第十二章 処罰
二人は互いの目を見ていた。
自惚れと決意が向かい合い、膨れ上がった力と静寂がぶつかっていた。
偽善の顔には汗が流れていた。目の前に立つ男は、極限まで研ぎ澄まされていながら、恐ろしいほど静かだった。怒りも、焦りも、何かを証明しようとする気配もない。
その静けさが、どんな侮辱よりも深く神経を逆なでした。
膨大な力が偽善の理性を押し潰し、自信を膨らませ、目の前にいるのはただの人間だと囁いていた。
それだけで十分だった。
偽善が地を蹴った。
青い火花が、引き裂かれた痕のように空中へ残る。結界の内側を駆け回るその速度は、普通の目ならとうに見失っているはずだった。
だが、リックは視線すら動かさなかった。
衝撃波が結界を抜け、学校へ向かって走る。
それを迎えたのは熊の咆哮だった。低く、深く、どこか古い響きを持つ声。その音に衝撃波そのものが震え、砕け、子どもたちへ届く前に散った。
攻撃は横から来た。
リックの手が短く動き、軌道を外す。同時に右手が鞭のように走り、半ば曲げた二本の指が敵の顎へ食い込んだ。
倒すための一撃だった。
速く、正確で、怒りはなかった。
足元の地面が割れた。亀裂が四方へ走り、衝突の力を受け止めたリックの足は、くるぶしまでアスファルトへ沈んでいた。
偽善は揺らがなかった。
笑みさえ消えない。
彼はただ、さらに強い優越感を宿した目でリックを見下ろした。
「なかなか頑丈だな」
リックの声は乾いていた。食いしばった歯の隙間から漏れたその言葉に、驚きはない。ただ、張り詰めたものだけがあった。
彼はすぐに両手で相手の頭をつかみ、身体を引き上げるようにして、額を鼻梁へ叩き込んだ。
鈍い音がした。
鼻から、細く血が流れた。
それでも、反応はほとんどなかった。
偽善の歪んだ笑みは、むしろ深くなった。一撃を受けるたびに、リックの力ではなく、その無力さが証明されているとでも言いたげだった。
「それでも駄目か」
リックは深く息を吸った。
「なら――」
言い終える必要はなかった。
身体に力がこもり、結界の内側で白い閃光が弾けた。
一瞬、すべての視界が奪われる。
偽善も、マーカスも、ニクラウスも、遠くから見ていた子どもたちでさえ、息を呑むことしかできなかった。結界が光の衝撃を抑えたため、普通の人間に被害は出なかった。
リックは割れた地面から足を引き抜いた。
「ほかの道も示したはずだ」
偽善は瞬きを繰り返し、視界を取り戻そうとしていた。まだ笑みは残っていたが、その端がかすかに震えていた。
リックは向かい合ったまま、もう通常の力では足りないと理解していた。
一瞬でいい。
身体の力を、ほんの一粒だけ外へ出す。
それ以上は必要ない。
彼は攻撃のためではなく、自分自身を押さえ込むために全身へ力を込めた。準備もなく受ければ、この身体でさえ安全ではない。
『空間が耐えてくれればいいが』
結界が内側から震えた。
重い揺れが波のように広がっていく。鈍く、深く、次第に圧を増しながら、校庭の地面を震わせ、窓ガラスを鳴らし、校舎を低く軋ませた。木々の葉が一斉に片側へ向き、見えない風に押し伏せられたように揃う。
リックの周囲の空気が震動した。身体から輪のように波紋が広がり、そのたびに世界が薄くなっていく。腕の血管が浮き、首筋に筋が走り、筋肉は一撃ではなく、周囲のすべてを壊さないために張り詰めていた。
校舎が揺れ始める。
それを視界の端で捉えた瞬間、リックは力を止めた。
『やはり、この身体は定命の者の世界には向いていない』
これ以上は駄目だ。
偽善が完全に立て直すより早く、リックは一歩踏み込み、その鼻をつかんだ。
乱暴で、屈辱的で、まるで罰を受ける獣を引きずるような掴み方だった。
校庭の誰もが、まだ光に目を眩ませている間に、彼は空間を抜けた。
結界が潰れる。
学校は背後に消えた。
偽善が目を開けたとき、そこはすでに別の世界だった。
目の前には、巨大な木々の森が広がっていた。幹は空の彼方へ伸び、どこまで続くのか分からない。石の血管のような根が地面を裂き、空気は濃く、古く、重かった。
ここには校庭も、子どもたちも、壊れやすい壁もない。
あるのは森だけだった。
そして、すぐそばに立つリック。
「この世界なら、これから行うことにも耐えられる」
偽善は立ち上がろうとしたが、膝が崩れた。視線ひとつが、打撃よりも重く身体を押さえつけている。
力は残っている。体内では熱が煮え立ち、身体はまだ燃えている。それなのに、膝が言うことを聞かない。
リックは近づき、見下ろした。
「すべて解放しろ」
偽善が、ごくりと唾を呑んだ。
リックはその隣にしゃがみ込み、ほとんど耳元で言った。
「紫を見せろ」
その顔に、初めて本物の衝撃が浮かんだ。
知っている。
知っているはずのないことを、リックは知っていた。
偽善の身体は、立ち上がる前から燻り始めていた。皮膚に亀裂が走り、青い炎が濃くなり、暗く沈み、色を変えていく。炎の奥に紫の筋が浮かび始めた。
痛みはすぐには来なかった。
最初は熱。
次に、骨の奥を削るような軋み。
そして、草の上へ崩れ落ちて叫ばずにはいられないほどの激痛が襲った。
偽善の指が土を掴む。炎は肉を喰らいながら、同時に力をさらに高く押し上げていった。
リックは待った。
憐れみも、急ぎもなく。
森は沈黙していたが、その沈黙には命があった。
痛みの中で、偽善は立ち上がり、前へ飛び出した。
角度と拍子を変えながら、攻撃が加速していく。紫の閃きが空気を裂き、足元の草を焦がし、外れた軌道のあとには短い熱の痕が残った。
リックは半歩だけ身を外し、攻撃の線をずらし、肋骨をかすめるはずだった一撃を通過させるだけの角度で身体を回した。そして、力の流れが粗く開いた場所へ、短く指を打ち込む。
一撃が肩の下へ入り、次の返しが呼吸を乱し、さらに次の接触が偽善の足をわずかに下げさせた。それでも彼は笑おうとしていた。
喉から獣のような声が漏れる。
痛みではない。
怒りだった。
リックの目に残る静けさが、息を詰まらせる。
攻撃は強くなり、荒くなり、必死さを帯びた。だが、踏み込みは空を切り、軌道は受け流され、返ってくるのは短く、嫌になるほど正確な反撃だった。
偽善が調子を変えるたび、リックはもう次の角度にいた。炎が濃くなるほど、返す指は深くなる。関節、腱、肋骨の下、力が通る場所。その一瞬だけ露出する継ぎ目が、確実に打たれていった。
偽善が一歩退いた。
続けて、もう一歩。
「抑えるな」
リックの声は静かで、どこか疲れていた。
偽善の肉はさらに燃えた。失われるほど、周囲を包む力の層は濃くなっていく。紫の炎は暗さを増し、足元の草は黒く変わり、空気には焼けた金属と湿った土の匂いが混じった。
「何が目的だ」
言葉は叫びではなく、痛みの隙間から引き裂かれるように漏れた。
リックはすぐには答えなかった。
この世界では、彼自身の力にほとんど形がなかった。光も、雷鳴もない。ただ、知らない声のかすかな歌と、頭上の葉擦れに似た低い響きだけがあった。
森は聞いていた。
思い出していた。
待っていた。
「罰だ」
偽善は再び飛びかかった。
リックは短く、硬く迎えた。肋骨の下へ、肩へ、脚へ。最後の動きで相手は数メートル弾かれ、片膝をついた。
立ち上がったとき、皮膚はほとんど残っていなかった。
肉の多くは炎に喰われ、紫の揺らぎの下に骨が透けている。偽善の目からは、もう最初の余裕が消えていた。残っているのは憎しみと、隠しきれない恐怖だけだった。
リックが片手を上げる。
「まだだ」
その視線は揺れなかった。
「完全に出せ」
偽善の手が震えた。恐怖は腕だけでなく、全身を伝っていた。それでも、選択肢はもう残っていない。
彼は、言われたとおりにした。
骨に細い亀裂が走る。指先から手首へ、肩へ、肋骨へ、頭蓋へ。紫の炎は縁から黒く染まり、残った身体を燻らせ、崩し、空気へ溶かしていった。かつて肉体だったものは、完全に消えた。
その場所に、純粋な力でできた幻影が浮かんでいた。
顔も、皮膚も、骨もない。
憎しみだけが形を支えていた。
「ようやくか」
リックは深く息を吸った。
幻影が消え、紫の裂け目だけを空中に残して、横に現れる。首を狙う斜めの一撃が走った。
リックは低く沈み、肘で返す。
形は揺らいだが、崩れない。
頭上からは、槌のような力の塊が落ちた。
リックはそれを額で受けた。
避けることも、防ぐこともしない。
紫の爆発が一瞬その姿を呑み込んだ。だが光が散ったあと、彼は同じ場所に立っていた。傷もなく、呼吸も乱れず、ただ静かに。
偽善が止まる。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
リックはすでに懐へ入っていた。拳が幻影の形を折り、続く一撃が輪郭を横へ流し、さらに打ち込まれた衝撃が、骨のない身体を痛みの記憶ごと歪ませた。
偽善は距離を取ろうとし、森へ向かって力の塊をばらまいた。紫の弾は何十にも分かれ、空気に傷跡を残しながら降り注ぐ。
リックはその中を進んだ。
肩で受けるものもあれば、半歩で外すものもある。短い手の動きで砕かれるものもあった。
どれひとつとして、彼を止められなかった。
森が目を覚ます。
葉が衝突のたびに震え、枝が鳴り、高い梢のどこかから、歓喜にも似た細い叫びが上がった。
古い世界が、強者の痛みを思い出している。
応えている。
偽善の攻撃はさらに激しく、大きく、追い詰められたものになった。だが、紫の裂け目が生まれる場所には、もうリックがいた。力の塊は呼吸を乱せず、速さは不意を突けず、怒りは動きの始まりを先に知らせてしまう。
恐怖が軌道を汚していた。
リックは足を止めた。
「今度はこちらの番だ」
偽善が退いた。
遅すぎた。
肩に入った一撃で片腕の形が消える。次の衝撃が幻影を横へ折り、さらに脚だった場所を打たれた形は、肉を失ってなお痛みを覚えているかのように歪んだ。
リックは胸を打たなかった。
中心にはまだ触れない。
周囲から崩していく。層を、輪郭を、支えを、立っているという感覚そのものを。
偽善は防ごうとし、離れようとし、反撃しようとした。守りは抜け、距離は消え、放たれた力は向かい合う動きの中で潰れていく。
勝負は、拳が止まるより先に終わっていた。
それでも打撃は続いた。
正確に。
容赦なく。
叫びも、愉悦もなく。
葉が震え、幹が低く鳴り、森は高い声で応え続けた。長い間、こんな戦いを見ていなかった。強きものが代償を払わされる瞬間を、忘れかけていた。
偽善は叫び、やがて声は掠れ、最後には音すら出なくなった。
幻影の身体は裂け、また寄り集まる。中心だけが、まだ形の残骸を繋ぎ止めていた。
そこへ、力が流れ始める。
みぞおちへ。
紫の細い流れが内側へ集まっていく。ゆっくりと、やがて速く。幻影は輪郭を失いながら縮んでいった。
リックは止まり、待った。
憐れみではない。
正確さのためだった。
最後の力の糸が中心へ入った瞬間、彼は一歩踏み込んだ。
鞭のように鋭い一撃。
半ば曲げた二本の指が、みぞおちへ沈む。
沈黙が途切れた。
紫の力が内側から燃え上がり、そのまま消えていく。爆発ではない。美しい光でもない。源そのものを塞がれたような消え方だった。
偽善が硬直する。
幻影の中心から、細い一本の糸が伸びた。
震える。
色を失う。
消え始める。
リックは、相手がほとんど残らなくなるまで見届けた。
それから残骸のような形をつかみ、空間を踏み越えた。
学校の校庭は、重い沈黙で彼らを迎えた。
結界は消えていた。子どもたちは入口の近くに立ち、マーカスとニクラウスはまだ木々の下にいる。熊も、同じ場所から動いていなかった。
リックは兄弟たちの前へ現れ、偽善を足元へ投げた。
それはもう身体ではなかった。
幻影ですらない。
ほとんど空の残り滓だった。
「まだ間に合うなら、持っていけ」
視線はマーカスへ向いていた。
声は平らだった。
だが、その平らさが、叫びよりも重かった。
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