第14話:狸の皮算用と触らぬ神に祟りなし
ずっと昔、リックがまだ幼い子どもだった頃、彼には夢があった。
目が見えなかった彼は、日が昇る国についての物語を幾度となく耳にしていた。いつかその地を踏み、その国の太陽の光を、この肌で感じてみたい——それが彼の小さな願いだった。
それから長い年月が流れ、大人となり、苛烈な人生の道を歩んできた今、ふとその記憶が蘇った。商売も戦いも忘れ、ただ少しばかり旅に出るのも悪くない、と彼は心に決めたのだった。
今の彼は、ただの『人間』になりたかった。ほんの束の間であっても。
美しい景色を眺めながら歩くこと。たとえ稼ぎや平穏が次の瞬間には潰える運命にあったとしても、今のリックにとってはそれ以上に大切なものはなかった。
外はすっかり黄昏に包まれていた。
「なあ、相棒……」
世界はこんなにも広く、そして今の彼にとってはすべてが手の届く場所にあった。リックはどこから回るべきかと思いを巡らせる。
「まずは温泉にでも行ってみようか。急ぐ旅でもないしな」
隣で聞こえた巨躯の低い唸り声は、明らかに事態を察している様子だった。
「……ん? もうすぐ閉館時間だって?」
リックは苦笑いを浮かべ、気をとり直して言った。
「そいつは大変だ、急がないとな。だが俺は途中の道のりも楽しみたいんだ。だから……」
熊の相棒が呆れたように首を振る。
「……『転移』はナシだぞ」
こうして二人——一人と一匹は、軽い足取りで温泉街を目指して走り出した。
* * *
日の暮れかけた頃、老舗旅館の女たちは要人の来訪に備えて慌ただしく動いていた。
「大女将……お気づきになられましたか?」
忙しなく立ち働く仲居たちに目を配りながら、老女将は視線を動かさずに静かに答えた。
「ええ……変革の風が、未知なる災いと幸いとを運んできているようです」
そっと目を閉じ、大女将は己の研ぎ澄まされた直感に意識を集中させる。すっと肌が粟立ち、年季の入った顔に微かな戦慄が走った。
「不穏ですね。この地を守る鎮守の神々や大妖怪たちが、何者かから逃れるように姿を消しています……」
大女将は静かな足取りで薬師如来像の前へと歩み寄り、深く手を合わせて祈りを捧げた。
「どうか、今宵が無事に過ぎ去りますように」
しんと静まり返る館内。誰一人として大女将の直感を疑う者はいなかった。彼女の胸騒ぎが外れたことなど、一度としてなかったからだ。
奥の部屋から、同じく質の良い絹の着物を纏った若く美しい女性が現れた。仕立てや意匠は大女将のものとよく似ている。
「若女将」
母の静かだが凛とした声に、廊下を擦る仲居たちの足音がピタリと止まった。
「東館の御風呂は、例のお方をお迎えする準備が整いましたか? まもなくご到着です」
「はい、大女将」
若女将——娘は深く頭を下げ、努めて平静に答えた。手はずはすべて整っているはずだった。しかし、母の目元に浮かぶわずかな陰りが、彼女の胸を騒がせる。
「……何か問題でもございましょうか?」
大女将は表情一つ変えず、威厳に満ちた声で命じた。
「至急、西館の最上の湯と客室を整えなさい。私が直接確認します」
娘の顔に戸惑いが広がった。母は素早い足取りで西館へと向かい、娘と仲居たちも慌ててその後に続いた。
「ですが母上、あちらには今、政財界の重鎮の方々がお泊まりのはずでは……!」
しかし、大女将の頭には新しく訪れる二人の『客人』のことしかなかった。
「これからお見えになる御方同士を、決して鉢合わせさせてはなりません。絶対にです」
有無を言わせぬその響きに、娘は言葉を飲み込み、静かに母の背を追った。
* * *
大女将は襖の前で滑らかに膝をつき、絹の裾を畳の上に静かに広げた。両手を突き、額を畳にすりつける完璧な土下座の姿勢をとる。
「初広様……」
その声は澄み渡り、ここ数分間の胃が千切れるような緊張感を欠片も感じさせなかった。
「私どもの不手際、何とお詫び申し上げればよいか……実は西館の源泉にて配管の不具合が生じ、湯圧が著しく低下してしまいました。初広様の貴重なお時間を損ねるわけには参りません。
どうか私に免じ、東館の特別室へとお移りいただけないでしょうか。あちらは、今宵のためだけに整えました庭園を一望できる最高の部屋にございます……」
大女将は微動だにせず頭を下げ続けた。薄墨色の着物が畳の上で美しいひだを描いている。室内には氷のような沈黙が満ち、初広の連れの役員たちも息を殺してボスの顔色を窺っていた。
「配管の故障、かね? なんと間が悪い」
初広は卓の上の茶碗をゆっくりと置き、大女将を見向きもせずに鼻で笑った。その瞳に冷酷な光が宿る。
「私はね、この旅館の隙のない仕切りをいつも買っていたのだよ、女将。だが……西館の湯が『都合よく』枯れたというのなら、その提案に乗ろう。連中も長旅で疲れている、人目を気にせず休みたいのでね。東館の湯は、さぞかし清らかだろうな?」
「勿論でございます、初広様。私どもの誠心誠意のおもてなしに変わりはございません」
大女将は静かに立ち上がり、控えの間で待機していた娘へ一瞬だけ視線を送った。その目は鞭のように鋭かった。
(残された時間は五分です。しくじれば、この旅館は潰れますよ)
母が時間を稼ぐため、初広たちを庭園の回廊を巡る一番の遠回りのルートへと誘導する。静かで耳に心地よい声で窓の外の樹齢百年の松の由来を語り、湯煙にちなんだ古歌を口ずさみ、石灯籠の風情を讃える。大切な客たちの足を極限まで遅らせるために。
その裏で、西館では若女将による「無音の制圧」が行われていた。
彼女の鋭い合図で、四人の仲居が初広たちのVIPルームへと雪崩れ込んだ。寸分の狂いもない歯車のように、洗面台からは高級髭剃りセットが消え、クローゼットからは革のスーツケースが運び出された。
一人が布団を完璧に整え、もう一人が卓の水滴を拭き取り、三人目が竹の香を焚いて高級香水の匂いを完全に消し去る。まるで一ヶ月誰も足を踏み入れなかったかのように。
若女将自身も、裏の狭い作業通路を走り回っていた。パニックになりそうな心を必死に抑え込み、訪問着の裾を両手で持ち上げる。重厚な袋帯が肋骨を締め付け、心臓が喉から飛び出さんばかりに跳ねていた。
初広たちが東館の部屋に到着するわずか一分前、すべての荷物の移動が完了した。表の襖が開かれた瞬間、仲居たちは裏の隠し扉へと滑り込んだ。
部屋に入った初広たちを迎えたのは、息を整え、完璧な作り笑いを浮かべた若女将だった。袖の奥で指先が微かに震えていることなど、誰も気づかない。
初広は部屋の中央へと進み、すぐには座らず、じっくりと空間を見渡した。旅館側の「詫びの品定め」だ。
この部屋は前の客室より二畳ほど広く、床の間には大臣クラスにしか出さない江戸時代の貴重な掛け軸が飾られていた。そして露天風呂からは、茜色に染まる京都の山々が一望できる。西館の竹林の眺めとは比べものにならない景観だった。
自分を宥めるために旅館が骨を折ったことを悟り、初広は満足げに目を細めた。プライドが満たされたのだ。彼が寛大に座布団へ腰を下ろすと、役員たちの緊張も解け、口々に景色を褒めそやしながらネクタイを緩め始めた。
若女将は滑らかな足取りで、料理長特製のてっさと三十年物のヴィンテージ日本酒を運んだ。
一時間後。
酒が回り、役員たちが株価の話題で盛り上がり始めた頃、初広は小さく指を動かした。一番若く素直な側近を呼び寄せる。
初広は耳元へ顔を寄せ、冷徹な呟きを放った。
「この旅館の配管工事は先月終わったはずだ。決算書を覚えている。女将は嘘をついた。
だが、奴らは我々に最高の部屋を提供し、秘蔵の酒を出した。……つまり、我々を追い出してまで通す客は、異常に危険か異常に金持ちのどちらかだ。西館に入った奴の正体を探れ。
静かにやれ。若女将に見つかったら、酒が回って迷ったと言え」
側近は恭しく頭を下げ、静かに立ち上がると、夜風に当たると称して襖の向こうへと消えた。廊下の暗がりに出ると、彼はスマートフォンを取り出しながら、迷わず西館の方角へと歩き出した。調査が始まった。
* * *
初広の側近は廊下の暗がりの中へと静かに姿を消した。大女将と若女将は東館の木の回廊に立ち、その後ろ姿を見送っていた。そしてまさにその瞬間、まるで残酷な意思が働いたかのように、旅館の外の世界が一変した。
京都の山々を覆っていた夕闇は、突如として漆黒の闇へと飲み込まれた。竹林を叩く風は、太い竹にさえ悲鳴を上げさせ、へし折るほどの猛威を振るった。空気は一瞬にして重くなり、オゾンと湿った土の匂いが充満した。
裂けるような雷光が庭園を歪んだ影の絵画へと変え、地響きのような雷鳴が旅館全体を揺らした。
だが、大女将が震えていたのは嵐のせいではなかった。
東館の門前に、そいつは現れた。第一の客。
カグツチ。苦悶の中で生まれ、産声を上げると同時に実の母を焼き尽くした、古の呪われし火の神。供も連れず単身で現れたが、その周囲の空間はまるで火葬場の炎のように毒々しく歪んでいた。
カグツチの姿は、痩せこけた背の高い男のようだった。灰色の肌は乾ききった大地のようにひび割れ、その亀裂の奥から熾火のような紅蓮の炎が明滅している。
絹の衣服ではなく、焦げたボロ布を纏い、その裾からは黒い煙を上げる炭の跡が廊下に刻まれていく。灰色の煙のような髪は目に見えぬ熱気で揺らめき、眼球のない眼窩には燻る炭が二つ深く沈んでいた。
彼が素足で踏みしめた畳は瞬時に黄色く枯れ、甘ったるい焦げ臭さを放った。
廊下の空気は息を焦がすほどに乾燥し、窒息しそうだった。古き建物に棲まう妖怪や悪霊たちは、原初の炎の圧に恐怖し、床下に潜り込んで息を潜めた。
若女将は硫黄と焼けた肉の匂いに吐き気を催した。母の顔を見上げると、そこには完璧だった仮面が崩れ落ち、絶望の表情が張り付いていた。
超人の力も妖怪の狡猾さも知る老女将は理解していた——目の前にいるのは、湯の温度一つ気に入らないだけで、世界を灰に帰すことのできる神なのだと。
身を縛る恐怖をねじ伏せ、大女将は最も深い平伏をとった。
「お迎え……申し上げます……カグツチ様……」
声が掠れ、途切れた。
カグツチは答えなかった。ただ山火事の地鳴りのような低い唸りを上げ、足を進めた。母娘は灼熱の気配に息を詰まらせながら、彼を東館の、もうひとつの貴賓室へと案内した。
初広たちの部屋の危険なほど近くであった。神に謝罪することも、別の部屋を勧めることも、即座の死を意味していた。
カグツチの後ろで乾いた音を立てて襖が閉まり、木枠に焦げた手形が残された。若女将は母の手を握りしめ、冷たい空気をごくりと飲んだ。だが、大女将は娘を見ようともせず、ただ門を見つめていた。
外の嵐が、いっそう超自然的な威容を帯びて荒れ狂う。雷鳴は途切れることなく打ち付け、建物を揺らし続けた。温泉の下の大地が、細かく震え始める——第二の客が、門へと近づいていた。
東館の廊下に未だ焦げた肉と乾燥した炎の匂いが立ち込める中、大女将はふらふらと中庭の縁側へと踏み出した。皺の刻まれた顔を冷や汗が伝い落ち、プロとしての矜持を完全に洗い流していた。
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