薨去
剣聖・ジサは馬を駆って王都への道を急いでいた。
昨夜から不休不眠だ。にもかかわらず、体調はむしろ、体全体が活性化していて、絶好調であると言ってよかった。こんな経験をしたのは、彼自身も久しぶりのことだ。
よくよく考えると、着の身着のままで城を出てきてしまい、水や食料の類を一つも持っていない。そんな中でも、腰には愛刀を差しているのに気が付いて、思わず苦笑する。昨日の夜から飲まず食わずで馬を駆っていることになるが、驚くほどに空腹や渇きを感じない。いま、荒い呼吸を繰り返している馬は、つい先ほど、水と草を与えて休息させたところで、私よりも馬の方がエライな、などと心の中で呟いてみる。
その懐には、薬草が抱かれている。いつものところでは採ることができずに、少し崖に登って採ってきたものだ。普段は躊躇するほどの高さがあったが、なぜか、問題なく採れる気がして、何の迷いもなく崖をつかんでいた。それだけ、あの姫を助けたいという思いが強かったのだ。
彼は心の中で悔いていた。どうしてもう少し多めに草を取ってこなかったのか。そうであったらば、姫が運び込まれたときに、それを服用させることができたのだ。
正直言って、姫の命は、今日か明日がヤマであると彼は断じていた。薬草を持って帰っても、徒労に終わる可能性がある。にもかかわらず、体が勝手に動いていた。それだけ彼自身も、姫のことを愛していたのである。
屈託のない笑顔を見せる少女だった。好奇心の強い子供だった。社交辞令で提案した川での泳ぎも、目を輝かせていたのが忘れられない。とても、いい娘だった。ふとした拍子に、離宮で過ごした、一緒に遊んだ光景が思い出される。久しぶりに楽しいと感じたひとときだった。癒されたひとときだった。彼は心の中で姫に礼を言っていたのだ。その彼女が苦しんでいた。何とかしてやりたいと思うのは、自然のことであった。
すでに夜は明けていた。大体、人が天に召されるのは深夜であることが多い。この夜を乗り切っていたのであれば、まだ可能性はある。すぐに薬を調合して飲ませれば、あるいは間に合うかもしれない。
すでに遠くには城壁が見えていた。彼は一縷の望みをかけて、祈るような気持ちで、馬に鞭を入れた。
◆ ◆ ◆
部屋に着くと、皆が揃っていた。息子のシェンが顔を上げる。心の中でご苦労様でしたと言っているのが伝わってくる。彼の目を見て、ジサはすべてを察した。
「……夜明け前に」
「……そう」
シェンと短い会話を交わすと、ジサはタウマの許に向かった。きれいな顔をしていた。まるで、眠っているかのような佇まいだった。彼はその頭を優しくなでた。
「……ごめんなさいね。私が、もう少し、多めに薬草を採ってきていれば、よかったね」
思わずそんな言葉が口をついて出た。後ろからシェンがやって来た。
「いいえ。お父さんのせいではありませんよ。……薬草を、取ってこられたのでしょう。お疲れさまでした。どうぞ、ゆっくりとお休みください」
「最後の様子は、どうだったんだい?」
「苦しまずに、眠るように、息を引き取りました。彼女は、最後の最後まで、がんばりました。最後の言葉は……。お父さま、お母さま、でした……」
背後で息子が涙を流しているのがわかる。だが、ジサは敢えて振り向かなかった。その様子を見てしまえば、自分も涙を流してしまう気がしてならなかったからだ。彼だけではない。おそらくフィリアも、メイルも、皆、泣いているのだろう。なぜか、自分だけは泣いてはならぬ気がしていた。
「そう……。よく、がんばりましたね。それにしても、綺麗な、顔ですね」
ジサはそう言って天を仰いだ。涙が溢れて来ていた。自分の両親の死に際しても一滴の涙を見せなかった剣聖が涙を見せた。彼は、声を殺して、泣いた。
すでに、タウマはこの家族の一員であった。過ごした時間は短くとも、確かに家族であった。その家族の死を、彼らは涙をもって応えたのである。
扉がノックされる。いつもはすぐに扉が開くが、そのときばかりは、少し時間があった。入室してきたのはシェイスだった。室内の空気を察して、しばらく時間を置いたのだ。相変わらず気の利く男だとシェンは心の中でつぶやく。
「この度の皇后さまの薨去。心よりお悔やみ申し上げます。まもなく宰相様以下、主だった者が弔問に参ります。恐れ入りますが、ご遺体を、お移し申し上げたく存じます。あと……」
「あと、なんだ」
「皇后さまがお作りなされております、お衣装のことですが……」
ああ、確か、エルドライに行く際の衣装を自分でデザインしていたのだ。俺はシェイスの言葉を待つ。
「衣装が完成していれば、お召しになって、というところになりましょうが、衣装方に聞きましたら、まだしばらく時間がかかるとのとこでございます。取りやめといたしますか?」
「いや……。衣装方には、そのまま完成させるように伝えてくれ」
「承知しました」
「エルドライに行く際に、持っていく。姫の……遺品だ」
シェイスは無言のまま頭を下げた。




