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無限の影  作者: Nick Occam


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序章 永遠の果ての静寂

挿絵(By みてみん)

序章 永遠の果ての静寂


どこか、はるか遠く。


もしかすると宇宙の果てにほど近い場所に、その森はあった。


私たちの世界に恐ろしいほどよく似ていながら、幾重もの現実の幕によって隔てられた世界。


そこに広がる森は、あまりにも巨大だった。


木々の梢は雲の中へ消え、根は光さえ届かぬ深みへと沈んでいた。


その森の外れに、小さな家が建っていた。


粗い石を積み上げて造られた家だった。


家の前には、黄ばんだ紙の束で埋もれた机があり、その前にひとりの老人が座っていた。


椅子代わりにしていたのは、巨大な切り株だった。


幾千、幾万もの年輪を刻んだその切り株は、それだけで永遠にも等しい物語を語れそうだった。


老人自身もまた、時の外側にいる存在のように見えた。


銀色の髪は中ほどの長さで、丁寧に後ろへ撫でつけられている。


短い髭と口髭は、寸分の乱れもなく整えられていた。


その身だしなみには、何十億年もの時を過ごした者だけが持つ、偏執にも似た丁寧さがあった。


彼は、深い紺色のクラシックなスーツを身にまとっていた。


上着は玄関脇の掛け金に吊るされ、老人自身はベストと雪のように白いシャツ姿で座っている。


袖には、インクの染みを避けるための腕カバーが付けられていた。


鼻にかかった鼻眼鏡は、経験を積み重ねた記録者の姿を完成させていた。


だが、彼は書いていなかった。


ただ虚空を見つめ、指先で羽根ペンを弄んでいた。


その動きは、完全なまでに洗練されていた。


羽根ペンは複雑な輪を描き、八の字を描き、まるで生き物のように指の間を滑っていく。


それは、何十億年ものあいだ続いてきた舞だった。


ふいに、その手が止まった。


老人は真っ白な紙の上に文字を記した。


整った身なりとはあまりにも対照的な、荒々しく、乱れた、ほとんど判読しがたい筆跡だった。


『運命とは、愚か者たちが侮ることに慣れきった力である。


それは万物に宿る。


己を不死だと思い上がる者たちにさえ。


ゆえに、どれほど堅き砦も、どれほど大いなる権威も、定められた終焉の前には抗えない……』


老人は鼻眼鏡を外し、机の上にそっと置いた。


こわばった肩を伸ばし、腕カバーを外す。


そして、何かを待つように動きを止めた。


静寂は完全だった。


だが彼は知っていた。


この静けさは、偽りだ。


数秒が過ぎた。


「君、私に何か聞きたいことがあったのだろう?」


低く、静かな声が沈黙を破った。


家の奥から、柔らかくもどこか焦りを含んだ女の声が返ってきた。


「ええ、あなた。あなたの本の邪魔はしたくなかったのだけれど……とても急ぎの用なの」


老人の唇に、かすかな笑みが浮かんだ。


彼は立ち上がり、扉のところまで歩いていくと、肩を戸枠に預けた。


「話してくれ。些細なことなら、君は私を呼ばない」


女は言った。


「覚えているでしょう? 私たちは、別の次元を感じ取ることができない。そこにいる高次の存在たちが、神と呼ばれる者を含めてすべて消えるまでは。理由は分からないわ。もしかしたら、創造主がそう定めたのかもしれない」


「その通りだ。続けてくれ」


「あなたは、きっと気づかなかったのでしょうね」


彼女の声がかすかに震えた。


そこには偽りのない動揺があった。


「私は助けを求める声を感じたの。ほんの一瞬だけ。でも、恐ろしいのはそこではないわ」


彼女は息を整えるように、短く言葉を切った。


「向こうには、もう高次の存在がいない。あの次元は死んでいるの」


沈黙。


それから彼女は、さらに静かに続けた。


「でも……生きている者がいる。子どもたちが、まだ残っている」


老人の表情から笑みが消えた。


「私たちは、あの子たちを救わなければならない。こちらへ連れてくることはできないわ。私たちの現実が、あの子たちを拒絶してしまう」


彼女の声は柔らかかった。


だが、その奥には、すでに決定を下した者の響きがあった。


「だから、私たちがあの次元を担うの。あなたと私で。夫婦として。運命と神として」


少し間を置き、彼女は付け加えた。


「生き残った子どもたちは、私たちを助けることになる。仕事が……ほんの少し増えるだけよ」


その口調には、老人がこれまでの永い時の中で一度たりとも逆らいきれなかった、あの甘えた強情さが滲んでいた。


老人は深く息を吐いた。


そのため息は、幾千もの世界の重みを含んでいるかのようだった。


「前回、私たちが別の次元に干渉した時に何が起きたか、思い出させてほしいのか?」


彼の声は静かだった。


「私たちは罠にかけられた。滅ぼされかけた。私が君を守りながら、あちらの高次の存在たちと戦っている間に、第三者が私たちの世界を滅ぼした」


「あなた、謙遜しないで」


女の声に、微笑みが混じった。


「あなたは彼らを次元ごと消したわ。数秒もかからずに」


一拍置いて、彼女は続けた。


「しかも、それは私たちの旅の始まりの頃だった。あの時点ですでに、あなたは彼らの運命とは比べものにならないほど強かった。たとえ相手が百万いたとしても……」


そこで彼女は言葉を切った。


そして、ひどく静かな声で言った。


「それに、私たちはここに残るわ。向こうへ行くのは、あなた自身ではない。あなたの分身だけよ」


老人の顔に、氷のような静けさが広がった。


彼はもうため息をつかなかった。


ただ、目の前の空間を見つめていた。


その眼差しには、再び剣を手に取る者の諦めが宿っていた。


「説得されたよ」


老人は言った。


「もう一度、君の……専属の殺し屋を務めるとしよう。慣れている」


「あなた、まさか何十億年ぶりに体を動かすのが嫌だなんて言わないでしょう?」


女は柔らかく笑った。


「私はあなたのことなら、何でも見抜けるのよ」


少しの沈黙。


「でも、もう一つだけ問題があるの」


「問題?」


老人の声に、初めて鋼の響きが混じった。


「まだあるのか」


「その子の力は、いずれ私たちに必要になるわ。だから……私たちの息子の一人の力を使って」


老人の目が細くなった。


「あなたが原初の世界で持っていた身体を、再現させるの。あなたの写し身を作る。そして、あの次元に最強の存在を置く」


彼女は静かに続けた。


「もちろん、あなた自身の次に、だけれど。そうすれば、私たちが何度も手を煩わせる必要はなくなる」


老人の目が見開かれた。


そこには、何十億年ものあいだ浮かぶことのなかった感情があった。


動揺。


「待て」


彼の声が揺れた。


「私は、ただ一時的にあの子の身体へ入るのだと思っていた。それで十分なはずだ」


彼は手で顔を覆うように撫でた。


押し寄せる記憶を拭い去ろうとするかのようだった。


「君は、あの子を……永遠の放浪者にするつもりなのか」


女は何も言わなかった。


老人は続けた。


「君は、あの子に私たちが歩んだすべてを背負わせようとしている。それがどれほどの地獄か分かっているのか」


彼はこめかみを押さえた。


「彼は、この世界で永遠にひとりになる。人類を見守り続けることが、彼の重荷になる」


その声には、怒りよりも深いものがあった。


記憶。


後悔。


恐れ。


「思い出せ。私たちがあの時、何を経験したか。原初の世界には、私たちと同じ存在が無数にいた。創造主は、そのような世界をいくつも作った」


老人は低く言った。


「そして、すべての世界に同じ掟があった。最後に残った者が、その世界の神となる」


「また始まったわね」


妻の声には、疲れが混じっていた。


「まだ終わっていない」


老人は声を強めた。


「君は戦うために造られた存在ではなかった。だから私たちは同盟を結んだ。そして私は、ほかの全員を滅ぼした」


静寂が重く沈んだ。


「私たちは、あの恐ろしい荒野を永遠にも等しい時間さまよった。だが、私たちは二人だった」


老人は言葉を噛みしめるように続けた。


「あの子は、ひとりになる」


彼の目が、妻の声のする家の奥へ向いた。


「君は、あの子から運命さえ奪うつもりなのか」


「分かった、分かったわ。少し熱くなりすぎよ」


妻の声は柔らかくなった。


しかし、その奥にある意志は揺らいでいなかった。


「でも、私たちには選択肢がない。反論しないで。そうする必要があるの」


老人はゆっくりと、見えない重荷を背負うように、掛け金から上着を外した。


そして、それを身にまとった。


動きは相変わらず整っていた。


だが、そこにはどうしようもない諦めが滲んでいた。


「選択肢がないのなら……言ってくれ。何をすればいい」


彼は短く息を吐いた。


「その子の名は?」


「あなたにその名は必要ないわ。その子のそばには、私たちの出来の悪い末息子、マルクスがいる。あなたの意識の欠片をその子へ送りなさい。あとは、その場で判断できるでしょう」


老人はしばらく沈黙した。


そして、小さく頷いた。


「ならば……戦場へ」

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