第二十一章 馬子にも衣装
その夜、眠らなかったのはリックと熊だけだった。
宿はとうに静まり返っていた。階下ではしばらく食器の音と低い話し声が続いていたが、やがて扉が閉まり、誰かが閂を下ろすと、建物は静けさに沈んだ。暑かった昼の熱が抜けていくのか、ときおり床板がひとりでに軋むだけだった。
リックは両手を頭の後ろで組んで仰向けになり、半分だけ目を閉じて休んでいた。マトゥンはベッドの脇の床に長々と寝そべっていたが、その耳は窓の外の物音ひとつにも、ぴくりぴくりと向きを変えた。
そのかわり、仲間たちはぐっすりと眠っていた。
健一は毛布の中で丸くなり、静かな寝息を立てている。カグツチのほうは、いびきをかいていた。ベッドいっぱいに両腕を投げ出し、ひゅうひゅうと音を混ぜた、盛大ないびきだ。いびきのたびに、その口から火の粉と小さな炎の舌が飛び出した。まるで生きているかのように。それらは暗がりの中でしばらく彼の上を舞い、天井に届く前に消えていった。
リックは、またひとつ舞い上がった火の粉を目で追い、小さく言った。
「感じるか、兄弟」
熊は答えなかった。ただ頭をもたげ、険しい目つきで窓の外を見た。屋根の連なりの向こう、地平線のいちばん端に、遠く細く黒ずんだ山の稜線がのぞいている。
熊は長いことそちらを見ていた。やがて、また前脚の上に鼻面を下ろした。けれど、目を閉じることはなかった。
ほんの一瞬、リックは自分がうとうとしかけたように思った。思考がゆるみ、とろりと温かくなっていく。
そのとき、部屋の中に足音がした。
軽く、そっとした足音。誰かを起こすのを恐れる人の歩き方だった。
扉が細く開き、年配の女が入ってきた。小柄で、痩せていて、黒っぽい頭巾をかぶっている。両手に水の入った素焼きの水差しと杯を持ち、脇には大きな鉢を抱えていた。熊のための鉢だ。
女は音を立てないように気をつけながら、それらを机に置いた。鉢に水を注ぎ、マトゥンのほうへそっと押しやる。
リックの胸の内が、温かくなった。これほどの気遣いを、ひと言も口にせずに。
昔のことが、ふいに込み上げてきた。リックは微笑み、目を閉じて、またまどろんだ。
女は熊の大きな頭を撫でた。マトゥンはしばらく、その足にすり寄った。女は満足そうな顔で熊の首に腕を回し、少しのあいだそうしていた。それから身を起こし、部屋を出ようとしながら、ほとんど聞き取れない声で言った。
「おやすみなさい、子どもたち……息子のこと、ありがとうね……」
扉のところで、女は振り返った。深く頭を下げ、両手を合わせて祈った。
「どうか神様が、あなた方の旅路に力をお与えくださいますように」
そして、ゆっくりと出ていき、静かに扉を閉めた。
結局、眠ることはできた。ただ、夢はひとつも見なかった。
*
リックが目を覚ましたのは、誰かの濡れた冷たい鼻先が顔を突いてきたからだった。
片目を開けると、すぐ上に巨大な熊の顔があった。
「起きる、起きるって……」
リックは熊の首筋を優しく撫で、首まわりの深い毛をつかんだ。マトゥンはそれを待っていたかのように、ゆっくり後ずさりして、リックをベッドから引っぱり出した。
リックは軽く体をほぐし、首をこきりと鳴らした。机まで行き、水差しから水を飲む。ひと晩置いた水は、ひんやりと冷えていた。
胸いっぱいに息を吸い込み、部屋を見回した。
仲間たちのベッドは空だった。健一の毛布はきっちりと四角く畳まれ、カグツチの寝床はぐしゃぐしゃに丸まっていた。枕には、小さな焦げ跡がひとつ黒く残っている。
リックはマトゥンの背中を軽く叩いた。
「兄弟、朝飯に行こう」
食べ物の話を聞いたとたん、熊はぱっと元気になった。先に立って戸口を抜け、危うく枠を壊しかけながら、二人は急いで階下へ向かった。
階段で、リックは寝癖のついた髪を両手で撫でつけ、後ろへかき上げた。
下から、焼きたてのパンと炙った脂身と、何か甘いものの匂いが漂ってきた。
縦四十肘、横三十肘の広間は、朝からほとんど身動きが取れないほど混み合っていた。話し声が渦を巻き、杯がぶつかり合い、テーブルのあいだを給仕娘たちが盆を手に行き交う。誰かが麦の値段で言い争い、隅では誰かがもう歌い始めていた。
広間のいちばん奥で、誰かが手を振っていた。人混みにさえぎられて、誰なのかはわからない。目を凝らすと、頭の群れの上に、小さな娘の手のひらが見えた。
それで、すべて合点がいった。
料理が所狭しと並んだテーブルのベンチに、リーゼルが座っていた。向かいにはカグツチと健一。火の神は陰気なほど真剣な顔で、もう三杯目の粥をかき込んでいる。元密偵のほうは、炭のかけらで紙切れに何やら書きつけていた。マトゥンは通路をふさがないよう、テーブルの端の壁際に寝そべった。そうすると、ちょうど頭がテーブルと同じ高さになった。
リーゼルが、自分の隣のベンチを軽くぽんぽんと叩いた。
「リチャード様、どうぞこちらへ」
断る理由はなかった。朝から腹が減って仕方がない。
リックはスープの椀を引き寄せ、丸パンをひとかけちぎって、ゆっくりと食べ始めた。とろりと濃く、香草の効いたスープだった。
それから、隣の娘に目を向けた。
「リーゼルさん……ひとつ伺っても? どうして、俺たちと同じ宿に泊まっているんです?」
リーゼルは耳まで真っ赤になった。リックの顔と手の中の匙を、交互にちらちらと見ている。
健一は、いたずらっぽく目を細めてその様子を眺めていた。それから兄貴分のほうへ視線を移し、口の端だけで笑った。
「兄貴、もてますね」
この絵に描いたような光景をもう少しだけ楽しんでから、健一は表情を引き締め、炭のかけらを置いた。
「今朝、誰よりも早く起きて、ゆうべの夕食までの収支を締めてみました」
彼は革の小袋をテーブルに置いた。中には金貨がひと握り。竜を倒した、その報酬だ。小袋は、ほとんど音も立てずに板の上に落ち着いた。鳴るほどの中身が、そもそもなかった。
「このままじゃ破産です。夕食と部屋代で、金貨が一枚飛びました」声に不安がにじむ。「わかってますか? 釣り銭すらないのに、この先も毎回こんな額を払い続けるなんて無理ですよ」
健一は手のひらでテーブルを軽く叩き、首をかしげて一同を見回した。
「すぐにでも、何か依頼を受けないと。とにかく金が要るんです」
リックは、スープを平らげながら頷いた。
健一は火の神を見た。カグツチは粥から顔も上げず、異論はないという様子だった。最後に元密偵は熊へ目を向けた。マトゥンは、一生懸命に頷いてみせた。
リーゼルが、怪訝そうに一同を見つめた。
「依頼、ですか? リチャード様」彼女は困惑した顔で皆を見回した。「まさか、お忘れなんですか?」
「何をです?」リックは果物のパイに手を伸ばしながら尋ねた。
「近いうちに、正式に爵位を授かるんですよ」
全員が揃って頷いた。パイをもぐもぐと噛みながら。驚いた様子は、ひとかけらもなかった。
リーゼルはため息をついた。それから鞄から手紙を取り出した。
厚手の、黄ばんだ紙。赤い封蝋。その封蝋には、王冠。
隣のテーブルが、目に見えて静かになった。
「今朝、ギルドに届きました。速達です」
彼女はペーパーナイフを手に取り、慎重に封を切って紙を広げた。小さく咳払いをして、読み上げる。
『サファイア級冒険者パーティー「大蛇墜つ」、リチャード・オッカム殿
昨夜遅くに届いた新たな知らせを鑑み、余は貴殿に直々に会い、貴殿の活動について多くを語り合いたいと望む。
これにて筆を置く。近く相見えん。
ホーエンマルク国王、灰髪王ハラルト』
その下に、王家の印章の跡が黒々と押されていた。
全員の目が丸くなった。マトゥンの口から、噛みかけのパイがぽろりとこぼれ、テーブルにべちゃりと落ちた。
「マイヤーさん、どうやら陛下に何もかも伝えたみたいですね」健一が結論づけた。
リックは最後のパイのひと切れを食べ終えた。杯の酒をゆっくりとすすり、娘の手にある手紙を見やる。
「早いほうがいい」満ち足りた息をついた。「そのぶん、早く依頼に取りかかれます」
そこで、リーゼルがはっとして声を上げた。
「あっ! 忘れるところでした!」
鞄から、二通目の手紙が出てきた。そちらには、封蝋が二つも押されていた。商人ギルドの長の印と、冒険者ギルドの印だ。
リーゼルは封を切り、最初の数行に目を走らせると、眉がすうっと上がった。
『「大蛇墜つ」の皆様へ
パーティーの皆様にお知らせいたします。四つ星および五つ星のすべての冒険者パーティーが不在であることを受け、皆様には、二つ星以上の難度の依頼を受けることを許可いたします。両ギルドの印が付された依頼も、これに含まれます。
敬具 冒険者ギルド長 ライムント・エッゲルト』
「面白いですね……」リーゼルは指で一行をとんとんと叩いた。「これまでの決まりでは、自分の階級よりひとつ下の依頼までしか受けられなかったんです。それに、高位のパーティーはみんな、どこへ行ってしまったんでしょう?」
彼女は唇を噛み、数秒考え込んだ。
「たったひと晩で、何が起きたのかしら」
その問いに答えられる者は、誰もいなかった。
*
一時間も経たないうちのことだった。
皆、のんびりと腰を落ち着けて酒をすすっていた。カグツチはようやく粥を平らげ、今は杯の底をしげしげと眺めている。健一は三度目の金貨勘定をしていた。数えるうちに増えてくれないかと願っているかのように。マトゥンは、うとうとしていた。
その間に、客たちは少しずつ広間を出ていった。ひとり、またひとりと、急ぐでもなく。そして誰もが通りすがりに、彼らのテーブルをちらりと見ていった。
不意に、宿の扉が勢いよく開き、壁にぶつかった。
若いドワーフが飛び込んできた。顔は真っ赤で、髭はぼさぼさ、胸は大きく上下している。彼は広間を見回し、彼らのテーブルを見つけると、まっすぐに駆け寄ってきた。
リーゼルが、目を輝かせて振り返った。
「ハルトムート兄さん、もうできたの?」
ドワーフは息が切れて、ひと言も出てこなかった。顔いっぱいに思いがあふれている。彼はただ頷いた。何度も何度も。
リーゼルは手を叩いて立ち上がった。リックの手をつかみ、ぐいと引っぱる。
「リチャード様、早く行きましょう! 新しい装備、見たくてたまらないでしょう?」
リックは、その知らせをまったく平然と受け止めた。
仲間たちのほうは、そうはいかなかった。健一もカグツチも顔を輝かせていたが、とりわけ火の神がそうだった。彼は両の拳を握りしめ、頭上へ突き上げた。
「ようやく、まともに力が使える。よし!」
まだ残っていた何人かの客がびくりとして、念のため少し椅子を引いた。
会計係は両手をすり合わせた。もう刃を握っているかのように。
「ずっと、二刀に憧れてたんです」
マトゥンは片目だけ開け、リックと同じくらい無関心な顔で、その騒ぎを眺めていた。
リックはびくとも動かなかった。そこで火の神と密偵が彼の背中に手のひらを当て、リーゼルに加勢して押し始めた。壁を押すのと、たいして変わらなかったが。
「行く、行くって……」リックはため息をついた。「せっかく、いい感じに座ってたのに」
しょんぼりとした顔で、彼は飲みかけの酒の杯をテーブルに置いた。名残惜しそうに、もう一度だけそれを見る。別れを告げるように。それから立ち上がり、皆で通りへ向かった。
宿を出るとき、リックは朝日に顔を向け、気持ちよさそうに伸びをした。だが、リーゼルはすぐさま彼を引きずっていった。
「早く! 職人さんたちが待ってるんです!」
*
まずは仕立屋エメリヒの店に寄った。
扉の上の鈴が、昨日と同じように鳴った。蝋と新しい布とラベンダーの匂いも、昨日と同じだった。ただ、エメリヒ本人の姿は見えない。出迎えたのは妻のメヒティルトだった。目の下には隈ができていたが、その笑顔は晴れやかだった。
彼女は一行を試着室へ案内した。
そこには、一人ひとりのために、きちんと畳まれた服がひと山ずつ置かれていた。それぞれの山の上には、細い筆跡で名前を記したカードが添えてある。
真っ先に自分の山へ駆け寄ったのは健一だった。火の神も負けてはいなかった。急いでなどいない、という顔をしながら。リックにはこうしたものはさほど必要なかったが、誰の気持ちも傷つけないよう、仲間にならって着替え始めた。
服はすべて最上の布で仕立てられ、しかもすべてが王家の青だった。窓から差す光の中ではほとんど暗い色に見えるのに、影に入ると不意に青く燃え立つ。それほど深い青だった。
火の神のために用意されていたのは、ゆったりとしたシャツと、動きを妨げない幅広のズボン。青竜の革でできた軽い靴と、同じ革のベルト。呪文書を収める革の物入れ。床まで届く、ゆったりとした外套。
そして仕上げに、とんがり帽子。魔法使いの帽子だった。
カグツチは、その帽子を大いに疑わしげに眺めた。手の中でくるりと回し、何か仕掛けでもあるのかと中をのぞき込む。そうして帽子を手にしたまま、鏡の前へ行った。
鏡の中から、背の高い、痩せこけた男がこちらを見ていた。
灰色の肌には、干上がった大地のようなひび割れが走っていたが、その奥に炎がまたたくことは、もうなかった。煙のような灰色の髪を、彼は後ろでひとつに束ねていた。眼球のない眼窩には二つの小さな炭が沈み、かすかに燻っている。
彼は長いあいだ、鏡の中の自分を見つめていた。青い布を。外套を。
痩せた体と角ばった顔立ちは、意外なほど魔法使いの姿に似合っていた。
カグツチはため息をひとつつき、結局、帽子をかぶった。少しだけ斜めに。
会計係のために仕立てられたのは、厚手の布のゆったりしたズボンと、竜革の頑丈な靴。軽くてよく伸びる布のシャツ。そしてその上に、竜の背の革で作った上着。大きな襟と、二列のドワーフ式の留め具がついている。
健一は、さっそくそれを調べにかかった。
内側の留め具を閉じると、襟が立ち上がって顔を鼻まで覆い、目と耳だけが出るようになっていた。外側の留め具は左右どちらからも外すことができ、その下には隠しポケットと小さな武器を留める金具が、山ほど隠れていた。袖にも仕掛けがあった。肘までの鋲を外すと、ナイフを差すための留め具が並んだ裏地が現れるのだ。
竜革のベルトには、両脇に小さな物入れがついていた。ほかに、腰に下げる小鞄がいくつかと、旅用の背嚢がひとつ。どれも見たことのない、驚くほど軽い革でできていた。
健一は襟を目の下まで閉じた。開けた。また閉じた。ポケットをひとつ残らず開け、金具をひとつ残らずのぞき込む。
着替え終えると、彼は子どものようにはしゃいだ。
人好きのする顔立ちの、三十を少し過ぎた男。背丈は中くらいで、リックより頭半分低い。頭頂の髪は中ほどの長さで、こめかみはきれいに剃り上げてある。けれど無精髭のほうは、剃らずにおいた。こうして新しい上着を着て、その無精髭を生やしていると、いかにも密偵らしく見えた。そして本人も、どうやらそれがひどく気に入っているらしかった。
リックに用意されていたのは、青竜の首から剥いだ皮のゆったりしたズボンだった。そこの鱗は、仲間たちの装備に使われたものとは、硬さもしなやかさも違っていた。細かく、ぴたりと隙間なく並んだ鱗は、動くたびについてきて、ほとんど音を立てなかった。
ベルトも、同じ革だった。その留め金に、リックは自分のサファイアの階級章を下げた。それから、襟のない、七分袖の軽くゆったりしたシャツ。
リックは肩を回した。しゃがんだ。立ち上がった。突っ張るところも、邪魔になるところも、どこにもない。
彼は満足げに頷いた。
その隣に、四つ目の服の山があった。誰も手をつけていない。そこへマトゥンがのそのそと歩み寄り、前脚をのせた。すると、山はふっと消えた。
メヒティルトはまばたきをした。だが、何も尋ねはしなかった。
皆の支度がすっかり整い、店を出ようとしたところで、メヒティルトが慌てて一行を呼び止めた。そして工房の奥にある目立たない扉へと案内した。その裏口は、そのまま鍛冶屋の店へ通じていた。
*
鍛冶場は、ひと晩のうちに何倍にも広がっていた。
リックは、その場に立ち尽くした。仲間たちも同じだった。
中では、職人たちが大勢で待ち構えていた。それも、鍛冶屋だけではない。
宙には老ツィルヴェスターが浮かんでいて、その傍らには、魔法の品を詰めた鞄を抱えた彼の店の者たちが控えている。革の見本と荷を抱えたドワーフの一団が、ルドルフとその弟子たちと何やら大声で話し込んでいた。彼らは拳で互いの肩を叩き合い、あまりに楽しそうに笑うので、少し離れたところで錬金術の道具や薬瓶、霊薬を抱えた男たちまで、つられて笑っていた。何がおかしいのか、たぶんわかってはいなかったが。
炭と熱い鉄と、何か苦い薬草の匂いがした。
一行が入っていくと、皆いっせいに口をつぐみ、振り返った。しんと静まり返る。聞こえるのは、炉の中で爆ぜる炭の音だけだった。
ルドルフがリチャードのもとへ歩み寄り、くるりと向き直ると、その場にいる全員を大きな身ぶりで示した。
「ここにいる職人はみんな、お前さんたちの装備を作るために、ひと晩じゅう働き通したんだ」
ただそれだけの言葉だった。けれど、その背後でドワーフたちが背筋を伸ばし、誰かが煤けた袖でそっと目もとをぬぐった。
ルドルフが言い終えるのと同時に、仕立屋のツァイドラー一家、エルフたちが加わった。幼いアルフレートは母親のスカートの陰に隠れ、目をまんまるにして熊を見上げていた。
「さあて、皆さん」ルドルフは髭の中で笑った。「どうか、わしらの仕事を試してくれ」
鍛冶屋は、開け放たれた棚を指さした。装備と武器が並んでいる。
いちばん上の段に、黒い鞘に納まった小ぶりの刃が二振り、置かれていた。ルドルフはそれを両手で大切に取り上げ、健一のほうへ向き直った。
「兄ちゃん、鞘は埋もれ木の樫、刀身はアダマンタイト鋼だ」
彼は一振りずつ、刃を抜いてみせた。どちらも、ほとんど黒に近かった。炉の火が、その上で踊ることはなかった。
「鞘の色も、お前さんの密偵稼業にぴったりだろう」
健一は、息をのんで刀を受け取った。
棚の小箱から、ルドルフは得意げに、投げナイフを十本ほどと、短い短剣を三本取り出した。
「こっちはな、お前さんの上着に合わせて揃えた一式だ。上着を作ったのは、わしの甥のグルントヴィンの店でな。あいつが自分で考えた、お前さんだけのための品だ」
彼は、若い赤毛のドワーフの肩を力いっぱい叩いた。若者はよろめいたが、どうにか踏みとどまり、誇らしげに胸を張った。
「竜の革を扱えるのは、あいつの店だけだ。お前さんたちの革物は、みんなあの連中の手によるもんだ。それも、あいつらの蔵にあった革でな」
健一はさっそく、ナイフを留め具に収めにかかった。一本ずつ、小さな音を立てて収まるべき場所に収まっていく。無駄な動きはひとつもない。手がこの仕事を覚えているのが、見てとれた。
それからルドルフは、火の神のほうへ向き直った。
「さて、お次は魔法使いだ。パーティーの要だな」
真剣な顔つきで、彼は一本の杖を取り出した。持ち主となる男の背丈に、ほとんど届く長さだ。黒っぽい木地に、細く淡い筋が幾本も走っている。かつて、そこを雷が駆け抜けたかのように。
「ツィルヴェスターの爺さんがな、お前さんたちのところに、象嵌にうってつけの特別な品があると聞きつけて、自分の店をひっくり返して探し回ったんだ」
「誰が爺さんじゃ」宙に浮かんだツィルヴェスターが口を挟んだ。「わしは、たったの二百九十四歳じゃぞ」
彼は一行のほうへ向き直った。
「いいかい、孫たちや。まだ誰も見たことのない結晶の話を聞いてな、わしは自分から、ひとつ贈り物をしてやろうと決めたんじゃ」
老人は宙をすべるようにルドルフのそばへ寄り、杖を指さした。杖は鍛冶屋の手からするりと抜け、ひとりでに老人のもとへ飛んでいった。
「この素材は、世界でいちばん珍しいというわけではない。じゃが、この北の王国では、まずお目にかかれん。雷打ち木じゃ」
彼はカグツチを見た。長く、じっと。
「お前さんを見ておると、その炎の力が見える。これ以上ない素材じゃよ」
それから、小さな老いた手で杖頭を指した。
「じゃが、オリハルコンはこのあたりでは採れん。ルドルフが、自分の蔵から出してくれたんじゃ」
鍛冶屋は照れくさそうに咳払いをして、目をそらした。
そしてツィルヴェスターは、手のひらを開いてリックのほうへ向き直った。言葉にせずとも、意味は通じた。
リチャードは、新しいズボンのポケットから結晶を取り出した。
石は、彼の手のひらの上でやわらかく光った。薔薇色に、青の色合いが混じっている。初めてそれを目にする職人たちは、思わず身を乗り出した。錬金術師たちは、ひそひそ話をやめた。
老人がほんのわずか指を動かすと、結晶はひとりでに彼の手の中へ飛んでいった。
ツィルヴェスターは、それを四つの炎の舌をかたどった杖頭にはめ込んだ。金属の舌が、ひとりでに石を包み込むように閉じた。
杖に、かすかな震えが走った。
結晶が、鮮やかな青にまたたいた。
カグツチは手を伸ばし、杖を取った。杖は、まるでひとりでに手のひらに吸いついたかのようだった。
火の神は目を閉じ、胸いっぱいに深く呼吸を始めた。鼻から吸い、口から吐く。吐くたびに、唇から小さな炎の舌がこぼれた。彼のまわりの空気が少しずつ熱を帯び、揺らぎ始める。
炉の中の炭が、その呼吸に応えた。吸えば、息をひそめるように消える。吐けば、また燃え上がる。
鍛冶場じゅうで。すべての炉で、いっせいに。
職人たちは顔を見合わせ、笑みを浮かべた。杖は、彼にぴたりと合っていた。
それからカグツチは、全身を炎で包んだ。
炎は足もとから頭のてっぺんまで、静かに、爆ぜる音も熱もなく立ちのぼり、同じように静かに鎮まった。
彼の肌から、ひび割れが消えていた。跡形もなく。
ドワーフの誰かが、ああ、と声を漏らした。錬金術師たちが、さっきよりも大きな声でささやき合う。
だがカグツチは、自分の手のひらを見つめていた。なめらかな、灰色の手のひらを。指を握り、拳にする。
「……足りんな」誰にも聞こえないほどの声で、彼は独りごちた。
その言葉を聞いた者は、誰もいなかった。リックを除いては。
リックは、ただ乾いた笑みを浮かべた。
(いいことを聞いた……)
それから皆の視線がパーティーの頭へ集まり、鍛冶場はふたたび静かになった。
ルドルフが口を開きかけたが、ツィルヴェスターのほうが早かった。
「若いの、お前さんのことは昨日から目をつけておった」
老人はリックのすぐ目の前まで飛んできた。鼻先が触れそうなほど近くで、その目を、顔を、長いあいだ見つめる。
リックの顔の筋ひとつ、動かなかった。
冷静そのもの。
老人はふん、と鼻を鳴らした。どうやら、その答えが気に入ったらしい。
「わしを見てもそうは思わんじゃろうが、昔はわしも冒険者でな。お前さんたちと同じように」
彼は胸の前で腕を組み、床に座るように両脚を折りたたむと、リーゼルのほうを見ながら続けた。
「ギルドの管理人も、お前さんたちには言わなんだじゃろう。もう最上位の階級におるんじゃから、言う必要もない」
そこで老人は、咳とくしゃみをいっぺんにした。両耳から、ぽんと音を立てて小さな炎が二つ飛び出した。帽子が宙に跳ね上がり、くるりと回って、斜めに頭の上へ着地した。
ドワーフたちは、どうにか笑いをこらえていた。誰かは隣の者の肩に顔をうずめている。その肩が、小刻みに震えていた。
ツィルヴェスターは何事もなかったように帽子を直した。
「つまりじゃな。どの階級にも、さらに十の段階がある。隠しランクじゃ。それを知っておるのは、ごく限られた者だけでな」
彼は指を一本立てた。
「わしのパーティーは五つ星で、隠しランクの四じゃった。隠しランクがひとつ違うだけで、力の差は桁違いになる」
老人は、うっとりと語りながら宙に輪を描き始めた。外套が背中ではためく。
「じゃからして、わしの経験は豊富で……」
不意に、老人は言葉の途中で止まった。輪を描いている、まさにその途中で。考えを見失ったかのように。
目が、きょろきょろと泳ぐ。
そして、思わず声を上げた。
「思い出した、言いたかったことを!」
ツィルヴェスターは人差し指を立て、ひどく真剣な顔で振ってみせた。
「お前さんたちには、もうじき目をつけ……ごほん」
最後まで言わせてはもらえなかった。
ルドルフの弟子たちが、まるでそれを待っていたかのように駆け寄った。老人の脚をつかんで少し下へ引きずり下ろす。誰かがもう麻紐の束をほどいていた。あっという間に縛り上げ、隣の部屋へ引きずっていく。
叫び声が、みるみる遠ざかっていった。
「この小童どもが! ほどけたら、ただじゃおかんぞ……」
扉が閉まった。静かになった。
赤毛のルドルフが一行のところへやって来て、ばつが悪そうに何度も頭を下げた。
「爺さんのことは、気にせんでくれ。ここへ飛んでくる途中、嬉しさのあまり強い酒をひと瓶あおってきてな。それで口が軽くなっとるんだ」
リックは閉ざされた扉を見た。それから鍛冶屋を見た。何も言わなかった。
ルドルフは、片手に小ぶりの刃を一振り、もう片方の手に小さな箱を持っていた。
「本当はな、お前さんにも何か武器を作ってやりたかったんだ」彼は寂しそうに言い、ため息をついた。「だが、竜を素手で殺せる男が相手じゃあ、何を作っても役に立たん」
彼は黙り込み、拳の中で髭をしごいた。
けれど、その目に希望の灯がともった。
「ほれ、見てくれ」
小箱の蓋を開け、彼は革紐のついた銀の小さな水筒を取り出した。小ぶりで、なめらかで、側面には樫の葉の模様が打ち出されていた。
「ツィルヴェスターの爺さんが、わしらの贈り物を気に入ってな。自分で容量を増やしてくれたんだ。今どれだけ入るのか、わしらにもわからん」
それから身を乗り出し、内緒話でもするように、声を落として付け加えた。
「中の酒は、いつまでたっても気が抜けん」
リックは水筒を受け取った。くるりと回し、手のひらで重さを確かめる。
その顔に、ゆっくりと笑みが広がった。
「こんなに素晴らしい贈り物を、ありがとうございます」
彼は鍛冶屋と握手を交わし、さっそく水筒をベルトに結びつけた。ぽんぽんと叩く。
「今日のうちに、満たしておかないと」
リックの顔がぱっと輝いたのを見て、ルドルフは職人たちのほうを見ながら、勝ち誇ったように片手を突き上げた。職人たちも同じように応えた。誰かは金床を槌で叩いてみせた。
「よし、これでもう出かけ……」
鍛冶屋の言葉を、甥がさえぎった。
「叔父貴、俺たちのことを忘れてないか?」
グルントヴィンが前へ出て、リックのところへやって来た。
「ベルトだの靴だの上着だの、そんなのはみんな小物さ……」
その手には、鎖帷子のようなものが抱えられていた。抱えるのもやっとという様子で、若いドワーフの腕は震え、額には汗がにじんでいる。
リックは、目を凝らした。
「胴着だよ。お前さんのために特別にこしらえたんだ」グルントヴィンは持ち直そうとして、力んで顔を赤くした。「土台のアダマンタイトは叔父貴が作って、最後まで仕上げたのは俺だ」
彼は指で鱗をめくり上げた。青く、一枚一枚ぴたりと隙間なく重なった鱗。その下で、ほとんど黒に近い鎖の輪が鈍く光った。
リックは落ち着き払って、片手で胴着を受け取った。
すると、ドワーフの手の中に、胴着の下に重ねてあったものが残った。厚手の、袖のないシャツだった。暗い灰青色の、鎖帷子の下に着る鎧下だ。
「それから鎧下も、これがないと……」
最後まで言わせず、リックはその鎧下も受け取った。目にもとまらぬ速さでそれを着込み、その上から胴着をまとって、左肩の鋲を留める。すべて、ひと呼吸のうちに。
鱗の下から、鎧下の縁がわずかにのぞいていた。
胴着は、あつらえたようにぴたりと体に合った。
グルントヴィンは口を開けた。閉じた。また開けた。そして結局、何も言えなかった。
不意に、熊が長く鳴いた。皆の思考が途切れた。
マトゥンは棚のそばに立ち、どっしりとした大きな両手剣から目を離さずにいた。剣はリックの背丈にわずかに届かないほどの長さで、刃の幅は人間の手のひらより広い。刀身には、古く、半ばすり減ったドワーフのルーン文字が連なっていた。
熊は剣を見た。それからルドルフを見た。また剣を見た。そして、さっきよりも哀れっぽい声で、もう一度鳴いた。
「おお、あんたらの熊は、わしのご先祖の剣が気に入ったか!」ルドルフはにんまりと笑った。「持っていきな。どのみち、あんたらの獣には、うちから何もやれなかったからな」
マトゥンが両の前脚で剣を抱えると、剣はふっと消えた。
そのことを気に留めた者は、誰もいなかった。
それまでずっと脇で様子を見ていたマイヤーが、壁から背を離して声をかけた。
「そろそろ出ましょう。もう、皆さん集まっていますから」
その言葉を合図にしたように、外からのざわめきが、はっきりと一行の耳に届いた。低く、途切れることなく、しだいに大きくなっていく。
リックと仲間たちは顔を見合わせた。
彼らは扉を押し開け、店の外へ出た。
*
通りは、すっかり群衆で埋め尽くされていた。
人々は肩と肩を寄せ合い、見渡すかぎりどこまでも並んでいた。人波は鍛冶屋から四方へ伸び、角の向こうへ消えている。塀の上にも屋根の上にも人が座り、窓という窓から人が身を乗り出していた。父親たちは子どもを肩車している。頭の群れの上のどこかで、青い布切れで作った手製の小旗が揺れていた。
ざわめきが、ふっと途切れた。そして次の瞬間、歓声が爆発した。
「街じゅうの人が、皆さんを迎えに来たんですよ!」マイヤーとリーゼルが、声を揃えて嬉しそうに言った。
リックは鍛冶屋の玄関先に立ったまま、手のやり場に困っていた。
下の、石段のすぐ前に、ひとりの男が待っていた。風変わりな仕立ての、豪奢な装いだ。銀糸の刺繍を施したふくらんだ袖、長い羽根飾りのついた帽子。素朴な町の人々のあいだで、その姿は遠くからでもひときわ目を引いた。
それに気づいて、リーゼルがささやいた。
「伝令の方です」
一行は彼のもとへ下りていった。群衆は、何ひとつ聞き漏らすまいと静まり返った。
伝令は一礼した。作法どおりに深々と。帽子の羽根が、危うく石畳をかすめそうになった。
「サファイア級パーティー『大蛇墜つ』の皆様。国王陛下が、ご自身のお住まいにてお待ちです。どうか、わたくしについておいでください」
玄関先で、職人たちが手を振った。ルドルフが何か叫んでいたが、群衆の騒ぎにかき消されて聞き取れなかった。
リーゼルはリックのもとへ駆け寄り、彼に抱きつくと、嬉しさのあまり小さく悲鳴を上げた。
「おめでとうございます、リチャード様。パーティーの皆様も!」
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一夜明けて、王からの手紙。
仕立屋とドワーフたちが、ひと晩かけて仕上げた装備。
魔法使いの帽子に首をかしげる火の神と、子どものようにはしゃぐ元密偵。
そして、どんな武器よりもリックを喜ばせたのは、銀の水筒でした。
けれど、静かに残ったものもあります。
ひと晩で姿を消した、高位の冒険者たち。
「もうじき目をつけ……」と言いかけて、運び出された老人。
誰にも聞こえないはずだった、カグツチのひと言。
馬子にも衣装。
着替えを済ませた一行を、街じゅうが待っていました。
次は、いよいよ王の前へ。
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ニック・オッカム




