第十八章 藪から棒
燃える石が、洞窟の静けさの中で、低くぱちりと鳴った。
小さな火の粉が気だるげに舞い、冷たい空気に触れたそばから消えていく。
できたばかりの仲間たちは、もう眠っていた。
健一は火のそばで身を丸め、小さく寝息を立てている。
カグツチは、動かぬ石像のように座ったままだった。
巨大な熊は、たくましい脇腹をゆっくりと上下させていた。
ほの暗い火明かりの中で彼らを眺めていると、リチャードの胸の奥が、ふいに引きつれるように疼いた。
恋しさと愛おしさが、ひとつの固い結び目になる。
(愛しいリー・ファン。どんなことをしてでも、必ず君のもとへ帰る)
その想いは、離れなかった。
どんな炎よりも、内側から彼を温めた。
リックはもう一度、皆が深く眠り、誰にも聞かれないことを確かめた。
剥き出しの冷たい岩の上に、足を折って座る。
声なき祈りのように両の掌を合わせ、虚空へ向かって、かすかに囁いた。
「父さん。準備はできた」
目を閉じる。
張りつめていたものを手放し、深い、癒やしの眠りへと、ゆっくり沈んでいった。
眠る者たちの輪郭が、溶けるように薄れていく。
この世界から消えるその前に、リチャードの頭の中で、遠い言葉がこだました。
(何事にも、その時がある――あの時、父さんはそう言った)
(なら、二人の時も、きっと来る)
(ファン……愛しい人)
最後の吐息。
四人の姿は、洞窟から跡形もなく消えた。
炉の石の火がふっと落ち、岩の裂け目は真の闇に沈んだ。
*
四方から、爆音が押し寄せた。
足元の大地が、激しく揺れている。
どこか遠くから、聞いたこともない咆哮が響いてきた。
「健一、起きろ……」
掠れた、絞り出すような声。
健一は、重いまぶたをなんとかこじ開けた。
誰かの手が、彼の肩を揺さぶっている。
ひどく焼けただれた手だった。
あたりは明るかった。明るすぎた。
「……え?」
健一は跳ね起きた。
その傷を目にした瞬間、眠気など吹き飛んでいた。
慌てて周囲を見回す。
熊。リチャード。それに――。
焼けただれた手の主は、カグツチだった。
裂けた傷口から血がにじみ、赤黒い火ぶくれが肩まで覆っている。
健一は、声ひとつ出せなかった。
少し先では、リックと巨大な熊が、二人を庇うように立っている。
そして健一の肩を掴んだままなのは、かつての火の神だった。
その力は封じられている。
この地の魔法の前では、ただの人間と同じく無防備だった。
風の唸りと爆音が、耳を打つ。
健一は目をすがめ、せめて何が起きているのか見ようと、立ち上がりかけた。
閃光。
真昼の太陽の百倍はあろうかという光が、彼の目を灼いた。
続いて衝撃波が叩きつけ、健一は足をすくわれた。
足元の大地が、そのまま抜け落ちたかのようだった。
一瞬の静寂。
リチャードが身を硬くし、肩越しに短く叫んだ。
「兄弟、二人を覆ってくれ!」
熊は迷いなく、傷ついたカグツチと健一を前脚で抱え込み、その巨体で覆い被さった。
だがその寸前、健一の目の端が、閃光の源をとらえていた。
空の高みに、山が浮かんでいた。
翼のある山が。
その巨体が、峠ひとつをまるごと影に沈めている。
群れの長だった。
空にいるのは、それ一頭だけ。
周囲の岩場には、青い鱗をぎらつかせた残りの竜たちが、群れをなして陣取っていた。
そして今、長は最も苛烈な一撃を放った。
轟音を上げる巨大な炎の塊が、まっすぐこちらへ迫ってくる。
リックが一歩前へ出て、まっすぐに立った。
慌てることもなく、振りかぶることもなく。
迫る炎の、ちょうど真ん中へ、拳を打ち込んだ。
新たな閃光が、地平の果てまでを白く染めた。
二つの衝撃波がぶつかり合い、轟音とともに互いを打ち消す。
火の粉とちぎれた炎が、じゅっと音を立てて飛び散り、岩を溶かした。
拳を打ち込んだ場所には、灼けた蒸気の雲だけが残った。
リックは素早くあたりを見回した。
峠には、竜の群れのほかに、誰ひとりいない。
余計な目撃者は、いない。
ためらっている暇はなかった。
「目と耳を塞げ! 早く!」
熊でさえ、ぎゅっと目をつぶり、前脚で耳を押さえた。
そのために二人を放さねばならない。
押し潰さぬよう、熊は後ろ脚で立ち上がり、生きた盾となって二人の上に覆い被さった。
リックは顔を上げ、燃えるような長の目を、まっすぐに見返した。
掌を、ぴたりと合わせる。
その身が、光で満ちた。
澄みきった、耐えがたいほどの光。
閃光が、一瞬のうちに世界のすべてを白く塗りつぶした。
峠の竜たちが、いっせいに咆哮した。
痛みに、そして見えない恐怖に。
長も、例外ではなかった。
竜が我に返るより早く、リックは跳んだ。
次の瞬間には、もうその首の上に立っていた。
リックは古の言葉で語りかけた。
竜の知らない言葉だった。
それでも、その声音と、言葉の奥にある力だけで十分だった。
翼ある巨体は空中でぴたりと動きを止め、目が見えるようになるのを、ただおとなしく待った。
「騒がせて悪かった。すぐに立ち去る」
リックは静かに言い、鱗に覆われた首筋を軽く叩いた。
「だが、お前のところの二頭ほど、もらっていく……」
下を見る。
岩場でのたうつ竜たち。
そして、すでに気を失って岩の上に伸びている、わずかな竜たち。
「弱っているほうにしておくか」
リックは事務的に決めた。
そして長の首から、そのまま奈落へと飛び降りた。
落ちながら、声を張り上げる。
「重ね重ね、すまない! さらばだ!」
*
竜とは、生まれつき誇り高い生き物だ。
群れの長は、その誇りそのものだった。
だが、目が戻り、眼下の岩場に二つの巨大な血だまりしか残っていないのを見た時、その驕りは一瞬で消え失せた。
追うつもりはなかった。
古い頭の中に、重い疑念が根を下ろした。
(何者だ、あれは)
長は、ゆっくりと皮の翼を広げながら考えた。
(前に立っていた、あの術師……最初の一撃を受けたのは、傷ついた連れのほうだ。だが、あの男は……神のように動いた。我らの炎を弾き、群れの目をすべて奪い――そして、いともたやすく、我が子らを二頭、連れ去った)
長は岩棚へ舞い降りた。
よそ者たちが踏みとどまっていた場所を、大きく鼻を鳴らして嗅ぐ。
ひび割れた岩に残る黒ずんだ染みへ近づくと、暗い予感は確信に変わった。
(匂いが……三つしかない)
長は巨大な頭をもたげ、遠い山並みのほうへ向けた。
招かれざる客たちの、見えない足跡が続く先だ。
群れの竜たちは、まだ閃光に打たれたまま岩に身を伏せ、長の動きのひとつひとつを見つめていた。
(我が子らよ……この匂いを、覚えておけ)
長は顎を開いた。
低く、喉を鳴らすような声が、谷にこだました。
「あの者らには、用心せよ」
ひゅうと熱い息を吐き、長は岩陰に守られた卵のもとへ向かった。
鼻から灰色の蒸気をもくもくと吐き、身を横たえる。
そして、ひとつも欠けていない卵を、翼でそっと覆った。
まぶたが、ゆっくりと落ちていく。
それでも最後の思いが、頭の中でざわめき続けていた。
(痛ましいことだ……だが、払った代償は、小さい)
*
何もない。
ただ、猛り狂う吹雪の咆哮だけが、山々にこだましていた。
一面の白い壁の中を、三人の人間と一頭の巨大な熊が、黙々と進んでいく。
これほどの嵐に、足を踏み入れようとする生き物など、ひとつもいないだろう。
健一と火の神は、熊の脇腹の厚い毛の中に、ほとんど埋もれていた。
風にさらわれぬよう両手で毛にしがみつき、最後の力を振り絞って足を運ぶ。
力を封じられていても、カグツチはやはり神だった。
腕の火傷は、人間ではありえない速さで癒えはじめていた。
そして先頭を、旅人が歩いていた。
裸足で。
焼けつくような、凍てつく雪の上を。
リックはその身ひとつで白い壁を割り、背後に風の届かない空間をつくっていた。
仲間たちは、その中で吹雪をしのいでいた。
山脈の向こうへ進むにつれ、嵐は少しずつ衰えていった。
荒れ狂う風はまばらな突風に変わり、白いとばりが静かに降りていく。
急な下り坂で、一行はようやく足を止め、息を整えて辺りを見回した。
ふもとの、山と山のあいだの深い裂け目から、細い道が一本延びていた。
道ははるか先まで続き、巨大で鬱蒼とした、とても通り抜けられそうにない森の中へと消えている。
坂を下りていくと、森の入り口のすぐ手前で止まっている隊商が見えた。
リックはすぐに、木の葉のかすかなざわめきと、古木の陰で何かがうごめく気配に気づいた。
それでも歩みは緩めない。
馬車のほうへと、そのまま下りていく。
三人の仲間も、黙って後に続いた。
石だらけの道まで来ると、足止めの理由が見えた。
先頭の、ひときわ豪華な馬車の前に、巨大な倒木が横たわり、道をすっかり塞いでいた。
護衛たちが、よそ者に気づいた。
しかも巨大な熊連れだ。
たちまち空気が張りつめ、乾いた金属音が鳴った。
傭兵たちが、武器の柄に手をかけたのだ。
リックは両手を上げ、掌を見せて、穏やかに笑った。
「敵意はない」
効き目はなかった。
護衛たちは、疑いと威嚇の目を向けたままだ。
「私たちは、町へ向かっているだけだ」
リックは落ち着いて言い添えた。
やはり、何も変わらない。
それどころか、傭兵たちはじりじりと半円を描いて、一行を囲みはじめた。
リックは父の言葉を思い出した。
中世の世界。本物の魔法。
そして、助け舟になりそうな考えが、ふと浮かんだ。
「私たちは、駆け出しの冒険者だ」
リックは少しも動じず、両手を下ろした。
「私がこの一行のまとめ役で、リチャードという。こっちは頼れる友の熊。それから、仲間の――」
熊の大きな脇腹の陰に隠れた二人を、顎で示す。
「健一と、カグツチだ」
密偵と封じられた火の神は、黙ったまま、揃って頭を下げた。
閉ざされた馬車の中から、不安げな顔がひとつ、またひとつと覗きはじめる。
護衛のひとりが、リックを頭のてっぺんから爪先まで眺め回し、吐き捨てるように言った。
「冒険者には見えねえな。まるで浮浪者だ」
リックは、いつもの質素な姿にすっかり馴染みすぎて、自分が人の目にどう映るかを忘れていた。
古びて破れたタンクトップに、ズボン。
この地の鎧姿と並べば、確かに見劣りする。
彼は小さくため息をつき、カグツチの焼けただれた腕に、ちらりと目をやった。
「山で、年老いた竜に二頭、出くわした」
まだ塞がりきらない、むごたらしい火傷に覆われたその腕と、青ざめてぐったりした健一を、顎で示す。
「命からがら、逃げてきた」
「ジョセフ、落ち着け……」
隊商の奥から、鷹揚な声がした。
豪華な馬車の扉が軋み、恰幅のいい男が降りてきた。
金糸の刺繍を施した高価な服。
太い指には、ずっしりとした指輪がいくつもはまっている。
左右に体を揺らしながら最前列まで来ると、男は護衛頭の肩をぽんと叩いた。
「下がっていろ……」
「しかし、旦那様!」
ジョセフが言いかける。
だが金持ちの男は、もう聞いていなかった。
傭兵を無遠慮に押しのけ、よそ者たちのすぐ目の前まで歩み寄る。
毛皮で縁取られた帽子の下から、抜け目のない、ひどく興味深げな目がリックを見ていた。
「私はマイヤー・プフェッファーマン」
指輪を、見せつけるようにいじりながら名乗る。
「商人だ」
踵と爪先で体を揺らしながら、マイヤーはリックの連れを順に眺めた。
「竜がどうとか、言っていたな……」
その目の奥に、商人らしい貪欲な光が灯った。
「聞き間違いではありません」
リックは静かにうなずいた。
マイヤーはぼろぼろの一行をもう一度じろりと見て、目を細めた。
「では、証拠は? その傷と、お前の破れた服以外、何も見えんが」
選択肢はなかった。
リックは古びたズボンのポケットに手を入れ、小さな珠を二つ取り出した。
静まり返った商人の前で、掌を開いてみせる。
そして、意味ありげに火の神へ目をやった。
「カグツチは、私たちの魔法使いです。倒した竜を封じたのも、彼です」
珠のひとつを、足元の草の上に置く。
誰にも気づかれぬよう指を鳴らし、カグツチに短く目配せした。
――合わせろ。
火の神は慌てなかった。
癒えかけた腕を、ものものしく前へ突き出す。
そして口の中で何やらぶつぶつと唱えた。
どう見ても、古の呪文だった。
ぱきり、と乾いた音を立てて、珠が割れた。
呆然とする隊商の目の前、草の上に、解体された竜の亡骸が現れた。
青い鱗に覆われた皮。
巨大な頭。
臓物。
すべてが丁寧に分けられ、まるで売りに出すばかりの状態だった。
マイヤー・プフェッファーマンは、甲高い歓声を上げた。
満面に笑みが広がる。
肉づきのいい手をせわしなく擦り合わせ、猫撫で声で言った。
「いやはや、旦那!」
ぎらつく目が、戦利品へ飛ぶ。
「本当に嘘じゃなかったんですな!」
商人は、今にも小躍りしそうだった。
こんな好機は、商人の一生に一度あるかどうかだ。
これほど腕の立つ狩人たちに無礼があってはならない――とばかりに、リックの顔をちらちら窺いながら、マイヤーは続けた。
「あなた方は、まさに掘り出し物だ!」
芝居がかった間を置き、人差し指で怪物の亡骸をぐるりと指す。
「これ全部で……八千! いや、金貨一万枚出しましょう!」
護衛頭に向かって、ぱちんと指を鳴らす。
ジョセフは無言で先頭の馬車へ駆け、仲間と二人がかりで重い木箱を引きずり出した。
蓋を開ける。
縁までぎっしりと詰まった金貨が、鈍く光った。
リックは首を横に振った。
金にはほとんど興味がない。丁重に断るつもりだった。
だがプフェッファーマンは、その仕草を自分の都合のいいように受け取った。
一行の前に、たちまち二つ目の箱が並んだ。
「倍だ! 金貨二万枚!」
リチャードは小さく笑い、掌を上げて、商人の熱を制した。
「待ってください……ひと掴みで足ります。路銀と宿代になれば」
彼は箱の上に身をかがめ、片手で金貨をすくい取った。
熊の陰で、健一が思わず息を詰まらせた。
(二万枚で……ひと掴み)
密偵は、ゆっくりと目を閉じた。
「残りは、どうぞそのまま」
リックは続けた。
「その代わり、一番近い町まで、私たちを連れていってください」
マイヤーは目を剥いた。
一瞬、固まる。
それから腹の底から大笑いし、両手でがっしりとリチャードの手を握った。
「決まりだ!」
そして、自分の豪華な馬車を愛想よく指し示した。
「では、乗って休んでいてください。うちの者たちが道を片づけるまで」
健一とカグツチは、商人に丁寧に頭を下げた。
リックは、ただ軽くうなずいた。
「手伝います。そのほうが早い」
一行は倒木へ歩み寄った。
熊が後ろ脚で立ち上がり、幹に胸を押し当てる。
横たわっていてさえ、その幹は熊の背丈より高かった。
ひと押し。
巨大な幹はあっけなく滑り、岩場のほうへ遠く押しやられた。
傭兵たちは、口を開けたまま立ち尽くした。
そのあいだに、健一は残った切り株のそばにしゃがみ込んでいた。
切り口をじっと見つめ――眉をひそめる。
「鋸の跡だ」
低いが、はっきりとした声で言い、健一はリックを振り返った。
「誰かが、わざと倒したんだ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに。
道沿いの茂みの奥から、顔を覆った武装の男たちが、音もなく溢れ出てきた。
第十八章までお読みいただき、ありがとうございます。
ついに、リックたちは新しい世界へ。
ところが着いた先は、竜の群れのど真ん中でした。
力を封じられたカグツチは、初めて「ただの人間」として傷を負います。
そして健一には、密偵としての最初の見せ場が。
一行の役割が、少しずつ見えてきました。
ちなみに、竜の長が嗅ぎ取った「三つの匂い」。
四人いたはずなのに、なぜ三つなのか。
覚えておいていただけると嬉しいです。
次回、茂みから現れた男たちの正体とは――。
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