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無限の影  作者: Nick Occam


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第一章 どこからともなく響く声

同じころ。


イギリスのどこかで、太陽は大地を金色の光で満たしていた。


幼稚園の庭では、五歳ほどの子どもたちが芝生の上を駆け回っている。


笑い声。


叫び声。


足音。


それは、何ものにも代えがたい、無邪気な幸福そのものだった。


ただ一人だけ。


巨大な古いオークの木の下に、輪から外れて座っている少年がいた。


まるで見えない壁が、彼と世界とを隔てているかのようだった。


名はリチャード。


親しい者たちは、彼をリックと呼んだ。


彼は、目が見えなかった。


リックは地面を這う太い根に腰を下ろし、小さな手をざらついた幹にそっと置いた。


目は閉じられている。


彼には太陽が見えない。


けれど、その温もりだけは肌で分かった。


そして、その温もりを通して。


木の皮を通して。


現実そのものの織り目を通して。


声が届いていた。


子どもたちの声。


恐怖に満ちた声。


助けを求める声。


絶望に震える声。


その声を聞くのは、初めてではなかった。


彼らは助けを求めていた。


泣いていた。


恐怖に息を詰まらせていた。


けれど、リックには何もできなかった。


彼はただ、誰にも聞こえない声を聞いてしまう、目の見えない子どもでしかなかった。


青白い頬を、涙が伝った。


リックは、唇だけをかすかに動かしてつぶやいた。


「ごめんね、みんな……」


「ぼくには、助けられない……」


「ごめん……」


「ぼくの目が見えていたら、きっと誰か、助けてくれる人を探せたのに……」


その時だった。


視力を失ったことで研ぎ澄まされた幼い感覚に、氷の針のようなものが刺さった。


視線。


誰かの視線だった。


重く、異質で、上から彼へ向けられている。


リックは勢いよく顔を上げた。


そして、見えないはずの目を、建物の屋根へ向けた。


そこから、今まさに誰かが自分を見ていた。


彼には、そう分かった。


屋根の上に座っていた男が、かすかに身を震わせた。


彼もまた、その視線を感じていた。


ありえない。


だが、事実だった。


目の見えない少年が、真っ直ぐに自分を見ている。


次の瞬間。


見知らぬ男は、すでにリックの前に立っていた。


鋭い目で、少年を見下ろしている。


「おい、坊主。どうして俺が見える?」


その声には、隠しようのない驚きがあった。


「いや、そもそもどうやって何かを見ている? お前、目が見えないんだろう?」


リックの前に立っていたのは、若く、よく鍛えられた体つきの男だった。


濃い青色の中東風の衣をまとい、顔はクーフィーヤの布で隠されている。


だが、その目だけは違った。


ただの人間にはありえない、内側から燃えるような光を宿していた。


少年は顔を上げた。


灰色の二つの目が、涙に濡れたまま、男を下から見据えている。


そこには痛みがあった。


そして、子どもには似つかわしくない、奇妙な憎しみがあった。


涙は止まらなかった。


男はその目を覗き込み、息を詰まらせた。


他人の悲しみが、波のように押し寄せてきた。


喉が詰まる。


「すまない、リック」


男の声がかすれた。


「君のことは分かった。リチャード。リック」


彼は一度言葉を切り、込み上げてくる感情を抑え込んだ。


「君の祈りは聞いていた。君の両親の仇は取った。だが、助けることは……できなかった」


苦しげに、彼は続けた。


「それが、運命だった」


男は片膝をつき、子どもと同じ目線になろうとした。


「それでも、まずは名乗らせてくれ」


「いりません」


少年の声は小さかった。


けれど、その響きには、男を黙らせるだけの力があった。


「ぼくは、あなたが誰か知っています」


リックの唇が震えた。


「あなたは……悪魔です」


「子どもを助ける願いなら、どんな願いでも叶えてくれるって、そういう話を聞いたことがあります」


涙がまた頬を伝った。


「どうして、ぼくのお母さんとお父さんを助けてくれなかったんですか?」


「二人が戻ってきてくれるなら、ぼくの魂を全部あげてもよかったのに」


「もう、ぼくには誰もいません」


「ぼくは、ひとりです」


「……君の言う通りだ、リック。俺は悪魔だ」


男――マルクスは、深く息を吐いた。


「俺の名はマルクス。そして姓は……オッカム。君と同じだ」


少年が小さく震えた。


痛みが一瞬だけ引き、代わりに戸惑いが浮かぶ。


「オッカム……?」


「あなたは、ぼくの親戚なんですか?」


「違うよ、坊や。ただの偶然だ」


マルクスは少し黙った。


自分の不死の魂までもが、この小さな存在の痛みに締めつけられているのを感じていた。


「教えてくれ。なぜ泣いていた?」


「どの子どもたちのことを言っていたんだ?」


「俺にも、何かできるかもしれない」


その瞬間。


空気に落ちた沈黙が、蜜のように重くなった。


そして、声が響いた。


それは外から聞こえたのではない。


二人の頭の中に、直接響いた。


低く、重い声。


その一音だけで、周囲の空気が緊張に濁っていくようだった。


『相変わらず不出来な息子だ』


『お前には何もできん。まずは自分の務めをどうにかしろ』


『リックとは私が話す』


『黙っていろ。邪魔をするな』


マルクスの全身に冷たい汗が噴き出した。


彼はその声を知っていた。


それは、悪魔である彼でさえ、叱られた子犬のように身をすくませる声だった。


「父上、分かりました」


マルクスは唇だけでそう囁いた。


恐怖で喉が締めつけられていた。


「邪魔はしません」


リックは木から手を離した。


幹に背を預け、目を閉じる。


深く息を吸った。


その顔に、子どもらしからぬ奇妙な静けさが広がっていく。


頭の中の声は続いた。


『聞け、坊主』


『お前にとって、かなり悪い知らせだ』


『お前は木に触れるたび、子どもたちの声を聞いているのだな?』


「はい……」


リックの思念は弱々しかった。


けれど、はっきりしていた。


『お前が聞いているものは、お前が思っているよりもずっと悪い』


『向こうでは、悪党どもがほとんどすべてを殺した』


『大人は一人も残っていない』


『残っているのは子どもだけだ。百人ほど』


声は淡々としていた。


だが、その言葉は幼い心に重く落ちた。


『だが、問題は惑星だけではない』


『次元そのものが死んでいる』


「おじいちゃん……」


リックの思念が、あまりの大きさに一瞬途切れた。


それでも彼は、必死に自分を保った。


「あの子たちを、助けられるの?」


『助けられる』


即答だった。


『容易い』


けれど、声はすぐに続いた。


『だが、創造主そのものが定めた掟がある』


『私は、あの次元へ自分自身で入ることができない』


『入れるのは、分身としてだけだ』


『向こう側との裂け目を見つけ、あの世界と繋がった者の一部としてな』


『それがお前だ』


「ぼくが……」


リックは息を呑んだ。


「ぼくが、あなたの分身になるんですか?」


『考え方は正しい』


『だが、ひとつ問題がある』


声は少し低くなった。


『お前の人生で最も重い選択だ』


『私は、お前の身体を一時的に成長させることができる。そうすれば、問題はすぐに片づく』


『だが、お前はその大人の身体のまま、永遠に残らなければならない理由がある』


『残念だが、どちらにせよ、お前は大人の身体を得ることになる』


『私はただ、その選択をお前自身のものにしたい』


『正直な選択にしたいのだ』


『でなければ、お前は感情のない機械になる』


リックは黙っていた。


小さな魂の中で、嵐が荒れ狂っていた。


やがて、彼は答えた。


「ぼくは……あの子たちを助けたい」


『お前は、永遠に自分の運命を失うことになる』


声は静かだった。


『リチャード。お前に定められていた人生を、だ』


『お前は偉大な人間になれたはずだ』


『お前には、お前にふさわしい子孫も生まれたはずだった』


『その意志の強さで、多くの善を成したはずだ』


『私は、そのことを知識としてお前に与えている』


『聞こえているな?』


『選ぶのは、お前だ』


「どうして、そんなことを言うんですか?」


リックの思念は苦く、絶望に満ちていた。


「ぼくに、選択肢なんてありません」


「空っぽには、なりたくない」


「ぼくは……受け入れます」


『早まって絶望するな』


声は、ほんのわずかに柔らかくなった。


『お前は、私が誰なのか知りたかったのではないか?』


「今さら、それに意味があるんですか?」


『ある』


短い沈黙。


そして、その名が告げられた。


『ただ覚えておけ』


『私の名は、運命だ』


さらに少し間を置いて、声は静かに続いた。


『いずれ、そのことを喜ばせてやる』

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第一章に登場したリックとマーカスのキャラクタービジュアルです。


挿絵(By みてみん)


キャラクタービジュアル:リック


挿絵(By みてみん)


キャラクタービジュアル:マーカス


次回もよろしくお願いいたします。

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