第二十三章 弘法にも筆の誤り
中庭へも、試合場へも、王は一行を連れていかなかった。
ハラルトは玉座から立ち上がり、扉のそばの衛兵に二言三言、声をかけた。衛兵のひとりが広間を横切り、柱の陰の目立たない扉を開けた。その先には、狭い石の階段があった。階段は下へと続き、あまりに急に巻いているので、三周目より先は何も見えない。下から、湿り気と古い煙の匂いが上ってきた。
先頭に王、次にオルトヴィン、そのあとに一行が続いた。
段は、真ん中がすり減っていた。儀式に使う階段とは、とても言えない。大勢の人が、しょっちゅう、それも祝いの日ではない日に通ってきたのは明らかだった。鉄の輪に差した松明が等しい間隔で燃え、そのあいだには、闇がたまる隙があった。足音が壁にうつろに響き、人より先に下へと降りていく。
一周するごとに、空気は冷えていった。オルトヴィンからは冷気が漂い、その肩の後ろの壁を、細い霜の筋が走っていく。カグツチはそのすぐ後ろをぴたりとついて歩き、何も気づかないふりをしていた。ただ眼窩の熾火だけが小さく爆ぜ、彼の背後で、霜はたちまち雫になって溶け落ちた。
マトゥンは最後尾だった。階段は熊には狭すぎた。何度も脇腹を壁にこすりつけては不満げに鼻を鳴らし、何周目かで、とうとうすっかり挟まってしまった。熊はしばらく立ち止まり、鼻を鳴らし、横向きになって抜けようとしたが、石が毛皮をこするばかりだった。そこで重いため息をひとつつき、縮み始めた。
見る見るうちに小さくなっていき、段の上には、片手で持ち上げられるほどの子熊が残った。子熊はぶるっと身を震わせ、ふた跳びでリックに追いつくと、背中をよじ登り、肩の上にちょこんと座った。
リックは足を止め、横目でそちらを見た。肩の上に、何か温かくて、ふわふわで、ひどく真剣なものが乗っていた。
「兄弟、そんなこともできたのか?」
マトゥンは答えなかった。首のすぐそばで座り直し、布地に小さな爪を立てる。小さな脇腹がせわしなく上下し、その息の速さが、リックの頬に伝わってきた。この姿は、熊にとってよほど骨が折れるらしかった。
物音に振り返った健一は、口を開け、子熊を見て、また閉じた。
リックは何周したかを数えていたが、二十でやめた。足はとうに段を意識しなくなり、耳に残るのは足音と松明の爆ぜる音だけだった。
(ずいぶん深く掘ったもんだ……)
健一のほうは逆に、目に入るものを片っ端から数えていた。通り過ぎた扉、壁の窪み、天井の鉄の金具。唇が、声もなく動いている。
「陛下」
とうとう我慢できずに、彼は言った。
「ここは、ワイン蔵ですか?」
ハラルトは、振り返りもしなかった。
「蔵はもっと上だ。とうに通り過ぎた」
健一は、名残惜しそうに上を振り返った。
階段が終わった。目の前に、人の背丈の倍はある扉がそびえていた。鉄で補強され、両扉にまたがって重い樫の閂が渡してある。ここでは、十人ほどの衛兵が番をしていた。そのうちの二人が閂に体重をかけ、やっとのことで脇へ押しやった。閂はなめらかに、軋みもせずに動いた。油が差してあるのだ。
扉が開くと、冷気と埃と淀んだ空気が押し寄せ、その向こうに広間が現れた。
マトゥンはリックの肩から飛び降り、脇へ駆けていくと、大きくなり始めた。ほんの数呼吸ののち、通路の真ん中には、再び巨大な熊が立っていた。衛兵たちは後ずさり、誰かが武器に手をかけた。熊のほうは、盛大に息を吐いた。長々と、心底ほっとしたように。まるで、ずっと腹を引っ込めていたかのように。それから肩を回し、骨が鳴るほど大きく伸びをした。
松明の光は、奥の壁まで届かなかった。丸天井を支えているのは、一枚岩から削り出した太い柱だ。そのあいだを、荷馬車が楽に通れるほどだった。二台並んでも。
柱のあいだには、何段にも重ねた木の寝棚が列をなしていた。扉の前から、ずっと奥の闇の中まで。壁沿いには石の炉が並び、煤けた煙道がそこから上へ、土の厚みの中へと消えている。樽、袋、畳んだ毛布の山。どれも古いが、傷みはなく、乾いていた。いつその日が来てもいいように、誰かが手入れを続けてきたのだ。埃と冷えた灰と、人が残していった何か古いものの匂いがした。
リックは手近な柱に手のひらを這わせた。石は冷たく、ざらついていて、胸の高さに引っかき傷が刻まれていた。短い線が五本並び、六本目がそれを斜めに消している。それが、何列も。深くまっすぐなものもあれば、浅く、曲がり、急いで刻んだようなものもあった。
(誰かが、日を数えていた……)
その下、ほとんど床に近いところに、竜が刻まれていた。歪んだ、やたらと大きな翼の竜。子どもの手によるものだった。
リックは、それから目を離せなかった。まだほんの小さな誰かが、ここで床に座り込み、頭の上で吠えているものを刻んでいたのだ。指は、知らず知らずのうちに、その翼の上で止まっていた。
「竜が飛んできたとき、街はここへ逃げ込んだ」
ハラルトが言った。丸天井の下で、その声はくぐもって響いた。
「街じゅうがな。年寄りも、子どもも、家畜も。戦で敵が城壁の下まで迫ったときも、ここへ下りた。それから、森から魔物どもが出てきたときもだ」
王は少し黙った。
「この扉は、もう長いこと閉じられていない。それでも、閂には毎年春に油を差している」
健一はもう一度あたりを見回した。その顔から、ゆっくりと笑みが消えていった。
「それで……ここには、何人入れるんです?」
「全員だ」
王は短く答えた。
「こういう広間が三つある。どれも、縦二百肘、横百肘だ。街の者たちは別の門から来る。そちらはゆるやかな下り坂で、荷車でも楽に転がしていける。この階段は、屋敷から下りてくるためだけのものだ」
「家畜は?」
「さらに下だ。家畜には家畜の囲いと門がある。人と家畜が同じ天井の下では、そう長くはもたん」
健一は、声もなく唇を動かした。
「一万人ほど……」
やがて、彼はつぶやいた。
「そんなところだ」
王は、何の誇らしさもなく、あっさりと答えた。
ハラルトが衛兵たちのほうを向いて頷いた。衛兵たちは黙って寝棚に取りかかった。一段、また一段と、広間の中央から遠ざけ、壁際へと引きずっていく。木が軋み、脚が石をこすり、その音が丸天井の下にこだました。続いて樽が転がされ、袋が運び出された。ずいぶん時間がかかった。健一は手伝おうと首を突っ込みかけたが、丁重に押しのけられた。
やがて広間の中央に、縦百肘、横六十肘ほどの場所が空いた。むき出しの石は、なめらかにすり減っている。そして柱。こればかりは、動かしようがない。
オルトヴィンはその場所を横切り、向こう側の端に立った。長衣の裾が、かすかに石をこすった。
「上でやれば、お前と魔導師とで、街の半分を焼いてしまうだろう」
ハラルトは彼に言った。
「あるいは凍らせるか。ここなら、遠慮はいらん。頭の上の街は、何ひとつ聞きつけはせん」
「ここは、すべて魔法の素材でできております」
オルトヴィンがそっけなく言い添え、手近な柱を指の節で叩いた。鈍く、詰まった音がした。
「丸天井も、壁も、扉も。この王国に、これより堅いものはございません。この避難所を設計したのは、ツィルヴェスターの先祖です」
リックは、鍛冶場で皆の頭上に浮かんでいた老人を思い出した。くしゃみで跳ね上がった帽子と、あの「わしは、たったの二百九十四歳じゃぞ」を。
(ヴァイスハウプト家ってのは、建てるものまで長生きらしい……)
カグツチがゆっくりと顔を上げた。丸天井を見る。柱を見る。氷の魔導師を見る。眼窩の熾火が、いっそう明るく燃え上がった。
マトゥンは壁際へ行き、床にそのまま座り込むと、大あくびをした。どうやら、ここをわが家のようにくつろいでいるのは、熊だけらしかった。
ハラルトが、空いた場所の端へ出た。カグツチは反対側の端に、氷の魔導師と向かい合って立った。二人のあいだには、百肘のむき出しの石が横たわった。ほかの者たちは、マトゥンのそばで後ろに控えた。
「腕比べは、三つの段で行う」
王の声が丸天井の下を転がり、こだまになって返ってきた。
「一つ目は、力だ。結晶はなし。それぞれが自分ひとりで何ができるのか、見せてもらう。一人が打ち、もう一人が受ける。それから交代だ」
カグツチは頷いた。オルトヴィンは身じろぎもしなかった。ただ、呪文書の装丁を握る指に、わずかに力がこもった。
「二つ目は、顕現だ。それぞれ、自分の属性に体を与えよ。使い魔のようなものだが、己の力から生み出す、自分だけのものだ。そして、その顕現は持ちこたえねばならん。体を失えば、その段は負けだ。ここでは、力はさほどものを言わん。決め手になるのは、魔導師の集中と辛抱だ」
王は、二人の魔導師を順に見た。あたりは、松明の爆ぜる音が聞こえるほど静まり返った。
「三つ目は、戦いだ。結晶を使う。石がお前たちの魔法を強める。あとは、見てのお楽しみだ」
「戦い」という言葉に、カグツチの眼窩の熾火がぱっと燃え上がった。オルトヴィンは、初めてかすかな笑みを浮かべた。
健一は、我慢できなかった。
「陛下、それで、判定は誰が?」
「余だ」
健一には、もう訊くことがなかった。
オルトヴィンはベルトから鎖を外した。急がず、ひと環ずつ。手近な柱のそばへ行き、表紙を上にして、呪文書を床に置いた。装丁の結晶が、松明の光の中でかすかにきらめいている。本は、そのまま横たわっていた。
カグツチは、ただ指を開いた。杖は落ちなかった。宙に浮かび、かすかに揺れている。杖頭の結晶が、火の神の呼吸に合わせて、弱く青く脈打った。吸えば、翳る。吐けば、また燃え立つ。杖は、主がもう一度手に取ってくれるのを待っているかのようだった。
まだ新しい杖だ。それなのに、もう主のほうへ寄っていく。
ハラルトは、長いことそれを見つめていた。
「驚いたな……」
王は静かに言った。
「品物が、これほど早く己の意志を持つとは……しかも、もう懐いておる……」
オルトヴィンも杖を見た。それから、冷たい石の上で微動だにしない、自分の呪文書を。口の端が薄い笑みにひきつり、氷の魔導師は短く舌打ちした。妬ましさを、隠そうともしなかった。
その間に、二人の従僕が、息を切らしながら階段から椅子を運び下ろしてきた。大きく、柔らかく、彫刻を施した高い背もたれのついた椅子だ。熊が挟まった螺旋階段をどうやって運んできたのか、健一は訊かなかった。ただ、敬意のこもった目で二人を見送った。
椅子は、空いた場所の脇、二人の魔導師のちょうど真ん中に据えられた。ハラルトはそこに腰を下ろし、背にもたれて、腹の上で指を組んだ。王の目は、期待に輝いていた。
「始めよ」
オルトヴィンは、相手のほうへ短く顎をしゃくった。
「お客人に、先手をお譲りしよう」
カグツチは自分の端に立ったまま、目を閉じた。深く、ひどくゆっくりと呼吸を始める。体の隅々で、己の力を感じ取ろうとするかのように。
力は封じられていた。それでもカグツチは、それを持つというのがどういうことか、覚えていた。何千年ものあいだ、それは彼そのものだった。忘れられるはずがない。だが、この世界では、その残り火でさえ感じ方が違った。もっと静かだ。かつてのように胸の中で燃えてはおらず、全身に散らばっていて、ひとかけらずつ拾い集めるしかなかった。指先から。肋骨の下から。吐くたびに熱くなる、喉の奥から。
彼は目を開け、自分の両手を見た。
火傷は、とうに癒えていた。だがカグツチは、あの峠を覚えていた。風の唸り。空に浮かぶ、翼のある山。まっすぐこちらへ飛んできた、咆哮する炎の塊。あのとき彼は、群れの長の最初の一撃を跳ね返した。どうやったのか、自分でもわからない。魔法が初めて、勝手に彼の中から迸り、竜の魔法とぶつかったのだ。
あの感触は、決して忘れない。痛いほど焼けつく炎。持ち主の魔法に、芯まで染め上げられた炎。その狙いは、ただひとつ。焼き尽くすこと。あのとき、両腕は肩まで焼けただれた。
カグツチには、悔やむことが多かった。己の愚かさ。今は封印の下で眠っている力。それでも、自分の力の感触だけは、はっきりと知っていた。
火の神は、もう一度目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
口から、四方へ炎の舌が飛び出した。縁は橙がかった赤、芯は黄色がかった白。石に落ちた火の粉は、すぐには消えなかった。空気が熱を帯び始める。カグツチのまわりに陽炎が揺らぎ、その輪郭が震えた。場の端にまで、乾いた熱気が流れてきた。ハラルトは、椅子の上で身を乗り出した。
リックは、火の神のまわりで揺れる空気をちらりと見た。
(またやりすぎるに決まってる……)
彼は王の椅子に歩み寄り、小声で言った。
「陛下、仲間の性分を知っているもので……」
リックは、まだたった一撃のために力を集めているカグツチに目をやった。
「この場の物を、囲っておいたほうがよろしいかと。あとで直さずに済むように」
ハラルトは、壁際の寝棚と、樽と、毛布の山を見た。それからリックを見た。そして、満足げに頷いた。
リチャードは片手を上げ、指を鳴らした。わざと、皆に見えるように。
場のまわりに、障壁が立ち上がった。分厚く、青みを帯びていて、見た目はまるで氷だ。障壁は頭上高くまで伸び、丸く閉じて円蓋になると、王の椅子の背もたれのすぐ後ろを通った。寝棚も、樽も、衛兵たちも、外に残った。健一とマトゥンも。
ハラルトは、横目でリチャードを見た。
「お前は、いったいどれだけ隠し事を持っておるのだ……」
「ただの、家に伝わる術にすぎません、陛下」
それから、そっけなく付け加えた。
「どうということはございません」
王はふん、と鼻を鳴らし、場のほうへ向き直った。
その向こうの端で、オルトヴィンは一撃を受ける構えに入っていた。彼のまわりの空気が、凍った水気の細かな粒で満ちていく。粒は気ままに舞い、松明の光の中できらめいては、また消えた。そちら側から、しんとした冷気が流れてきた。
氷の魔導師の唇が動いていた。呪文を唱えているが、遠くて言葉は聞き取れない。呪文書は柱のそばに置かれたままだ。そらで唱えているのだ。
粒が、一斉に止まった。そして互いに引き寄せられ、オルトヴィンの前に、透き通った結晶の壁がそびえ立った。壁はたわみ、彼を囲むように閉じた。
吐き出された炎の舌は、そのあいだにカグツチの手のひらへと集まり始めていた。彼は少しずつそれを押し縮め、溜め込み、炎を固めていく。頬骨がこわばり、こめかみに血管が浮き、息が短く、重くなった。これまでになく意識を研ぎ澄ませて、彼は力のかけらをひとつ残らずかき集めた。
手のひらの上に浮かぶ炎の塊は、やがてぱちぱちと乾いた音を立てて、四方へ火花を散らし始めた。火花は宙に漂う塵とぶつかり、その熱で、あいだを細かな電気が走った。まるで、小さな稲妻のように。円蓋の下に、雷雨の匂いが立ちこめた。
リチャードは王の椅子のそばから仲間の様子を見ていたが、ついに、威圧するような目でカグツチを見た。もういい、それで十分だ。
火の神はリックに半ば背を向けて立っていたが、その視線を、うなじで受け取った。炎を固めるのも、限界まで己を絞り出すのも、彼はやめた。
カグツチは、少しずつ指を握り込んで拳にした。中で炎がまたたき、外へ光が漏れた。そして拳から、ゆっくりと二本の指が伸びた。人差し指と中指が、ぴたりと揃って。残りの指は、握られたままだった。その指先に、炎の塊がとどまっていた。
ひと振りで、カグツチはそれを押し出した。
炎は場を横切って飛んでいった。その後ろで塵が舞い上がり、その粒が小さな稲妻を生んだ。ぱちぱちという音が、炎のあとを追って石の上を走った。
オルトヴィンが目を細めた。視線が、飛んでくる炎から塵の中の閃光へ、そしてまた炎へと走る。ずっと呪文を紡いでいた唇が、一瞬、乱れた。
炎が、結晶の壁にぶつかった。
氷は、溶ける暇すらなかった。その熱に、一瞬で蒸気へと変わった。蒸気は、氷よりはるかに多くの場所を必要とする。それが、四方へ弾けた。
耳がきんと鳴るほどの轟音がした。床が足の下で揺れ、こだまが丸天井の下を転がって、障壁の円蓋にぶつかった。場は濃い白い雲に包まれ、そこから扇のように破片が飛び散った。壁の、なれの果てだ。
そのいくつかが、王の椅子めがけて飛んできた。リックは一歩前へ出て、短く的確な手の動きでそれを脇へ払った。破片は石の床にかちんと当たり、散らばった。
カグツチまで届いた破片は、ひとつもなかった。彼のまわりの空気はまだ熱に揺らいでいて、氷は届く前に蒸発した。破片は乾いた音を立ててはじけ、ひとつ、またひとつと、雫ひとつ残さずに消えていった。
蒸気の雲は少しずつ薄れ、細かな雫になって障壁に降りていった。円蓋の中の空気は湿って生暖かくなり、息をするのも重かった。
オルトヴィンは後ろへ吹き飛ばされていた。背中はリックの障壁に押しつけられ、その前には、ひびだらけになった二枚目の氷の盾が立っていた。
氷の魔導師は身を起こした。乱れた髪を撫でつけ、長衣の裾を引き、肩の外套を直す。
「伊達に、この位を名乗っているわけではない」
彼は、むっつりと言った。
カグツチは、自分の端に立ったままだった。一歩も動かされず、かすり傷ひとつなかった。
ハラルトは、ひび割れた盾にちらりと目をやった。
「大した反応の速さだ……」
感心したように、王は言った。
二人の魔導師は、それぞれの位置についた。オルトヴィンは唇を固く結び、黙って元の場所へ戻った。自分に、満足していなかった。
今度は、彼が打つ番だった。
氷の魔導師は両腕を広げた。爆発のあとまだ宙に漂っていた水気が彼のほうへ引き寄せられ、円蓋の中の生暖かい湿り気が、みるみる引いていった。オルトヴィンの頭上で、氷が育っていく。小さく音を立てながら伸び、長くなり、尖っていき、やがて魔導師の頭上に一本の氷柱が浮かんだ。大きく、太く、先の鋭い氷柱だ。皆の吐く息が、また白くなった。
カグツチは、全身を炎で包んだ。あのとき鍛冶場で肌のひび割れを消した、爆ぜる音も熱もない、静かな炎だ。そして、一撃を受ける構えをとった。
オルトヴィンが放った。氷柱は宙を離れ、低く唸りながら場を突っ切ってきた。
ここで、疲れが体に出た。さっきの無理が祟って、膝が揺れ、肩がうずき、カグツチは半歩下がらざるをえなかった。彼は腕を振るい、氷の塊を、まるでバターのように断ち切った。手のひらが通ったところで、氷がじゅっと鳴り、湯気を上げた。
二つに割れた塊は、左右へ飛んだ。片方は障壁にぶつかって砕けた。もう片方は、まっすぐハラルトのほうへ飛んでいった。
リチャードが、すばやくそれを迎えにいった。氷の塊は、彼に触れることさえなく砕けた。ほとんど粉になるまで砕け散り、その粉は円錐を描いて広がり、リチャードの両脇を流れていった。王の上には、ひとかけらも落ちなかった。
王とリチャードは、二人の魔導師をともに褒めた。だが、ハラルトが手を上げたのは、火の魔導師のほうだった。
カグツチは力を抜いた。身を包む炎が鎮まり、呼吸が落ち着き、まわりの陽炎も少しずつ消えていった。そうなってようやく、彼がどれほど疲れているかが見て取れた。
ハラルトは少し間をおいて、落ち着いた声で告げた。
「二つ目の段。顕現だ」
王は、氷の魔導師に目を移した。
「勝ちは火の魔導師にあった。ゆえに今度は、筆頭宮廷魔導師オルトヴィン、お前から仕掛けよ」
氷の魔導師は片膝をつき、石に手のひらを当てた。爆発のあとに残った水の雫が、場のあちこちから彼のほうへ這い寄ってくる。続いて、塵も這ってきた。床に降りた蒸気で湿り、泥になっていたのだ。
オルトヴィンの顔が、落ち着いた、引き締まったものになった。ここは、彼の領分だった。彼はそれらを氷に練り込んでいった。一層、また一層と。湿った土が中に凍りつき、内側から氷を支える。ただの氷ならひびが入るところでも、この氷は持ちこたえた。
ほどなく、彼の前にゴーレムが立っていた。背丈は人の半分ほど、ずんぐりとして、凍りついた土で黒ずんでいる。土で補強した、氷のゴーレムだ。それがゆっくりと首を回すと、首の氷が小さくきしんだ。
カグツチは、目を離さずにじっと見ていた。オルトヴィンが水気を引き寄せるさま、土を氷に凍り込ませるさま、ゴーレムが首を回すさま。それから、真似をしてみた。こればかりは、彼は新米だった。
足元の炎は、なかなか、しぶしぶとしか集まらなかった。広がり、消え、また燃え上がる。カグツチは歯を食いしばった。何千年も彼の言うことを聞いてきた炎が、今は指のあいだからこぼれていく。ようやく、どうにかこうにか、小さな人のようなものが形になった。小さく、燃えさかる、子どもほどの背丈の。
小人は、足もとがおぼつかなかった。ふらりと揺れて四つん這いになり、濡れた石の上にじゅうじゅう鳴る跡を残しながら、這っていく。それから、どうにか立ち上がった。ふらふらと、しばらく立っていた。そして炎のくしゃみをひとつして、ころんと後ろへ、尻もちをついた。
障壁の外で、健一がこぶしを口に当てて咳き込み始め、なかなか止まらなかった。マトゥンは首をかしげ、おちびから目を離さなかった。
氷の魔導師は待った。長いこと。カグツチは、熾火が白むほど意識を集めた。おちびは少し大きくなったかと思えば、また小さくなる。大きくなって、また縮んでいく。
火の神は、黙って頭を抱えた。うまくいかない。何千年も炎そのものだった彼が、炎で小人ひとつ作れないのだ。そして、熾火が翳った。
オルトヴィンが、ゴーレムを前へ進ませた。ゴーレムは重い足取りで場を横切り、その足の下で薄い氷がぱりぱりと鳴った。おちびは、首をそらしてゴーレムを見上げた。ゴーレムがそばまで来て、拳を振りかぶったまさにそのとき、王が氷の魔導師のほうへ手を上げた。
ゴーレムは、拳を振りかぶったまま止まった。
「魔法だということは分かっておる。本物の子どもではないこともな……」
まるで感情のこもらない、落ち着いた声で王は続け、目をこすった。
「目に、何か入ったようだ……」
リックは王を横目で見たが、何も言わなかった。ハラルトはカグツチを見て、ほとんど分からないほどかすかに笑い、付け加えた。
「それは、もう鍛えるな。それと、どうか、たまにでいいから、あのおちびを余に見せてくれ……」
カグツチは、何と答えていいか分からなかった。王は、そこで二つ目の段を終わらせた。
ゴーレムは氷のかけらと泥のかたまりになって崩れ、炎のおちびは静かに消えた。石の上には、濡れた染みと、消えかけた火の粉がいくつか残っただけだった。
ハラルトは、ため息をついた。名残惜しそうに、ほとんど気づかれないほどに。その目はもう一瞬だけ、さっきまでおちびが座っていたところにとどまった。だが王の顔は、すぐにまた満足げなものに戻り、彼は告げた。
「三つ目の段。戦いだ」
オルトヴィンは呪文書を床から拾い上げ、ベルトに留め直した。指が装丁を握り、もう離さなかった。カグツチのほうは、ただ手を横へ伸ばし、手のひらを開いた。杖が、ひとりでにその手に収まった。
杖頭の結晶が、せわしなく、明るくまたたいた。
第二十三章をお読みいただき、ありがとうございます。
弘法にも筆の誤り。
何千年も炎そのものだった火の神にも、うまくいかないことがありました。
王の屋敷の地下に眠る、街ひとつぶんの避難所。
柱に刻まれた、日を数える線と、子どもが描いた竜。
火と氷の腕比べ、一つ目は火の神の勝ち。
二つ目は……王の目に、何かが入ったようです。
けれど、気になることもあります。
火花が塵とぶつかって走った、小さな稲妻。
それを見たオルトヴィンが、一瞬だけ詠唱を乱した理由。
次は、いよいよ結晶を使った戦いです。
面白いと感じていただけたら、ブックマークや☆での評価をいただけると、とても励みになります。
感想も、ひと言でも大歓迎です。
ニック・オッカム




