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無限の影  作者: Nick Occam


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第二十二章 石橋を叩いて渡る

いつも読んでいただき、ありがとうございます。


サイトが一時的に正常に動かなかったため、章の掲載順を取り違えてしまいました。

ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。


こちらが第二十二章です。

まだ第二十一章をお読みでない方は、先にそちらからどうぞ。


歓声と指笛に送られて、パーティー「大蛇墜つ」は伝令のあとに続いた。


人々は散らなかった。ひとかたまりになってついてきて、一行の背後の通りは、たちまち端から端まで埋まっていく。少年たちは前へ駆け出しては熊を振り返り、また人波の中へ潜り込んだ。


バルコニーからは、ハンカチが振られていた。誰かが野の花の束をマトゥンの足元へ投げた。熊はしばらくそれを横目で見ていたが、やがてそっと避けて通った。


リックは伝令と並んで歩き、まっすぐ前だけを見ていた。


(つまずかなきゃいいが)


一方のマイヤーは、満面の笑みだった。少し後ろを歩きながら左右に会釈し、まるで自分が迎えられているかのように群衆へ手を振っている。知り合いに何度か名前を呼ばれると、商人は得意げに帽子を持ち上げてみせた。


伝令は、まっすぐには進まなかった。大通りはゆるやかに右へ曲がり、さらにまた右へ、また右へと曲がっていく。まだ見えない何かを、ずっと回り込んでいるかのように。


左手には、鎧戸を開け放った家々と店と看板が並んでいた。右手には、灰色の石の壁が切れ目なく続いている。高さは人の背丈の倍ほど。扉はひとつもない。


道は上り坂になっていた。足がほとんど気づかないほど、ゆるやかに。だが振り返ると、ルドルフの鍛冶屋ははるか下にあり、今しがた通り過ぎたはずの屋根が、足元に並んでいた。


壁の向こうに、塔が見えた。明るい色の石、尖塔にはためく青い旗。リックが見て取れたのはその先端だけで、通りがまた曲がると、塔は家並みの陰に隠れた。


ひと巡りすると、塔はまた顔を出した。さっきより近い。そして、すぐにまた消えた。


健一は、声も立てずに口を動かしながら歩いていた。


「何を数えておるのだ」


帽子を押さえながら、カグツチが小声で訊いた。


「歩数です」


健一も同じく小声で答えた。


「ひと巡りするたびに、前より短くなってる。しかも毎回、同じ割合で。もう三回確かめました」


カグツチは、大いに感心した顔で彼を見た。何ひとつ分かっていないのは明らかだったが。


マイヤーが、それを聞きつけた。すかさず二人に追いつくと、帽子を直し、指輪をくるりと元の位置へ戻す。その目は、昨日の記念像の前とまったく同じように輝いていた。


「お気づきになりましたか!」


群衆がざわめいているというのに、彼は声をひそめた。


「この街を築いたのは、私のおじいさんなんです。あのおじいさんです。お住まいまでの道は、ひとつの螺旋になっている。それも、お日さまの巡りと同じ向きに巻いているんですよ」


「何のために?」


健一は、思わず訊いていた。


マイヤーは、まさにその言葉を待っていた。


「上ってくる者の右手に、いつも壁が来るようにです!」


彼は灰色の石を手のひらで叩いた。


「敵は剣を右手に持つ。ところがここでは、振りかぶる隙がない。一歩ごとに壁の上から矢が飛んでくるし、曲がった先に何が待っているかも見えない。千年のあいだ、頂までたどり着いた敵は一人もいないと言われています」


伝令が振り返りもせずに頷いた。この話は、ホーエンブルンでは誰もが知っているのだろう。


リックは、樫の木のそばの記念像を思い出した。小柄で、帽子をかぶり、大きな眼鏡をかけ、自分の頭より高い杖を持った男。左腕と引き換えに、竜の群れを追い払った男。


(こんなことまで考えていたのか。千年も前に)


リックは壁に手のひらを這わせた。石は日差しに温められ、なめらかだった。数えきれない人の手が、磨き上げてきたのだ。


マイヤーはそれに気づいて、口を閉じた。道中で初めてのことだった。ただ微笑んだ。静かに。群衆に向けていたのとは、まるで違う笑みで。


上へ行くほど、あたりは静かになっていった。群衆はまばらになり、ひと巡りするごとに、誰かが曲がり角に残っては、そこから手を振るだけになった。通りのざわめきは、もう下のほうから、壁越しにくぐもって聞こえるだけだった。


最後のひと巡りは、ほんの短いものだった。


右手の壁が途切れた。一行の前に広場が開け、その向こう、丘のいちばん上に、王の住まいが建っていた。


門まであと数十歩というところで、リックは異変を感じた。


うなじを、冷たいものが走った。彼はわずかに東へ顔を向けた。地平線のはるか向こうに、東の山脈が連なっているほうへ。


(誰かが見ている……?)


足取りは緩めなかった。何かを落としたかのように身をかがめ、石畳から砂粒をひとつ拾う。親指と人差し指でつまみ、身を起こすと、手を腰より上げないまま、右へ弾いた。


かすかな風切り音がした。砂粒は屋敷の角をかすめ、明るい石に細い傷を残して、地平線のほうへ消えていった。


伝令が、音に振り返った。壁を見て、空を見て、一行を見た。何も見つけられず、そのまま歩き出した。


リックは、砂粒を目で追おうともしなかった。


門の前では、衛兵たちが待っていた。磨き上げた胸甲をつけた、背が高く肩幅の広い男たちだ。十対ほどの目が、一斉に客人たちに注がれた。値踏みするように、挑むように。街じゅうの噂の主がどれほどのものか、試してみたくてうずうずしているのが見て取れた。


リックは、静かにその視線を受け止めた。脅すでもなく、苛立つでもなく。ただ、見ただけだ。


腕比べをしたいという気持ちは、あっという間に消え失せた。屈強な男たちは門を押し開け、伝令の前で左右に分かれた。そして揃いも揃って空を仰いだ。リチャードの仲間の誰とも、顔を合わせずにすむように。


健一は、通りすがりに小さく鼻を鳴らした。


中庭は、リックが思っていたよりも狭かった。細い尖頭窓、荒い石積み。金の飾りも、漆喰の装飾もない。宮殿というより、砦だった。


建物の中はひんやりとしていた。暑い通りから入ると、石の冷たさが肌に心地よかった。蜜蝋と、古い壁の匂いがした。


道中ずっと群衆に手を振っていたマイヤーは、ここでは別人のようだった。背筋を伸ばし、上着の裾を引き、指輪を石の側が内に来るよう回すと、ほとんど唇を動かさずにささやいた。


「話すのは、尋ねられたときだけ。陛下に背を向けてはいけません。お辞儀は……」


彼は熊を横目で見て、言葉に詰まった。


「まあ、熊さんは、何をしても許されるでしょう」


実際、マトゥンは努力していた。床は鏡のように磨き上げられていて、一歩ごとに爪が石を叩き、かちかちと高い音を立てた。熊は歩みを遅くし、そろりそろりと足を下ろした。音は、かえって大きくなった。


盆を持った侍女が壁に張りつき、熊が通り過ぎるまで、そのまま身じろぎもしなかった。


カグツチは帽子が何度もずり落ちるほど顔を上に向けて歩き、目に入るものを片っ端から眺めていた。彫刻の施された梁、紋章、鍛鉄の燭台。


長い回廊で、彼は足を止めた。


壁に、大きなタペストリーが掛かっていた。竜に覆われた空、その下で燃える街。そして、そのあいだに、帽子をかぶり大きな眼鏡をかけた小柄な男。左腕は肘まで炎に包まれ、右手には杖。杖頭に、五つの石。


火の神は、その石を長いこと見つめていた。自分の杖を握る指に、力がこもった。


「これは……」


カグツチが言いかけた。


「あとで、あとで」


マイヤーがしっと制した。だが、その目は輝いていた。


健一は、まるで別のところを見ていた。曲がり角を三つ過ぎるあいだに、衛兵も扉も窓も、すべて数え終えていた。リックと並んだところで、そっとささやく。


「門に八人。扉ごとに二人ずつ。中庭側の窓は、人の背丈三人分の高さ。いざとなったら、出口は回廊だけです」


「そうならないといいがな」


リックも同じく小声で答えた。


磨かれた床に、自分の姿が映った。王家の青、ベルトのサファイアの徽章。見知らぬ男が、晴れ着をまとって王に会いに行くところだった。


(馬子にも衣装、か……。それだけで済めばいいんだが)


回廊の突き当たりに、銀で縁取られた埋もれ木の高い扉があった。両脇には衛兵が二人、身じろぎもせずに立っている。交差させた斧槍が、行く手を塞いでいた。扉の向こうから、くぐもった話し声が聞こえる。


伝令は足を止めた。帽子の羽根を整え、袖を撫でつけて、一行を振り返った。


「謁見の間でございます。陛下はこちらでお会いになります」


斧槍が、左右に開いた。


リックは、ゆっくりと息を吐いた。


扉が震え、内側へと開いていった。


一行は、広々とした広間に入った。


入口には、王国の紋章を織り込んだタペストリーが掛かっていた。高い窓から光が差し込み、斜めの光の帯の中を、埃がゆっくりと舞っている。調度は贅を尽くしていたが、余計なものはひとつもなかった。見せびらかすような豪奢さも、廷臣の群れもない。壁際に、暗い色の上着を着た者が数人いるだけだった。扉の向こうから聞こえていた話し声は、一行が敷居をまたいだとたんに途絶えた。


ここは王宮ではなく、ただの住まいにすぎない。それでも、一歩ごとに、足音が丸天井の下にうつろに響いた。


質素な玉座に、年を重ねた長身の男が座っていた。頭は白髪に覆われ、まるで銀のようだった。手入れの行き届いた顎髭は短い。そのかわり、たくましい銀の口髭が、まず目に飛び込んでくる。


かつては見事だったであろう体は、今もまっすぐに保たれていた。厳しい眼差しは、今なお揺るぎない魂の力を放っていた。


灰髪王ハラルト。その名は、だてではないらしい。


玉座の側面、王の足元に、重厚な片手剣が立てかけられていた。鞘には、金と、天の青が象嵌されている。ヒンメルを鋳造するのと同じ、あの青だ。その青は、明るくなったり暗くなったりと、むらのある光を放っていた。まるで、息をしているかのように。


健一は思わず、鞘ひとつにヒンメルが何枚使われたかを見積もろうとした。そして、途中で数えるのをやめた。


金の模様のあいだには、白っぽい小さな結晶が、ほとんど透き通ったまま、ちりばめられて光っていた。


そして王冠には、ただひとつの結晶がはめ込まれていた。赤紫色の。


リックは、ほんのわずかに目を細めた。


(赤紫……。言い伝えのとおりだ)


王が一行を眺めているあいだ、王冠の石は、ときおり紫色にきらめいた。


王は、印章指輪をはめた手を上げ、リチャードを指さした。


「近う寄れ」


ハラルトが、落ち着いた深い声で言った。


マイヤーが、そっとリックの背中を押した。


リックは前へ進み出ると、たくましい体を折り、片膝をついた。


「パーティー『大蛇墜つ』か……」


王は、間延びした声で言った。


「ずいぶんと大仰な名だな」


左手の指で肘掛けをとんとんと叩きながら、王は乾いた笑みを浮かべていた。その目に、面白がるような光が宿った。


「リチャード・オッカム、面を上げよ」


リックは顔を上げた。王を見つめ返したのは、恐れも動揺もない目だった。


ハラルトは、その視線を受け止めた。それから、声を上げて笑い、右の拳で軽く玉座を打った。


王は、火の魔導師の杖に目をやった。杖頭の石に、視線がとどまる。青みを帯びた薔薇色の石が、今は鮮やかな青にまたたいていた。


ハラルトは、またリックに向き直った。


「なるほどな。素手で竜を殺す男が、人間ひとりを前にうろたえるはずもない」


笑いは、始まったときと同じくらい早く収まった。


「お前の目を見ていると」


ハラルトは続けた。


「お前とだけは、一騎打ちなどしたくないものだ」


それから王は、指輪をはめた手を上げ、カグツチの手にある杖を指さした。正確には、その結晶を。目が、いたずらっぽく光った。


「お前のその目つきと、石がもう杖にはめ込まれていることからして、リチャード、それを王家に差し出すつもりはなさそうだな」


ハラルトは目を細めた。


「たとえば……ヒンメル五万枚でも、か?」


健一は、めまいを覚えた。唇がひとりでに桁を数えはじめ、途中で止まった。


「陛下、まことに残念ながら」


リックは答えた。


「差し出すつもりは、ございません」


落ち着いた、ほとんど冷ややかなほどの答えに、ハラルトは少しも驚かなかった。


パーティーの長は、言葉を慎重に選んだ。


「我らの火の魔導師は、深手からの回復の途中にあります。結晶なしには、どうにもなりません」


王の返事は早かった。眉が、ぐいと上がった。


「結晶、と言ったか?」


ひと呼吸おいて、王は言った。


「お前たちのパーティーは、竜を狩るつもりなのか?」


「よほどの必要がない限りは、いたしません、陛下」


リックの答えは控えめだったが、はぐらかしてはいなかった。


ハラルトの視線が、結晶からカグツチへ、カグツチからリックへと移った。そして、また指輪で石を指した。


「リチャード。手に入れて国に持ち込んだ結晶は、どんなものであれ王家のものだと、知っているか?」


リックの顔の筋ひとつ、動かなかった。


「聞かされてはおりません、陛下。ですが、察しはついておりました」


彼は、まっすぐに、きっぱりと言った。


「それを分かった上で、どうなってもいいと覚悟していたのだな?」


リックの目には、迷いの影ひとつなかった。


「はい。事と次第によっては、手荒な手段も辞さなかったでしょう」


王にも、返ってくる答えは分かっていた。それでも、続けた。


「手荒な手段、か……」


ハラルトは目をすがめた。その顔が、ふいに怒りに染まる。声が、一段高くなった。


「どのようなものだ。答えよ」


マイヤーが震え出した。伝令の帽子の羽根が、小刻みに揺れた。


「申し訳ございません、陛下。私の答えは、きっとお気に召さないでしょう。ですから、重ねてお許しいただきたいのですが、口をつぐませていただきます」


そしてリックは、静かに黙った。


「この街を消し去る覚悟か……?」


ハラルトの声には、あからさまな芝居が混じっていた。


答えは、沈黙だった。


「王国を……?」


リックの顔が、いくらか引き締まった。王が勝負の熱に乗ってきたのを、彼は感じ取った。だが、ハラルトがリックの顔を見つめれば見つめるほど、王の声は小さくなっていった。


「まさか、世界ご……」


ハラルトは、言葉の途中で自分を止めた。この男をこれ以上からかう気は、王にさえ起きなかった。


リックは、胸いっぱいに深く息を吸った。その顔に、穏やかさが戻った。


「重ねて、お詫び申し上げます、陛下」


リックの落ち着きは、ハラルトにも移った。王はもう一度リックを、それから一行全員を眺めた。そして、指をぱちんと鳴らした。


二人の従僕が、黒ずんだ金具で縁取られた、赤い樫の大きな長持を運び込んできた。


王は、リチャードの仲間たちに目をやった。仲間たちは言われずとも察して進み出て、リックの隣に片膝をついた。マトゥンはただ歩み寄ると、腰を下ろし、頭を垂れた。


灰髪王ハラルトが、玉座から立ち上がった。広間にいる者は皆ひざまずき、目を伏せたまま動かなくなった。


長持のそばの廷臣が蓋を開け、きらめく銀色の金属の鞘に収まった長剣を取り出した。


王はその剣を受け取り、抜き放った。


星の輝きのような光が、広間を眩ませた。


ハラルトはリックの前へ進み、剣の長さぶんの距離で止まった。刃の平たい面が、リックの右肩に置かれた。冷たく、重い。それから、左肩に。


「リチャード・オッカム」


王の声が、丸天井の隅々まで満ちた。


「ホーエンマルクの境を守り、王家に手を上げぬと誓うか」


リックは、すぐには答えなかった。ほんの一瞬、自分の手のひらを見つめた。それから、隣でひざまずく者たちを。


「誓います」


背後で、マイヤーのささやきがかすかに聞こえた。


「手……手を、陛下に……」


王が、合わせた両手を差し出した。リックはその間に、自分の両手を収めた。ハラルトの乾いた、固い指が、彼の手を包んだ。力は込めずに。だが、緩めもせずに。


「立て、クロイツフルト辺境伯(マルクグラーフ)」


リックは立ち上がった。新しい呼び名は、剣よりも重く肩にのしかかった。


ハラルトは輝く剣を廷臣に返し、廷臣はそれを、丁寧に長持へと戻した。


「クロイツフルトは、二本の道が交わるところにある浅瀬だ。ホーエンブルンのすぐ先にある。一本は東の王都へ、もう一本は南へ延びている。西から来てホーエンブルンを越えたものは、すべてこの浅瀬にぶつかる」


王は口髭の下で、かすかに笑った。


「兵はやらん。たった一人で竜を二頭も倒す男には、要らんだろう」


王が頷くと、別の廷臣が、小ぶりの片手剣を捧げ持ってきた。


淡く青みを帯びた明るい木の鞘に、細い銀の象嵌。柄は、竜の骨を彫ったもの。


リックには、すぐに分かった。ついさっき鍛冶屋で、ルドルフが手にしていた剣だ。手にしていながら、とうとう一言も触れなかった剣。


(食えない爺さんだ)


「ルドルフ親方が、王家の注文で鍛えたものだ」


ハラルトが言った。


「自分では、どうしても渡す踏ん切りがつかなかったと、伝えてくれとのことだった」


「私には、武器は要りません、陛下」


「分かっている」


ハラルトは、それでも剣を彼の手に預けた。


「竜のためのものではない。この浅瀬に立つお前の権利に、異を唱えようとする者たちのためのものだ」


リックは黙って、柄の彫りを親指でなぞった。


続いて、畳んだ布が運ばれてきた。王は自らそれを広げた。


外衣(タバード)だった。王家の青に染めた厚手の毛織物で、縁には細い銀糸。胸にはホーエンマルクの紋章、冠をいただく三つの銀の峰。その少し下の左寄りに、半分ほどの大きさで、銀の縁取りをした淡い青の鱗がひとつ。


「霜鱗騎士団の徽章だ」


ハラルトは言った。


「五百年、一度も集まることのなかった騎士団のな。その長たる者は、これを身につけねばならん」


リックは外衣を、胴着の上からそのまま被った。鍛冶屋のときと同じく、ひと息のうちに。脇の切れ込みから、胴着の青い鱗がのぞいた。


背後で、マイヤーが大きく鼻をすすった。どうやら、涙をこらえるのに必死らしかった。


王は、カグツチの前へ進んだ。


「立て、魔導師。今日よりお前は、ホーエンマルクの宮廷魔導師(ホーフマギスター)だ」


カグツチは立ち上がった。廷臣が王に淡い青の鱗を差し出した。リックの外衣にあるのと同じものだ。ハラルトはそれを、火の神の手のひらに置いた。


カグツチは誇らしげに背筋を伸ばし、徽章をベルトに留めると、口を開きかけた。結晶のことを訊きたくて、たまらなかったのだ。


「頼むから、余の屋敷を燃やしてくれるなよ」


王が、先手を打った。


カグツチは、口を閉じた。


廷臣が、再び輝く剣を王に差し出した。次は健一だった。刃が、片方の肩に、それからもう片方の肩に触れた。


「立て、騎士よ」


健一は立ち上がった。王は彼の手にも、同じ鱗を置いた。


元密偵は手のひらに目を落とし、固まった。鱗は、むらのある光を放っていた。明るくなったり、暗くなったり。まるで、息をしているかのように。王の剣の鞘と同じ、天の青。パーティーの会計係になってからずっと、袋に入れて持ち歩いているヒンメルと同じ青。


今度ばかりは、健一も数えようとすらしなかった。


ハラルトは一瞬彼のほうへ身をかがめ、ごく小さな声で何かを告げた。それを聞いたのは、健一ひとりだけだった。健一はかすかに青ざめ、それから短く頷いた。そして徽章をベルトに留めた。ひどく、大切そうに。


最後に残ったのは、熊だった。


広間は、蝋燭の芯がはぜる音が聞こえるほど静まり返った。壁際の廷臣たちが、顔を見合わせる。誰かが、手のひらで口を覆った。


ハラルトは、マトゥンの前で足を止めた。熊は大きな頭を垂れて座り、下から王を見上げていた。


「マトゥン。浅瀬の番人(フルトヴェヒター)」


王は、その額に手のひらを置いた。


「今日より、クロイツフルトの紋章には熊が描かれる」


マトゥンは、喉の奥で低く、静かにうなった。


王は鱗を差し出した。熊はそれをそっと歯でくわえると、背筋を伸ばし、得意げに鼻面を上げて、じっと動かなくなった。


壁際で、誰かがこらえきれずに袖の中へ吹き出した。


「番人さま……」


熊は、徽章をくわえたまま、声のしたほうへ首を向けた。壁際の笑い声は、ひとりでに消えた。


すべての称号が授けられ、一行が再びひざまずくと、ハラルトは剣を長持に戻し、厳しい目で広間を見渡した。壁際の廷臣たち、書記たち、扉の衛兵たち。リチャードの一行を除く、すべての者を。


その一瞥で、十分だった。広間は、ほとんど一瞬で空になった。伝令は振り返りもせずに出ていった。マイヤーは扉のところまで後ずさりしながら、一歩ごとに頭を下げた。扉が閉まった。


「立て」


一行は、膝を伸ばして立ち上がった。


「結晶の話に戻ろう」


ハラルトは、玉座の背にもたれた。


「魔導師カグツチが、余の筆頭宮廷魔導師(エルツマギスター)に勝てたなら……」


王は、咳払いをした。


「うむ。戦いではない。ちょっとした腕比べだ。そちらの火の魔導師が勝てば、結晶は正当にお前たちのものと認められる」


王は少し黙り、今度は笑みを消して言い添えた。


「掟は掟だ。結晶をただでくれてやれば、明日には諸侯がこぞって自分の分を寄こせと言ってくる。だが、ホーエンマルクの筆頭宮廷魔導師から正々堂々と勝ち取ったものに、異を唱えられる者はおらん」


それから王は、静かに呼んだ。


「オルトヴィン」


脇の扉が、ほとんど音もなく開き、魔導師がひとり入ってきた。


それと一緒に、冷気が流れ込んだ。扉のそばの蝋燭の炎が揺らぎ、いちばん近い窓のガラスに、薄く霜が浮かんだ。


年のころは五十ほど。見たところ、カグツチと同年配だ。背丈は中ほどで、華奢な体つき。長い髪に、まばらな顎髭と口髭。そして、玉座へ歩み寄るあいだに一行の一人ひとりを探るように見て取った、鋭く抜け目のない眼差し。


身にまとっているのは、足首まで届く銀灰色の長衣で、高く硬い立ち襟がついていた。裾と、細い袖の折り返しには、白い糸で霜の模様が縫い取られている。肩に掛けた紺色の外套を、喉元で銀の留め金が留めていた。


杖は持っていなかった。手にあるのは、重い装丁の呪文書だけ。細い鎖が、それをベルトにつないでいる。そして、その表紙には、結晶がはめ込まれていた。青緑色の。


リックは、その石に目を留めた。


(青みがかった、深い緑……)


「オルトヴィン・ライフ」


王が紹介した。


「ホーエンマルクの筆頭宮廷魔導師だ」


氷の魔導師は、短く頭を下げた。王には深く。一行には、礼儀が求めるきっかりの分だけ。


ハラルトは、リチャードを見た。


「はい、陛下」


リックは、落ち着いて答えた。


そして、じっと自分を見つめていた火の神に、頷いてみせた。


カグツチの空っぽの眼窩で、熾火がいっそう明るく燃え上がった。


第二十二章をお読みいただき、ありがとうございます。


石橋を叩いて渡る。

王ハラルトは、リックという石橋を、何度も叩いてみせました。


「どのようなものだ。答えよ」

その問いに、リックは沈黙で答えました。


辺境伯の位。ルドルフが最後まで黙っていた、一振りの剣。霜鱗の外衣。

熊にまで、紋章が与えられました。


けれど、気になることもあります。

門の前で、リックが地平線へ弾いた砂粒。

王が健一にだけささやいた、ひと言。

そして、筆頭宮廷魔導師の呪文書にはめ込まれた、青緑の結晶。


次は、火と氷の腕比べです。


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感想も、ひと言でも大歓迎です。


ニック・オッカム


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