第十七章 鳴りを潜める
第十七章 鳴りを潜める
初広とその手下たちが、ようやく引き戸を開ける決心をする三十分前。
西館には、まったく別の、穏やかな時間が流れていた。
リックとカグツチは、畳の上で向かい合って座っていた。
ついさっきまでの火の神の荒々しさは、跡形もない。
彼は一言も聞き漏らすまいと、じっと耳を傾けていた。
そのすぐ横では、巨大な熊が長々と寝そべり、盛大に鼾をかいていた。
カグツチは眉をひそめ、毛むくじゃらの巨体をちらりと見てから、再びリックへ目を戻した。
「お前たちは何がしたい。本当の狙いは何だ」
リックは小さく笑った。
「友は関係ない」
顎で熊を示す。
「ただ、私に付き合ってくれているだけだ。私のほうは……父に導かれている」
少しのあいだ、言葉を探すように黙る。
その目が、わずかに真剣になった。
「父の考えを、私もすべて知っているわけではない。分かっているのは、世界のあちこちで子どもたちが跡形もなく消えているということだけだ。そして、その痕跡は、この世界のはるか外へと続いている」
カグツチが身を乗り出した。
だが、リックは静かに掌を上げた。
これ以上は話せない。
火の神は、不満げに唇を結んだ。
不意に、空間が震えた。
そして――石のように固まった。
時が止まった。
木の壁と畳の色が褪せていく。まるで部屋ごと、古いセピア色の写真に閉じ込められたかのように。
リックは、これから何が起きるのかをすぐに悟り、内心で身構えた。
この止まった一瞬の中で動けるのは、彼ひとりだけだった。
カグツチは生きた像のように固まり、ただ見ていることしかできない。
熊は眠っていた。
あるいは、眠ったふりをしていた。
すぐそばの空中から、濃く黒い霧が湧き出した。
一瞬ののち、それはひとりの老人の姿を結んだ。
張りつめた弦のように、まっすぐな背筋。
一分の隙もない仕立ての、厳格な青いスーツ。
鼻には鼻眼鏡。
ほどよい長さの銀髪は、きっちりと後ろへ撫でつけられている。口髭と短い顎髭は、一本の乱れもない。
冷たく、何の感情も映さない眼差し。
だがその冷たさの奥には、底というものがない深さがあった。
リックは立ち上がり、老人の前へ歩み出た。
さっきまでの笑みは、その顔から消えていた。
「父さん、やっぱり休ませてはくれないんだね。新しい痕跡が見つかった?」
「ふむ」
老人はゆっくりと部屋を見回した。
厳しい顔に、かすかな満足の影がよぎる。この部屋は、どうやら気に入ったらしい。
「息子よ。発つときには、女将にきちんと礼をしておけ」
リックは黙って頷いた。
いつも穏やかなその目に、今は深い敬意が宿っていた。
運命は息をついた。
鼻眼鏡の向こうで、数え切れない歳月の疲れが、一瞬だけ揺らいだ。
「ああ。今度ばかりは、本当に厄介だ」
運命は歩み寄り、父親らしく息子の肩を叩いた。
その瞬間、すぐそばの空気が凝り固まり、床の上に影がこぼれ落ちた。
さっきリックが体内へ吸い込んだ、あの密偵の影だった。
黒い染みは苦しげに歪み、震え――そして再び人の姿に戻った。
男は畳の上で身を丸め、かすれた荒い息をついていた。
「それと、もうひとつ」
運命はリックへ視線を移した。
「今回は、仲間が要る。多ければ多いほどいい」
老人は急ぐことなく、固まったカグツチのほうへ二、三歩進んだ。
そして冷ややかな好奇の目で、火の神を頭から足先まで眺めた。
その視線の下で、カグツチの中に残っていた炎の最後の揺らめきが消えた。
焦げた匂いすら、残らなかった。
運命の前に座っていたのは、ただの人間だった。
「しばらく、お前の力は封じておく」
老人は平らな声で言い、それから小さく息をついた。そうせざるを得ないことを、自分でも惜しんでいるかのように。
「お前たちが向かう先では、余計な注目を集めないほうがいい」
運命は息子へ向き直り、その目をまっすぐに見た。
「息子よ。あそこは、どこまでも中世の世界だ。本物の魔法もある。お前たちの古い伝説と、そう変わらん」
老人はもう一度、部屋の中を見渡した。
静まり返ったカグツチ。熊。床の上の密偵。
「お前たちなら、うまく溶け込めるだろう。だが、忘れるな。力は手綱を締めておけ。お前たちの一挙一動が、均衡を崩しかねない」
リックは短く頷いた。
「ほかに、何か分かっていることは?」
彼は目を閉じ、一瞬、こめかみに指を当てた。
聞いたばかりの話を、すでに知っている何か――あるいは漠然と感じている何かと、照らし合わせるように。
「あの世界の暮らしに溶け込め」
運命は、変わらない平らな声で答えた。
「そして、できるだけ多くの情報を集めろ」
リックは目を閉じたまま、眉を上げた。
「何が難しいの? 情報集めで困ったことなんて、一度もないよ」
老人は重く息を吐いた。
その落ち着きは、髪一筋ほども揺るがない。
だが声の調子ひとつで、事態が見た目よりはるかに深刻であることだけは伝わった。
「ただ、消えた子どもたちのことを調べろ。今はそれ以上言えん」
それから運命は、ゆっくりと残りの者たちへ向き直った。
鼻眼鏡の奥の眼差しが、彼らを床へ押しつける。
「そして、お前たち」
間。
部屋の空気が、さらに冷えた。
「こいつから、目を離すな」
三人とも、指一本動かせなかった。
それでも、全員の背筋を冷たいものが走った。
彼らにできたのは、瞬きひとつだけだった。
それで十分だった。
老人はかすかに頷き、鼻眼鏡を直して、両手を背中で組んだ。
「では、覚悟しておけ」
言葉を重ねるごとに、その姿は薄れていった。
青いスーツも銀髪も、煙のように空気へほどけていき、やがて淡く透けた輪郭だけが残った。
完全に消える前に、運命は最後にもう一度、息子を見た。
「もう一度言っておく。頼れるのは、お前たち自身だけだ。あの次元に、私はいない」
そして、輪郭は溶けて消えた。
リックはしばらく、父が立っていた一点を見つめていた。
(……いない、か)
部屋に、いつもの時間が戻ってきた。
石造りの湯船の上に、再びゆるやかに湯気が立ちのぼる。部屋の隅で、柔らかな影が息を吹き返した。
密偵は喘ぐように空気を貪り、どうしても震えを止められずにいた。
ただの人間の密偵だ。
この仕事を引き受けたとき、自分が何に首を突っ込むことになるのか、想像できたはずもない。
カグツチは、ゆっくりと自分の掌に目を落とした。
肌は、もう燻っていない。
炭のようなひび割れから、見慣れた熱が漏れ出すこともない。
何千年ものあいだ己そのものだった力が、消えていた。
三人の目が、そろってリックに向いた。
問いは、ひとつだった。
――これから、どうする。
「ここで待っていてくれ」
リックは落ち着いた声で言った。
「女将に会ってくる」
握った手を前へ差し出し、開く。
掌の上には、四角い穴の開いた銭が二枚。白と緑の混じった翡翠を削り出したものだった。
文字はない。
印もない。
そこから漂う古さと静けさは、肌で触れられるほどだった。密偵とカグツチは、思わず目を見開いた。
「行ってくる」
リックは短く言った。
そして、閉ざされた部屋から消えた。
熊は耳をひとつ動かしただけで、残ったふたりを気だるげに眺め続けた。
カグツチと密偵のほうは、すっかり言葉を失っていた。
あまりにもさりげない奇跡を見せられて、密偵の恐怖はどこかへ行ってしまった。
残ったのは、ただの放心だけだった。
リックが現れたのは、奥の庭。母屋の前だった。
急ぐことなく戸口へ歩み寄り、木の框を軽く叩く。
返事は、なかなか来なかった。
中では、その小さな音ひとつで、全員の顔から血の気が引いていた。
仲居たちは両手で口を押さえ、息をすることさえ恐れている。
大女将は、震える膝をこらえながら、ゆっくりと戸口へ向かった。
そして、足を止めた。
障子の紙越しに、見覚えのある、静かな影がはっきりと浮かんでいた。
あのお客様を、戸口で待たせるわけにはいかない。
震える手で戸を引き、目を上げることもなく、すぐさま深々と頭を下げる。額が床板に触れんばかりだった。
その後ろで、若女将――彼女の娘――と仲居たちも膝をついた。
誰も、息をしていなかった。
「どうか、おやめください」
リックは柔らかく、少し疲れたような声で言い、老いた女将の肘をそっと支えて立たせた。
大女将は身を起こした。だが、目を上げることはできなかった。
肩が、小さく震えている。
「あなたも、娘さんも、皆さんも、私の頼みを守ってくださいました」
リックは微笑んだ。うつむいたままの彼女には、見えていなかったが。
「おかげで、皆さんは命を守り、この家も守られた。約束どおり、お礼をお渡しします」
長年の働きで固く荒れた、皺だらけの掌に、彼は二枚の銭をそっと置いた。
指先がひんやりとした石に触れた瞬間、静けさの波が彼女の身体を満たした。
この数時間、心臓を締めつけていた恐怖が引いていく。
積み重ねた歳月の重みが、ふっと軽くなったようだった。
息が、澄んでいく。
大女将は呆然と息を吐き、初めて、リックを見上げた。
リックは深く頭を下げた。
彼女に。その娘に。仲居たちに。
「おもてなし、ありがとうございました」
そして、消えた。
宙に、最後の言葉だけが残った。
「今日は、旅館のほうへは入らないでください。それと……どうか、お大事に」
あまりにも唐突な去り際に、大女将は少し驚いた。
けれど銭を見つめているだけで、胸の奥が温かくなっていく。
こんな日のためになら、生きてきた甲斐もあったのだろう。
一枚を、彼女は大切に着物の衿の内へしまった。
一瞬、娘のほうを見る。
何も言わなかった。
もう一枚を手に、薬師如来像のもとへ向かう。
供え物をそっと像の傍らに置き、黙って手を合わせる。
そして軽い心で、母屋へと戻っていった。
その頃、リックは西館の仲間たちのもとへ戻っていた。
音もなく宙から現れた彼に、密偵は悲鳴を上げて後ずさった。
リックは、戸惑うカグツチを静かに見やり、それから震える人間へ目を移した。
「なあ。そろそろ、名乗り合わないか」
全員が頷いた。
熊も含めて。
「リチャードだ」
最初に名乗ったのは、リックだった。
「……カグツチ」
封じられた神が、低く応じた。
「け、健一です」
密偵が、消え入りそうな声で言った。
続いて、熊の腹の底から、低い唸りが小さく漏れた。
ほかの者には、ただの唸り声だった。
「マトゥン」
リックは、静かに繰り返した。
そして、柔らかく微笑んで毛むくじゃらの友を見た。
「兄弟。お前は、人間につけられた名を口にすることなど、ないと思っていたよ」
返ってきたのは、獣の静かな、規則正しい寝息だけだった。
「では、出発するとしよう」
リックがまとめた。
健一が、怯えたように声を上げた。
「も、もう、あんたの親父さんのところへ!?」
リックは首を横に振った。
「いや。私の力の拠り所へ」
次の瞬間、雑多な一行は、雪に覆われた山の急斜面に立っていた。
目も開けていられないほどの吹雪が、荒れ狂っている。
薄着の健一は、たちまち寒さに震え出した。
リックは彼をちらりと見た。
「行こう」
ゆるやかに手を振る。
すると、何百年も積もった雪の下から、岩の狭い裂け目が姿を現した。
「今夜はここで休んで、父を待つ」
洞窟は小さかった。
だが、巨大な熊も含めて全員が、押し合うことなく収まる、ちょうどの広さだった。
入り口で、仲間たちは一瞬、リックの背後で足を止めた。
リックは無造作に指を鳴らした。
小さな火花が、洞窟の真ん中にぽつんと転がった石へ落ちる。
石が、燃え上がった。
洞窟は、むらのない温かな光に満たされた。
その火を、カグツチは誰よりも長く見つめていた。
三人は燃え始めた石を回り込み、その周りに腰を下ろした。
リックは入り口のほうへ向き直り、もう一度手を振った。
外の雪が、たちまち隙間なく入り口を塞ぎ、吹雪の音を断ち切った。
彼は火のそばへ戻り、仲間たちの隣に腰を下ろして、静かに言った。
「休んでくれ」
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
時が止まった部屋で、
三人は瞬きひとつで「はい」と答えました。
……熊は、どうだったのでしょうね。
次回、一行は新しい世界へ。
魔法があり、剣があり、
そして父の目が届かない場所です。
少しでも続きが気になったら、
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一つひとつが、執筆の大きな力になっています。
感想も、一言でも大歓迎です。




