第十一章 偽善
荒い息が、少年の唇から漏れていた。
血の雫がアスファルトに落ちる。
身体は限界だった。足元はもう崩れかけている。それでも彼は立とうとしていた。まるで、それが自分の命よりも大切な何かに関わっているかのように。
「君は、少し眠ったほうがいい」
低い声が、すぐそばで響いた。
巨大な熊と共に現れた男が、少年へ歩み寄り、そっとその両腕を下ろさせた。少年は抵抗しなかった。もう力は残っておらず、瞳も少しずつ濁っていた。
大きな手が、少年の頭に置かれる。
身体の内側で荒れ狂っていた流れが、静まり始めた。
借り受けられていた力の余剰が、少しずつ本来の持ち主たちへ戻っていく。
緊張はすぐには消えなかった。
普通の人間から見れば早すぎるほどだったが、リチャードにとっては、それでも痛ましいほど遅かった。
それでも、最も大切なことは終わっていた。
少年の身体は、それ以上壊れずに済んだ。
膝が折れる。
リチャードは彼が倒れる前に支え、そのまま慎重に抱き上げた。
眠りが、すぐそこまで迫っていた。
疲れ果てた子どもは、もうほとんど何も分かっていなかった。
リチャードはゆっくりと、他の上級生たちが立っている玄関前へ向かった。
「子ども以外は、動くな」
声を荒げたわけではない。
それでも、その言葉には、逆らおうとする者など一人もいないだけの重さがあった。
少年の身体を、仲間たちが受け止めた。
「保健室へ連れていけ。休ませてやれ」
戸惑った生徒たちは、友人を慎重に支えながら、急いで校舎の中へ入っていった。
残された者たちは、身動き一つできなかった。
圧倒的な存在感が、校庭全体を押さえつけているようだった。
空気さえ、重くなったように感じられた。
リチャードは向きを変え、侵入者がいる穴へ歩き出した。
その頃、熊は木々の下に立つ二人の見えない男たちの前へ立ちはだかっていた。
熊は吠えた。
低く。
警告するように。
意味は、言葉などなくても分かった。
介入するな。
兄弟たちの方を見ないまま、リチャードは片手で彼らを指した。
「こいつは僕が片づける。君たちは、もう十分やらかした」
二人の男は顔をしかめたが、動こうとはしなかった。
ただ、静かに視線を交わす。
「兄さん、あれは誰だ?」
浜辺にでも行くような格好をした男が尋ねた。
ニクラウスの声には、明らかな動揺があった。
武僧の姿をした男は、数秒だけ黙っていた。
胸の奥のざわめきが呼吸を乱していた。心臓は、いつもより速く打っている。
それでも答えはすぐに見つかった。
「前に話しただろう。目の見えない少年のことを」
ニクラウスの動揺は、奇妙な形へ変わっていった。
嫉妬。
警戒。
そして恐れ。
もう一人の血縁が存在している。
その事実が、彼にはひどく不快だった。
「覚えているさ」
彼は吐き捨てるように言った。
「それで、あの熊は何だ?」
二人は目の前の毛皮の山を見上げた。
マーカスの脳裏に、遠い昔の光景がよみがえる。
「おそらく、自然の守護者だ」
武僧はその厚い毛に触れようとした。
だが、低い唸り声に、その手が止まった。
「妙だな」
マーカスは呟いた。
「特に守る相手などいないはずだ」
彼は考え込み、目の前の事実を素早く組み立て始める。
「なら、なぜ俺たちを少しも恐れない?」
リチャードがわずかに振り返った。
薄く笑い、親指を立てる。
「ありがとう、兄弟。通さないでくれ」
その意識は、すぐに穴へ戻った。
「出てこい。いつまで芝居をしているつもりだ」
穴の底から、悪意のこもった笑い声が響いた。
次の瞬間、石が砲弾のように穴から飛び出し、学校へ向かっていく。
「自分の立場を悪くしているだけだ」
リチャードは重く息を吐いた。
恐れたからではない。
あまりの愚かさに、息が漏れただけだった。
片手を上げる。
巨石は軌道を変え、速度を失い、静かにその手の上へ収まった。
「二度は言わない」
返事はなかった。
リチャードは肩をすくめ、わずかに腕を引いた。
「分かった、分かった!」
侵入者が穴から出てきた。
ゆっくりと。
わざとらしいほど、落ち着いた動きで。
完全に地上へ上がると、リチャードは穴の縁へ近づき、手にしていた石を静かに戻した。
崩れた地面が、元の形を取り戻す。
そのあまりに静かな動作に、相手は無意識のうちに肌を粟立たせた。
リチャードは声を荒げなかった。
低く。
平らに。
感情を見せずに言う。
「こうしよう」
彼は学校の方へ、わずかに顎を向けた。
意味は十分に伝わる。
「一度だけ言う。繰り返さない」
距離を詰め、まばたきもせずに相手の目を見た。
「子どもたちに謝ってこい。余計な真似はするな」
侵入者はそれを聞き、少年たちの方へ歩き出した。
校庭に沈黙が落ちる。
彼の一挙手一投足を、あまりにも多くの視線が追っていた。
もう、自分が場を支配しているふりなどできないほどに。
半ばまで進んだところで、男の口元に、かすかに歪んだ笑みが浮かび始めた。
子どもたちが異変を感じ取る。
その顔に恐怖が滲んだ。
それだけで十分だった。
次の瞬間、空気が変わった。
重く沈む圧が、周囲を満たす。
空気は密度を持ったかのように、ほとんど手で触れられるほどになった。
その圧は、なおも急速に強まっていく。
侵入者は、子どもたちまで数歩のところで足を止めた。
リチャードの周囲で、空間がかすかに歪む。
「話は終わりだ」
彼は両手を頭のそばで合わせるようにして、目を閉じた。
すぐに意識を集中させる。
『母さんが言っていた……守るという意思に集中しなさい』
片目を開く。
リチャードは、自分と相手の周囲に小さな結界が生まれているのを見た。
わずかな不満が顔をかすめる。
「少し違うな。まあ、いい」
感情を静める。
視線を相手に固定する。
もう、誰かが巻き込まれる心配はなかった。
リチャードは、内側にあった、抗いようのない意思を外へ解き放った。
決定は下された。
「来い、偽善。打ってこい」
彼は構えなかった。
ただ、相手の攻撃を待った。
衝突が始まろうとする中、少し離れた場所で二人の男が静かに言葉を交わしていた。
空気は張り詰めている。
ニクラウスの顔には、露骨な嫌悪が浮かんでいた。
「なあ、マーク。あいつ、何て名前だ?」
マーカスはすぐには答えなかった。
彼はまだリチャードを見ていた。
敵と向かい合うその姿。
そして、その周囲に静かに濃くなっていく危険。
「俺たちの弟のことか?」
ようやく、そう尋ねた。
その言葉は、必要以上にニクラウスを刺激した。
彼は鋭く顔を向ける。
「俺たちの?」
そこにあったのは驚きではない。
侮辱されたような響きだった。
顔がたちまち赤く染まる。
「その居候を、俺たちのものみたいに言うな」
マーカスはゆっくり息を吐いた。
一瞬だけ、彼の目には本物の驚きが浮かんだ。
だが、言い争うことはしなかった。
今のニクラウスに、理屈など届かない。
「落ち着け、兄弟。言い過ぎだ」
「言い過ぎ?」
ニクラウスは静かに聞き返した。
笑ったが、その笑みに楽しさはなかった。
「都合がいいな。どこからともなく現れた奴を、もう家族として受け入れるのか。立派なものだ」
マーカスは首を振った。
「お前は分かっていない」
「俺には、今起きていることがよく見えている」
ニクラウスはリチャードを見た。
次に、彼らの道を塞いでいる熊へ視線を移す。
顔に浮かぶ嫌悪は、さらに冷たくなった。
だが、不意に表情が変わる。
怒りの中に、ひらめきが混じった。
「そうだ。お前のその……」
彼は言葉を詰まらせた。
名前が出てこないのか。
あるいは、まともに呼びたくないだけなのか。
「何だったか……とにかく、そいつにやらせればいい。お前のエネルギー解放を」
マーカスにとって、それは喜べる提案ではなかった。
危険すぎる。
早すぎる。
それでも、胸の奥には別の感情も生まれていた。
弟がどれほど成長したのか、自分も確かめたい。
『リチャード。頼む、耐えてくれ』
その言葉は、口には出さなかった。
今のニクラウスは、リチャードが存在するだけで苛立っている。
マーカスは深く息を吸った。
皮膚に、ゆっくりと亀裂が走り始める。
髭と体毛に火がつき、青い炎を帯びてじりじりと燻り始めた。
深くなっていく亀裂の奥から熱が漏れ、火花が散る。
瞳は濃い青へ変わっていった。
炎は密度を増し、やがて彼の身体を完全に包み込む。
リチャードは視界の端で兄弟たちを見ていた。
特にマーカスを。
頭の奥に、ある感覚が自然と浮かび上がる。
過去の一場面。
父の身体。
「なるほど。外からは、こう見えるのか」
その数瞬後、侵入者にも似た変化が現れた。
「上の者がいるんだな。近くに隠れているのか?」
マーカスにとって、その方法はとうに慣れたものだった。
だが、侵入者は苦痛に顔を歪めた。
過程そのものが、彼にかなりの痛みを与えている。
その代わりに、彼には珍しい感覚が生まれていた。
自信。
傲慢な笑いが辺りに響いた。
力が、男の思考を曇らせていく。
それに呑まれ、彼はようやくリチャードへ意識を向けた。
「邪魔しなけりゃよかったのによ」
口元の笑みは消えない。
その自信は、もはや妄想に近かった。
リチャードは、ほとんど気づかれないほど小さく姿勢を変えた。
彼の内側にあった雑音が、すっと消える。
左足が柔らかく横へ滑り、右足が半歩だけ下がる。
重心は低く沈み、両足のあいだに静かに収まった。
固さはない。
無駄な力もない。
身体は少し横を向き、顎を引く。
肩から余計な緊張が抜け、肘は自然に肋骨へ近づいた。
拳は握らない。
人差し指と中指だけが、いつの間にか半ば曲がっている。
何年も、何十年も繰り返された形。
記憶より深く、身体そのものに刻まれた癖だった。
外から見れば、ほとんど何もしていないように見えただろう。
だが、空気が変わった。
さっきまで、そこには敵を待つ男が立っていた。
今そこにあるのは、すでに一撃を孕んだ静寂だった。
「まったく気は進まない」
リックは静かに言った。
「けど、お前は罰しないといけない」
張り詰めた空気は、限界に達した。
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