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無限の影  作者: Nick Occam


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第十六話:雲蒸竜変

大女将が引き戸を閉めると、西館の特別室には耳が痛いほどの静寂が降り立った。リックの連れは重々しいため息をついた。その巨躯の周囲で空間が波打ち、緑のシャツとズボンの輪郭が溶けていく。


次の瞬間、畳の上には漆黒の巨大な熊が座していた。豪奢な浴場を備えたこの部屋は、その巨体を収めるに十分すぎる広さであった。


「すまんな、兄弟。俺はどうにも人間の皮ってヤツに馴染めなくてね」


木造の建物を揺らすような、低く響く重低音の聲(こえ)であった。


リックはこうなることを完全に予期していたため、振り返りさえしなかった。彼は静かにベルトを外し、古びたシャツを脱ぎ捨てた。


「お前は湯には浸からないんだな?」


毛の山を見上げながらリックが尋ねると、獣は巨大な頭を横に振るだけで、湯気から離れた畳の上にどっさりと横たわり、慣れた様子で前脚に顎を乗せた。


リックは軽く肩をすくめると、いつものように木桶で身を清めてから湯船へと足を踏み入れた。湯は身が引き締まるほどに熱かった。彼は頭のてっぺんと目だけを鏡のような水面に出し、ほぼ全身を湯の底へと沈めた。


時間は静かに流れた。


数時間が経過した頃、影に紛れるようにして一人の男が部屋へと忍び込んできた。初広の放った密偵である。男は入り口付近の最も暗い物陰に潜み、息を殺して気配を消していたが、目に飛び込んできた光景に完全に言葉を失った。


畳の上ではあり得ないほど巨大な熊が悠々と眠り、湯船の中では人間の影がピタリと動きを止め、息をする素振りすら見せずに沈んでいる。ひと息も吸わずに何時間も水中に留まる人間など存在するはずがない。


密偵の困惑はすぐさま純粋な恐怖へと変貌した。


突如として、水中からくぐもったリックの声が響き、誂えられたような静寂を切り裂いた。その音は波紋となって水面を細かく揺らす。


「いい湯だ。静けさも実に心地いい」


次の瞬間、石造りの湯船から水面が激しく落ち込んだ。水が乾いた音を立ててリックの鼻孔へと吸い込まれていき、彼の両肩が露わになる。


姿勢を変えず、瞬きひとつしない視線を扉近くの影の塊に固定したまま、リックは淡々と言い放った。


「そこにいるのは分かっている。そこから引きずり出すのは造作もない。だが……もっと面白いものを見せてやろう」


扉の側の影が不自然に歪んだ。密偵は脇へ跳んで逃れようとしたが、まるで目に見えない万力に固定されたかのように、指一本動かすことができない。


次の瞬間、リックが大きく息を吸い込むと、湯船に満ちていたすべての水が一滴残らず、豪快な音と共に彼の鼻へと吸い込まれていった。


続いて、深い吐息。


吐き出された水は雪崩となって吹き出し、瞬く間に湯船を満たし、縁から溢れ出て畳を飲み込んでいく。眠る熊はこの濁流にも全く動じず、寝返りを打つように脚をひと動かししただけで、穏やかに寝息を立て続けていた。


そして再びのリックの吸気。渦を巻く水塊は、恐怖に慄く密偵の影ごと呑み込み、猛烈な勢いで彼の鼻孔へと吸い込まれ、完全に消失した。


安らかな息を吐き出すと、リックは湯船に水を戻した。まるで最初から空になどならなかったかのように、水面は元の水位へとピタリと収まった。男は再び目元まで湯に浸かり、肩を温めた。


「お前にはまだ聞こえているはずだ」


水面を微かに揺らすほどの低い声で、リックは体内に取り込んだ密偵へ語りかけた。


「後でお前の雇い主のところへ挨拶に行こう」


リックはゆっくりと目を閉じ、途切れていた休息へと戻った。西館には再び平穏が満ち、それを破るのは畳の上の巨獣が立てる呑気な寝息だけであった。水の下へ顔を沈めながら、リックは最後にポツリと呟いた。


「さて……もう一人の押し掛け客を待つとしようか」


* * *


気配は極めてかすかであった。誰かが廊下を足音もなく進んでくる。床に触れてさえいないかのように、その存在はこの旅館の空間をほとんど歪めていなかった。


その気配が部屋のすぐ前まで来た瞬間、重々しい襖が誰の手も借りずに、無音でスーッと横へ滑った。闇に紛れて近づいた者にとって、それは完全な不意打ちであった。


開かれた闇の中に、自らの内から漏れ出る鈍い紅蓮の光を纏った男が立っていた。カグツチである。古代の火の神は、敷居のところで呆然と立ち尽くした。部屋へ足を踏み入れるより早く、自らの忍び足が無意味であったことを思い知らされたからだ。


水面から覗くふたつの穏やかな目が、微動だにせず彼を見つめていた。


リックはゆっくりと立ち上がった。彼が体を起こすにつれ、肌に残った水滴は一滴残らず吸い寄せられるように湯船へと戻り、落ちていった。畳の上に足を下ろした時、彼の肌も髪も完璧に乾いていた。


次の瞬間、一瞬の隙もなく、彼は元の着古した白いシャツと黒いズボンを身に纏っていた。彼が立ち上がったのは単なる礼儀からであった。客人を迎えるにあたり、湯に浸かったまま応対するのは彼の流儀に反するからだ。


「やあ、友よ。待っていたぞ」


リックが穏やかに声をかけると、ようやく巨大な熊が億劫そうに頭を上げ、畳の上に体を起こして招かれざる客をじっと見つめた。


リックは一歩前へ踏み出すと、手を伸ばし、マグマのように煮えたぎり地下の炎を噴き出すカグツチの掌を迷いなく握りしめた。ふたつの皮膚が触れ合った瞬間、信じられない現象が起きた。


毒々しい炎と黒く燻る亀裂が跡形もなく消え失せ、リックの指の下から、ごく普通の人間と同じ健康な肌が露わになったのだ。


握手が解かれると、原始の炎と灰の汚れは瞬時に元へと戻った。火の神は固まり、自らの手のひらを見つめ直した。悠久の時を生きてきて、己の呪われた出生の炎をこれほど易々と消し去る力など、彼は一度たりとも目にしたことがなかった。


リックは空いている座布団を指差し、静かに着席を促した。


「座りなさい。話を聞こう。それと……お前のマナーについてもな」


リックの到着は後であったが、この火の神が大女将に対してどれほど無礼に振る舞い、廊下の床を焦がしたかをすべて見抜いていた。その気になれば熱を抑えられたはずなのだ。神という高位ゆえの傲慢と過剰な自尊心——それは決して褒められたものではなかった。


ボロボロのシャツを着た見知らぬ男に説教をされ、カグツチの内面で怒りが沸騰し始めた。しかし同時に、底知れぬ困惑が彼を縛り付けた。この男は己のすべてを見透かしている。


火の神が怒りに任せて反論しようと灼熱の気を胸に溜め込んだ瞬間、リックが先手を打った。


「その歳にもなって、思慮というものを学び損ねたらしい」


リックは深くため息をつき、同情するように首を振ると、低い聲で付け加えた。


「頭を冷やすんだな」


そして、静かな視線を横の毛の山へと向けた。


「こちらは私の友人だ。この星のあらゆる神々よりも古くから存在する。……もしその態度を改めないというなら、彼に相手をさせよう」


その言葉に含まれた絶対的な冷徹さと静けさに、カグツチの狂暴な気性が激しく揺らいだ。衣服を舐めていた不吉な炎が急速に鎮まり、灰色の皮膚の下へと引いていく。部屋を満たしていた息苦しい熱気は、瞬く間に心地よい涼気へと様変わりした。


* * *


東館では、全く別の緊張感が漂っていた。初広は苛立ちを募らせていた。手下に命じた手探りの調査は数分で終わるはずだったが、手下は戻らない。しかし、その苛立ちも同行したビジネスパートナーたちとの会話にかき消され、気づけば数時間が経過していた。


突如として、消えた手下の存在が初広の脳裏に蘇った——空間を押し潰すような異常な気配と共に。部屋の空気は一瞬にして鉛のように重く変質したのだ。部屋にいた全員の呼吸が数秒間完璧に止まった。


強烈な窒息感とパニックが襲いかかる。男たちが酸欠で意識を失いかけたその瞬間、圧力は去った。


激しく喘ぎながら、手下の一人が引き戸へ駆け寄り、勢いよく開け放った——そして悲鳴を上げて仰向けに転倒した。


敷居の向こうに、廊下は存在しなかった。


そこにあったのは、完璧な、触れられそうなほど濃厚な暗黒——闇そのものであった。


恐怖を押し殺し、男たちは闇の向こうへ足を踏み出そうと試みたが、その暗黒はあまりにも濃密な壁となって彼らを阻んだ。空間の檻に閉じ込められたことを悟った男たちは、戸を閉めて怯えながら待つしかなかった。彼らにとって、時間は完全に停止していた。


やがて、耐え難い圧迫感に耐えかねた初広自らが戸を強く引き開けた。


すべては元に戻っていた。目の前には再び温泉旅館の静かな木造廊下が伸びている。しかし、周囲を支配していたのは、不気味なほどの静寂であった。


ひと塊になった男たちは、ゆっくりと西館へと向かった。旅館は完全に無人と化していた。大女将の姿も、仲居の気配も一切ない。


リックたちが滞在しているはずの特別室の前に辿り着くと、男たちはようやく息を吐いた。ここへ来て隠れる意味などないと悟った初広は、木枠をコンコンと短く叩いた。


返事はない。


彼らは慎重に引き戸を滑らせ、中を覗き込んだ。


部屋には誰もいなかった。完璧に整えられた畳、清らかな湯を湛えた湯船——まるで最初から、この豪華な部屋に誰も足を踏み入れたことがなかったかのように、ただ静寂だけがそこにあった。


お読みいただきありがとうございます。

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