風が草の上に長い波を走らせたが、涼しさは運んでこなかった。カグツチの杖が、彼と並んで草の上を漂い、杖頭の結晶がかすかにきらめく。炎の魔術師本人は暑さなど気にもとめず、何度も子熊たちを振り返っていた。
リックは黙って歩いた。徽章を通した紐は、まだしまっていない。一歩ごとに、冠のある蛇とない蛇が、拳の中で触れあって鳴った。彼は村長の言葉を思い、いなくなった子どもたちのこと、そして彼らをめぐる噂のことを考えていた。東の山並みの向こうの国だと言う者もいれば、竜の背骨山脈の向こうだと言う者もいる。考えれば考えるほど、紐を握る手に力がこもった。
夕方になると影が長く伸び、草原は赤茶けた光に染まった。子熊たちは疲れきって、マトゥンのかかとに鼻先がつきそうなほど寄り添い、とぼとぼと歩いている。一度だけ、巨人は立ち止まって母熊を抱きなおし、二頭が追いつくのを待った。
太陽が地平に触れかけたころ、前方に、茂みが黒い帯となって見えてきた。マトゥンが足を止め、長いあいだ空気を吸いこむ。皆も、その背後で立ち止まった。クロイツフルトまでの二日の道のりの、ちょうど一日が過ぎていた。
マトゥンは友のほうへ顔を向けた。濃くなっていく夕闇の中で、その目が重く光った。
「ここだ」
マトゥンは片膝をつき、母熊をそっと草の上に横たえた。子熊たちがすぐに、その脇腹に身を寄せる。彼は二頭のほうへかがみこみ、うなった。
〈ここにいろ。母さんと、おれの友だちのそばに……〉
それから、リックとカグツチを見上げた。
「あいつらを片づけてくる。この子たちを頼む」
彼は背丈いっぱいに立ち上がった。怒りが、波のように押し寄せてくる。マトゥンは剣の柄を握りしめ、子熊たちを怯えさせないよう、その怒りのすべてを彼らから遠ざけて、茂みが黒く沈む前方へ向けた。子熊たちは頭を上げもしなかったが、彼の前の草は、風もないのに、いっせいに伏した。
「おれの世界で、せめてこれだけの力があったなら……」その声は、低くくぐもった地鳴りにまで落ちた。「ああいう連中は、一人残らず引き裂いてやったものを……」
そして彼は、木々のあいだを抜け、ゆっくりと森へ入っていった。
葉の天蓋の下では、夕闇がいっそう早く濃くなった。マトゥンは歩きながらあたりを見まわしたが、獣の姿はひとつもなかった。枝に鳥もいない。去年の落ち葉の中に鼠もいない。湿った土の上には、新しい足跡ひとつない。森は空っぽで、まるで生きものがすべて死に絶えたかのようだった。
その歩みは、ほとんど音を立てなかった。巨大な足はやわらかく地を踏み、枝一本、折れる音もしない。だが、まわりの空間そのものが、彼の怒りに震えはじめていた。空気は重く、濃くなり、木の葉が細かくおののく。木々は彼から身をそらすように傾き、その幹が、怯えたようにきしんでいた。
最初の見張り場は、遠くから見えた。木々のあいだにくすぶる焚き火、二人の盗賊、そしてその足もとで鎖につながれた狼たち。
マトゥンはそちらに目もくれず、歩みもゆるめず、道も変えず、まっすぐに進んだ。
狼たちが鼻面を上げた。それから、いっせいに頭を地に伏せ、耳を寝かせて凍りついた。だが次の瞬間、何かが変わった。狼たちは身を起こし、首すじの毛を逆立て、目に火を灯すと、うなり声をあげて、自分たちを「飼いならした」者たちに躍りかかった。鎖がぴんと張り、はじけ飛ぶ。焚き火のそばで短い叫びがあがり、すぐに途切れた。
マトゥンは、顔も向けずにその横を通り過ぎた。
どの見張り場でも、同じことが起きた。盗賊たちは、ありとあらゆる獣を飼っていた。狼、犬、山猫、檻に入れた猛禽。ある見張り場では、太い鎖で熊がつながれていた。そしてどこでも、マトゥンが近づいたとたん、獣たちは言うことを聞かなくなった。革紐を引きちぎり、鎖を断ち、檻の格子を折り、怒り狂って、自ら見張り場を一掃した。そして、彼のあとについてきた。
はじめは狼たちが、マトゥンの背後を音もなく小走りについてきた。そこへ山猫たちが加わり、続いて、木々の上を鳥たちが旋回しはじめた。見張り場から解き放たれた熊たちが重い足取りで追いつき、そのあとからは森の奥から野生の熊たちも、二頭、三頭と姿を現し、黙って巨人の後ろに並んだ。闇の中から、獣たちは次々に現れた。森は重い息づかいと、足音のざわめきと、ときおりの低いうなり声で満ちていった。誰ひとり先へ走り出す者はなく、誰ひとり遅れる者もなかった。
木々の向こうに灯がにじみはじめたころには、マトゥンのあとには、ほとんど軍勢と呼べるものが続いていた。
砦が近づいたそのとき、背後の森の上を、光が走った。母熊と子熊たちを残してきた茂みのあたりに、分厚い半球の障壁が立ち上がる。そこから、くぐもった爆音が届いた。葉のあいだを閃光が駆けめぐり、幹の上を照り返しが走って、頭上の鳥たちがひとかたまりに寄り集まった。
あたりの獣たちが、いっせいに身構えた。マトゥンは顔を上げて障壁を見やり、にやりと笑うと、並んで歩く獣たちをゆっくりと見まわした。
「誰にも、邪魔はさせない……」
木々が途切れ、前方に、胸壁に灯をともした黒い城壁がそびえ立った。マトゥンがそこへ近づくと、上で敵襲を告げる角笛が鳴り響き、城壁の上を人影が走りまわり、矢と石が彼めがけて降りそそいだ。
彼の内で煮えたぎる怒りが空間をゆがめ、どんな飛び道具も、どんな武器も、まるで彼に当たらなかった。矢は軌道をそれて足もとの土に突き立ち、石はそばをかすめて、木の根に当たって砕け散った。その気配は、まるで獣たちにまで乗り移ったかのようだった。一本の矢さえ、彼らにも触れなかった。マトゥンのそばでは、空間そのものが、生きたさざなみのように揺れていた。
彼は、自分の背丈のほぼ倍はある巨大な城門の前で足を止め、それを眺めた。上では怒号が飛び交い、誰かが命令を叫びすぎて声をからしている。マトゥンは剣の切っ先を扉に当て、軽く押しこんだ。刃は、まるでバターのように、鉄と木を貫いた。巨人が左右に剣を振るうと、城門は城壁もろとも崩れ落ちた。大地が揺れ、崩れた城壁の上に土煙が舞い上がり、城壁の上の叫び声は、崩れる石の轟音の下で途絶えた。
「行け、子らよ。砦は、おれに任せろ」
マトゥンの言葉と同時に、獣たちは嵐のように突破口へなだれこみ、行く手のものをことごとく薙ぎ倒した。盗賊たちは中庭を逃げまどい、剣や弓をつかんだが、どんな武器も獣たちをよけて通った。どれほど狙いを定めようと、無駄だった。手から落ちた鋼が鳴り、投げ捨てられた松明が石畳を転がり、人の悲鳴は、遠吠えと咆哮にかき消されていった。
マトゥンは、まるで宙を漂うように、ゆっくりと砦の中庭を進んだ。まわりでは、あらゆるものが裂け、倒れ、叫んでいたが、彼は歩みを速めなかった。本館にたどり着くころには、獣たちがすでにその建物を幾重にも取り囲み、静かに彼を待っていた。狼は地に伏せ、熊は重い息をつき、鳥たちは屋根の縁に並んで、声ひとつ立てなかった。
彼は目の前にそびえる、二階建ての重厚な建物を見上げ、目当ての者がどこにいるのかを感じ取った。それから、分厚い樫の扉のすぐ前まで進んだ。扉の表面がさざなみのようにうねり、はじけて、細かな破片となって飛び散った。木片が、石段の上をからからと転がった。
中へは、彼ひとりで入った。
廊下には煙と、酸っぱい葡萄酒のにおいがこもり、壁の松明がすすを上げていた。脇の扉から、剣や斧を手にした盗賊たちが飛び出してくる。マトゥンが短く剣を振ると、刃は男たちを、その背後の壁もろとも断ち割った。石積みが割れ、裂け目の向こうに隣の部屋がのぞき、天井から梁が轟音とともに崩れ落ちた。
彼は止まらず、先へ進んだ。横から飛びかかってきた男を左の拳で迎え撃つと、男は壁ごと外の中庭へ吹き飛んだ。彼が一歩進むたびに、砦全体が揺れ動いた。建物は震え、石積みから砂礫がこぼれ、床を石の粉が転がり、松明の炎は激しく揺らいでは、ふっと消えた。
広間の入り口には、二人が立っていた。マトゥンは二人を扉ごと斬り捨て、二つに割れた扉板が内側へ倒れこんだ。
広間では、長い卓に五人の男が着いていた。卓の上座にいるのが、頭目だった。衝撃のたびに卓上の蝋燭が震え、天井から卓布の上へ埃が降ってくる。座っていた者たちは、身構える暇もなかった。ひと息に踏みこみ、ひと振りしただけで、マトゥンは頭目の前に座っていた四人を斬り伏せた。広間が、しんと静まり返った。
残ったのは、頭目ひとりだった。四十がらみの、がっしりした男。革の鎧を着こみ、頭はきれいに剃りあげている。顔は布で覆われ、見えているのは、冷たい光を宿した目だけだった。男は短い剣を振り上げたが、マトゥンは素手でその刃をまるごとつかみ、握りしめた。鋼がきしみ、手のひらの中でひしゃげて、砕けた破片が床に落ちて鳴った。
それからマトゥンが口笛を吹くと、そのあとを追って、獣の群れが広間へなだれこんできた。獣たちは入り口を埋め、壁際に並び、卓を取り囲んだ。マトゥンは頭目の頭に手のひらをのせた。いま目にしたもののせいで、男はもう身じろぎひとつできなかった。巨大な手のひらがその頭をすっぽりと包み、床から持ち上げた。
〈縛れ……〉マトゥンは熊の言葉でうなり、もう片方の手で、頭目の胸の、真っ白な徽章を指さした。交差した二本の剣に、冠をいただいた二匹の蛇が絡みついている。〈それから、全員からこういう徽章を集めてこい……〉
彼は頭目を床に下ろした。鼠たちがたちまち縄を引きずってきて、群れ総出で、男をきつく縛りはじめた。鼠たちが体の上を走りだすと、頭目はびくりと身をよじったが、マトゥンのまなざしを受けて、すぐに凍りついた。まず両手を、手首を引き離して動かせないように縛り、次に両足を、それから全身をぐるぐると縄で巻いた。ついでに鼠たちは、男の顔の布を引きはがした。その下から現れたのは、一面に傷痕の走る顔だった。同じ布で男の口をきつくふさぎ、胸から徽章を外すと、一匹がそれをマトゥンの手に届けた。
マトゥンは縛られた頭目を肩に担ぎ上げた。その目には、まだ怒りがたぎっていた。声は深く、重く響いた。
「兄弟がお前を尋問する……おれには無理だ。抑えがきかなくなる……」
それから、彼らは外へ出た。砦を出たところで、マトゥンは大きくうなった。
〈やつらのにおいは、わかっているな……障壁の下に隠れた者を見つけて、ひとり残らず始末しろ〉
獣たちは散り散りになって木々のあいだへ消え、マトゥンは落ち着いた足取りで、森を抜けはじめた。
いまは、そばに誰もいなかった。すでに夜が降りていて、梢のあいだから、障壁の青白い照り返しがにじんでいた。獣たちは障壁の下を嗅ぎまわって残りの者を探しており、前方のどこかで、ときおり短いうなり声があがり、枝の折れる音がして、叫び声が上がりきらぬうちに途切れた。肩の上の頭目は、とぎれとぎれに息をするだけで、身じろぎもしない。そして、マトゥンのまわりの震えは、少しずつおさまっていった。空気は軽くなり、木々はもう彼から身をそらさず、頭上の葉も静まっていった。
ほどなく、彼は障壁の前に出た。その内側の草の上に、奥のほうを向いて、リックが座っていた。そばには母熊と子熊たちがいて、少し離れたところに、盗賊の亡骸がいくつか転がっている。障壁の外では、カグツチが亡骸のあいだを歩きまわっていた。倒れた敵から徽章を集め、それから手のひらから放つ濃い炎で亡骸を焼き、一瞬のうちに灰にしていく。杖がそのあとを漂い、草の上に青灰色の煙がたなびいていた。
リックは立ち上がって振り返り、捕らえた頭目を肩に担いで歩いてくる巨人に、笑みを向けた。
「兄弟、よくやった」
マトゥンは縛られた盗賊を手でつかみ、肩から放り出した。男は地面に重く叩きつけられ、うめいた。
「尋問は、お前に任せる、兄弟」
リックは近づいて、しゃがみこんだ。口をふさがれた頭目が何やらわめいているのを、彼はにやりと笑って聞き流した。
「しっ……黙っていていいぞ……」
頭目の胸から一本の糸が現れ、空へ向かって伸びていった。リックは男の胸の中へ、運命の糸が出ているまさにその場所へ、手を沈めた。縄には一本も触れない、正確な手つきだった。
「ふむ。この世界じゃ、体の力の働き方が違うな。まあ、いいか……」
頭目は激しく痙攣した。糸は明滅しはじめ、細っていったが、最後まで消えはしなかった。子熊たちは母熊に身を寄せ、マトゥンはそのそばに立ったまま、黙って待っていた。
リックはゆっくりと男の胸から手を抜き、長いあいだ黙りこんでいた。それから、口を開いた。
「なるほど……」
彼が冷えきったまなざしで頭目を見ると、男の目は白く裏返り、そのまま気を失った。
リックが手を振ると、障壁は消えた。ちょうどそこへ、盗賊の上着でこしらえた袋を徽章でいっぱいにして、カグツチが戻ってきた。その背後の野原一面に、盗賊の亡骸があった場所を示す、何百もの小さな燠火がくすぶっていた。夜気に、焦げたにおいが漂っていた。
仲間たちを見まわして、リックは言った。
「こいつは連れていく」
マトゥンが熊の姿に戻ると、剣はふっと消えた。リックはその背に、気を失ったままの頭目をのせた。そのとき、ずっと意識のなかった母熊が身じろぎした。頭をもたげ、そばにいる子どもたちが無事で元気なのを見ると、低くうなった。子熊たちはうれしさのあまり、母のまわりを駆けまわりはじめた。
「こいつをギルドへ運んで、王を待つ……」
リックは言葉を切り、息を整えて、気持ちを鎮めようとした。徽章を通した紐が、握りしめた拳の中で鳴った。カグツチは黙って彼を見つめ、眼窩の炭がふっと暗くなった。マトゥンが、低くうなった。
「それから、山を越えて西へ行く……」
一行は、来た道を引き返しはじめた。クロイツフルトへ、パンクラツのもとへ。母熊は子熊たちとともに茂みのそばに残り、いつまでも一行を見送りながら、その背に向かって、何かを低くうなっていた。子熊たちは、母の脇腹に身を寄せていた。
「リーゼルのために……」
* * *
第二十七章をお読みいただき、ありがとうございます。
天網恢恢疎にして漏らさず。
蛇の徽章を通した紐が、歩くたびに拳の中でかすかに鳴る。
生きものの消えた森を、ひとりの巨人が歩いていく。
その背後には、音もなく続く獣たち。
そして、細りながらも、最後まで切れなかった一本の糸。
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感想も、ひと言でも大歓迎です。
ニック・オッカム
第二十七章をお読みいただき、ありがとうございます。
天網恢恢疎にして漏らさず。
蛇の徽章を通した紐が、歩くたびに拳の中でかすかに鳴る。
生きものの消えた森を、ひとりの巨人が歩いていく。
その背後には、音もなく続く獣たち。
そして、細りながらも、最後まで切れなかった一本の糸。
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ニック・オッカム




