第二十五章 好事魔多し
すっかり夜も更けていた。宿の酒場に残っているのは、四人だけ。ほかの卓はとうに空になり、蝋燭も半分は燃え尽きていた。表からときおり聞こえていた遅い通行人の足音も、やがて途絶えた。マイヤーは、まだ明るいうちに自分の家へ帰っていた。
三人の男は、のんびりとエールを傾けながら、声をひそめて話していた。熊もときどき低くうなる。まるで、自分も話に加わっているかのように。
健一は皆を見回し、わずかに眉を寄せた。
「忘れないでくださいよ。明日の予定は、商人ギルドです」
誰もが、心得たようにうなずいた。片方の前足で大きなジョッキを抱え、もう片方で鉢から肉をつまんでいたマトゥンまでも。
「それと、依頼は必ず受けること」健一はリックのほうへ向き直った。口の端に、いたずらっぽい笑みがよぎる。「兄貴、リーゼルを待ってるんでしょう?」
リックは、ジョッキから目を上げなかった。
「妙な胸騒ぎが、どうにも消えなくてな」彼はジョッキをひと息に飲み干した。「無事でいてくれればいいが」
健一の笑みが、消えた。
向かいでは、カグツチが柔らかな布で、ていねいに、ほとんど慈しむように杖を磨いていた。その手が一瞬止まり、指の下で、杖頭の結晶が鈍く光った。
「心配するな、兄貴。あの娘に、何が起きるっていうんだ」
マトゥンはひと息に肉を噛み終えて飲み込み、ジョッキをあおると、長い音を立てて息を吐いた。それからリチャードを見て、ゆったりと、長く低くうなった。
リックは、しばらく熊を見つめていた。少しずつ肩が下がり、顔から翳りが消えていく。口の端が、かすかに動いた。
「分かったよ、兄弟。いざとなったら、お前が動物たちと話してくれ」彼は重く息をつき、空のジョッキを脇へ置いた。「そろそろ休もう。飲み終えたら、寝るんだぞ」
リックは席を立ち、自分の部屋へ引き上げた。マトゥンは残りの肉を慌ててたいらげ、エールを一気に飲み干すと、急いであとを追った。床板が、熊の足の下で哀れっぽくきしんだ。
部屋に入ると、リックは礼装を脱いだ。その下から現れたのは、いつもの格好だった。くたびれた白い袖なしの肌着と、古い黒のズボン。肩が、すっと軽くなった。
窓辺の机には、もう水の入った水差しと、コップが三つ置かれていた。そしてそのそばの床には、誰かが水を張った鉢を置いてくれていた。熊のために。
リックは、温かく微笑んだ。水を一杯注いで飲み、寝台に横になる。マトゥンは枕もとに陣取り、前足に頭をのせると、すぐに寝息を立て始めた。きつい一日だった。
けれどリックは、いつまでも目を開けたまま、暗い窓を見つめていた。眠りは、なかなか訪れなかった。
翌朝、慌ただしく朝食をすませると、一行は商人ギルドへ向かった。
ギルドの廊下には、蝋と古い紙の匂いが漂っていた。書記たちは机から顔を上げ、執務室の扉が閉まるまで、長いこと一行を目で追っていた。
ゴットフリート・リントナーは、副長のケスラー、首席顧問のハラーとともに、執務室で一行を迎えた。彼の前の机には、王冠の印章が押された書状と、ずしりとした小袋が置かれている。
ギルド長は両方を手に取り、リックの前へ歩み寄った。
「クロイツフルトの領有を認める証書です。それと、ハラルト王がお約束になったヒンメルを」
書状は、リチャードの手に渡された。リックは、王冠の印章にしばし目を留めた。紙は、見た目よりも重かった。
小袋のほうはすぐに健一の手に移り、健一は思わず、手のひらでその重みを確かめた。
リントナーは机へ戻ると、引き出しから青いリボンで結ばれた巻物を取り出した。リボンには、赤い印。三つ星だ。
「そしてこちらが、皆さんのパーティーへの依頼です。これを持って冒険者ギルドへ行ってください。あちらで依頼を受理し、残りの条件も詰めてくれます」彼の顔が、引き締まった。「南の国境へ向かっていただきたい。そこから二日ほど行ったところに洞窟があり、巨大なサラマンダーが棲みついています。成体の皮を、二枚お願いしたいのです」
健一は、リチャードが手にした巻物をのぞき込んだ。
「その横の、小さな印は何です?」
ギルド長は「あっ」と声を上げ、自分の額をぴしゃりと叩いた。
「言い忘れておりました。あそこのサラマンダーは群れで住みかを移す習性がありまして、ときに、いつもよりはるかに数が増えるのです」彼は、印を指でつついた。「この印は、依頼が四つ星まで上がりうる、という意味です。まれに、予定外のことが起きれば、二段階上になることさえあります」
健一は、驚いて眉を上げた。
「予定どおりにいかなかったら、洞窟ごと片づけてしまってもいいんですか?」
ハラーは、首を横に振った。
「とんでもない。いくら繁殖が早いとはいえ、です」その声は、乾いていた。「我々は、ときおりあそこへ依頼を出しているだけですから」
リントナーも、同意するようにうなずいた。
「サラマンダーの皮は、熱に強い。鍛冶炉のふいごや、値の張る装備に仕立てられます」彼は、少し黙った。「それに、予定外のことというのは、いつだって起こるものです」
一行は、ギルド長とその部下たちに頭を下げた。
「承知しました」と、リックは言った。
ギルドを出ると、街はとっくに目を覚ましていた。石畳を荷車がごとごとと行き交い、屋台では商人たちが呼び声を張り合い、どこか遠くで、鍛冶の槌が規則正しく鳴っている。一行は家々のあいだを少し迷い歩き、何度目かの角を曲がったところで、マイヤーに出くわした。
商人は中庭の真ん中で、荷を積んだ馬車のそばに立ち、御者たちを急かしていた。梱、樽、木箱。まだ積み込んで、縄をかけなければならないものばかりだ。マイヤーはしきりに何かの帳面をのぞき込み、ぶつぶつと独りごとを言っていた。
リックたちに気づくと、彼はぱっと顔を輝かせ、手のひらをはたきながら急いで駆け寄ってきた。
健一はひと言ふた言、言葉を交わしたかった。だがマイヤーの背後では、もう誰かが彼の名を呼んでいて、御者たちも指示を待って足踏みしている。商人は申し訳なさそうに両手を広げ、冒険者ギルドへの道だけを教えてくれた。
礼を言うと、一行は忙しい男をそれ以上引き止めず、先へ進んだ。
足取りは、ゆっくりだった。陽が屋根の上へ昇っていき、通りはだんだんと人であふれていく。前方に冒険者ギルドが見えてきたとき、リックは思わず歩をゆるめ、扉の前に見慣れた姿を探した。
中は、混み合っていた。依頼の掲示板の前には長い列ができ、声がざわめき、誰かは一枚の紙をめぐって言い争い、誰かは笑っていた。
だが一行が敷居をまたいだとたん、ざわめきは引いていった。冒険者たちは、誰が入ってきたのかを背中で感じ取ったかのようだった。頭がひとつ、またひとつと振り向き、話し声が途中でぷつりと切れる。
リックは、視線など気にも留めなかった。わずかに足を速め、まっすぐ受付台へ向かった。
「リーゼル……」まだたどり着かないうちに、彼は呼びかけていた。
聞き慣れた、明るい声が返ってくるはずだった。だが、返ってきたのは静けさだけだった。
リックは、受付台の向こうをのぞき込んだ。空っぽの椅子。どうやら昨日から誰も手をつけていない、山のような書類に埋もれた机。
リックの指が、ひとりでに受付台の縁を握りしめた。
ほどなくして、倉庫の扉が勢いよく開き、ひとりの男が急ぎ足で出てきた。がっしりとした、中背の、年配の男だ。ひげはきれいに剃られ、髪はていねいになでつけてある。首にはアダマンタイトの鎖で眼鏡が下がり、一歩ごとに揺れていた。袖カバーをつけた白いシャツに、革のベスト。きちんとしたズボンに、革靴。
男はリチャードの一行を見つけると、ほとんど駆けるようにして近づいてきた。
「娘が……。仕事のあと街へ出かけたきり、戻らないのです」
リックは、一瞬言葉を失った。それから気を取り直し、落ち着いた声で、静かに尋ねた。
「リーゼルが? あなたの娘さん、ですか?」
男は、肩で息をしていた。ただ、うなずいた。
「はい」
健一が、注意深く男を眺めた。
「失礼ですが、あなたは……?」
男は、軽く頭を下げた。
「ライムント・エッゲルト。冒険者ギルドの長です」
一行は、顔を見合わせた。リックは男の顔をじっと見つめ、その目と視線がぶつかった。
「なるほど……。どうしてすぐに気づかなかったんだろう」彼は、少し黙った。「彼女の目は、あなたにそっくりです」
まったく同じ目だった。ただ、リーゼルの目はいつも笑っていた。今この目にあるのは、不安だけだった。
沈黙が落ちた。掲示板の前の列もとうに静まりかえり、広間では、誰かがぎこちなく足を踏みかえる音まで聞こえた。
リックは考えをまとめ、ギルド長に巻物を差し出した。
「ライムントさん、教えてください。この依頼に、何か落とし穴はありますか」
ライムントは、首を横に振った。
「いいえ。群れの移動はないはずですし、繁殖の時期もまだ先です」
彼は巻物を手もとへ引き寄せ、判を手に取った。その手が、震えていた。印は少し斜めに押された。ライムントは、次に何をすればいいのか忘れてしまったかのように、長いことそれを見つめていた。それからはっとして、引き出しから折りたたんだ地図を取り出し、リックに差し出した。
リチャードには、彼がどんな状態にあるのか分かっていた。彼はその肩に手を置き、少しの迷いもなく、きっぱりと言った。
「できることは、すべてやります。そして、娘さんを必ず救い出します」
ライムントは、リックを見上げた。その目に、この朝はじめて、希望がよぎった。
一行は、長居はしなかった。広間は黙って彼らを見送り、背後で扉が閉まってから、ようやくざわめきが少しずつ戻ってきた。
通りに出ると、リックは足を止め、皆を見回した。その視線が、健一の上で止まる。
「お前は街に残れ。情報を集めてくれ」彼は地図を広げ、指で道をなぞった。「俺たちは依頼に向かう。道はちょうどクロイツフルトを通って、そこから南へ延びている」
彼は少し黙り、言い添えた。
「何か分かったら、クロイツフルトへ来い。俺たちは、朝までそこにいる」
健一は、短くうなずいた。次の瞬間、彼は家と家のあいだの影へ踏み込み、はじめからそこにいなかったかのように消えた。
リックはもう一瞬だけ、誰もいなくなった場所を見つめていた。それから地図をたたみ、街の門へ歩き出した。
門扉の衛兵は、長いこと一行を目で追い、そのあとでようやく、敬礼をしなければと思い出した。石畳は踏み固められた土の道に変わり、ホーエンブルンのざわめきは、少しずつ背後で遠ざかっていった。
あたりには、畑が広がっていた。風が穂波を走らせ、頭上の高いところで、ひばりが鳴きしきっている。日に温められた草と、土埃の匂いがした。
誰も、口をきかなかった。カグツチの杖は主の肩のすぐそばを宙に漂い、火の神はときおり、リックのほうへ目をやった。二度ほど、何か言おうと息を吸いさえした。だが、結局は何も言わなかった。
マトゥンは、重く、規則正しく、そのそばを歩いていた。リックは先頭を行く。顔は、落ち着いていた。ただ歩幅はいつもより大きく、指はしきりに拳を握っては、また開いていた。
ようやく、リックは振り返らずに口を開いた。
「兄弟。道すがら、動物たちと話してくれ。あいつらにも、見て、聞いていてもらおう。誰か、何かを見ているかもしれない」
マトゥンは短く、低くうなった。リックは、その答えが聞こえたかのようにうなずいた。
そのときから、熊はたびたび道ばたへ寄り道するようになった。道沿いの茂みの前に長いこと立ち止まっては、枝の奥へ何やらうなりかける。するとそこから雀が飛び立ち、思い思いの方角へ散っていった。柵の杭にとまったカササギは、しばらく熊に向かってけたたましく鳴き返していたが、やがてぱっと舞い上がり、森のほうへ飛んでいった。
カグツチは、息をひそめてそれを見守っていた。好奇心で、眼窩の熾火がいよいよ明るく燃えていく。それでも、尋ねる勇気はついに出なかった。
ときおり、向こうから袋や樽を積んだ荷車がやってきた。どれもこれも、街へ向かっている。馬たちは熊を見るなり鼻を鳴らし、路肩へ跳びのいた。御者たちは手綱を引き締め、目を丸くして一行を見送る。ひとりの老人などは帽子を脱ぎ、一行が通り過ぎるまで、ずっとそれを手に持ったままだった。そのあいだ、巨大な熊は平然と、道ばたの石にとまったカラスにうなりかけていた。
昼ごろ、一行は道を横切る小川のほとりで足を止めた。マトゥンはさっそく膝まで水に入り、長いこと、ごくごくと音を立てて水を飲んだ。カグツチは日陰の石に腰を下ろし、足を伸ばした。
リックは、食事をとらなかった。水辺に立ち、来た道を見つめていた。畑の向こうに、まだホーエンブルンの塔が見えている。
(今、どこにいる……)
マトゥンが岸へ上がってきて体を震わせ、道の半分に水しぶきを浴びせると、リックのそばへやってきた。濡れた鼻先で肩をつつき、小さくうなる。
リックはそれを聞き、わずかにうつむいた。まだ、何もない。
彼は熊の首筋に手を置き、しばらくそのまま立っていた。それから向きを変え、先頭に立って歩き出した。
昼を過ぎると、道は次第にひと気がなくなっていった。畑は雑木林に変わり、また畑に戻る。陽はゆっくりと地平へ傾き、道に落ちる一行の影は、どんどん長く伸びていった。
夕方近く、道は下り坂になった。前方の窪地で、水がきらりと光った。
川。浅瀬。そして、そのすぐ向こうに十字路。一本の道は東の都へ、もう一本は南へ延びている。浅瀬のまわりには、小さな村の家々が身を寄せ合っていた。屋根の上には細い煙が立ちのぼり、どこかで犬が吠え、いくつかの窓にはもう灯がともり始めていた。
リックは、小高い丘の上で足を止めた。
クロイツフルト。
彼の土地。それを目にするのは、これが初めてだった。
第二十五章をお読みいただき、ありがとうございます。
好事魔多し。
領地の証書と、約束のヒンメル。
赤い印のついた、三つ星の依頼。
すべてが順調に見えた朝、冒険者ギルドの受付台の向こうには、空っぽの椅子がありました。
「予定外のことというのは、いつだって起こるものです」
動物たちに耳を傾けながら南へ歩く一行と、
夕暮れの丘の上から、リックがはじめて目にした自分の土地。
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ニック・オッカム




