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狂人の乳母

フウミの細い目が見開かれていた。ロウロは、またロクでもないことを考えたなと心の中で呟く。彼女は胸の前で手をパチパチと鳴らしながら嬉しそうな表情を浮かべている。


「そうじゃそうじゃ。大帝様がいつも召しておられるカリオドクの粉。あれじゃ。あれを、殿下に飲ましゃ」


フウミの言うカリオドクの粉とは、エルドライの先帝――今は隠居して大帝陛下と呼ばれているが、依然実権は彼が握っている――が愛飲している強壮剤で、そのおかげもあってか、彼は七十を過ぎても子をなしている。フウミはそれを王太子・シェンに一服盛れと言っているのだ。


「そなたが次の伽に召されたときに……。何でもよい、まさか茶の一つも出さぬというわけではあるまい。茶なり、酒なりに……。何と言いやるか、次の伽に召されるかどうかはわからぬ? 何を情けない。伽に召されるように努力をするのじゃ。……それほど、殿下はフィリアに思いを寄せておるとや? ふぅむ」


フウミはさも、つまらなさそうな表情を浮かべ、天を仰いだ。垂れ下がった肉が二重顎を作っている。何とも醜い有様だとロウロは心の中で嗤った。


「そうじゃ! そなた、殿下が餅菓子を持って参ると言っておったな。そうじゃ、そこにカリオドクの粉を入れるのじゃ。……なに? 入れることは不可能? わかっておる。そなたには難しかろう。何の、そなたの手を煩わせることではない。姫様じゃ。姫様御自らカリオドクの粉を入れていただくのじゃ。よもや姫様がお手ずから入れる粉を王太子も拒否しまい。その餅を二人で召し上がっていただいて、その後にムラムラとした感情が芽生えて、お二人が……ヒヒヒ。それがよい。男と女はそうでなくてはならぬ。そうと決まれば、姫様にお稽古をせねばならぬ。ああこれ、誰ぞ。モンノに申しつきゃ。今度、姫様が閨に参る際は、もっと色気の出る衣装を用意せよとな」


嬉しそうに振舞うフウミの姿を見てロウロは、この女性は狂人かと思った。ただでさえ年端もいかぬ少女に閨の伽を強いるだけでも沙汰の限りでもあるのに、さらにその少女を襲わせようとしている。自分が手塩にかけて育てたはずの姫に、そのようなことを強いるのは常軌を逸しているとしか言えなかった。逆に、傍で育ててくれた乳母に、そのようなことを強いられる姫様の心中を察すると、ロウロは彼女が哀れに思えてならなかった。


盛り上がるフウミの前を、彼女は黙って辞した。おそらくきっと、もうこの女性とは会うことはあるまいと心に期した。この瞬間にロウロの心はエルドライから離れていたのである。


フウミの部屋から出てくると、ロースマイが控えていた。彼女は恭しく一礼すると、お部屋にご案内しますと言ってきたが、彼女はそれを断った。


「私の部屋は、王太子殿下のお側の部屋をいただきたくお願い申し上げます」


「承知しました」


ロースマイは何も言わず、そう言って一礼した。彼女の目には、ついこの間までのロウロとは雰囲気が一変していた。ロースマイはそんな心情を敏感に察して、敢えて何も言わないでいたのだった。


ロースマイは後宮の外を出てもなお、ロウロを案内し続けた。彼女が案内したのは、後宮のすぐ近く、王太子の部屋の斜め向かいの部屋だった。


「これからはここを自由にお使いください」


「……広い部屋ですね」


「お気に召しませんか?」


「そんなことはありません。近いうちに、後宮から私の身の回りの世話をする者が送られてきます」


「ああ、でしたら、あなた様付きのメイドを増やすことといたしましょう」


「私は別に、多くの人にかしずかれたいとは思いません。ただ、静かに余生を過ごしたいだけです」


「承知しました。そのようになるように致したいと存じますが、しばらくの間は……」


「大丈夫です。今まで私は一人で身の回りの世話をしてまいりました。食事さえいただければ、あとは何とでもいたします」


「……まあ、まるでフィリアさまのようなことを言われるのですね」


「フィリアさまも、ですか」


「はい。同じようなことをおっしゃいました」


「世が世なら……」


「何か」


「いいえ、なんでもありません」


そう言ってロウロは寂しそうに笑った。もし、境遇が違えば、フィリア王妃とは話が合う友人になれたかもしれない。彼女はそう思ったのだった。ただ、彼女は少し疲れていた。きっと、殿下の手が付くことはないだろうという確信があった。一人寂しくこの城で生涯を終えることを覚悟していた。ただ、そうであっても今だけは、ただ誰にも邪魔されずに、ひとりで静かな時間を持ちたかった。


ロースマイはそんな心情を十分すぎるほどに察していた。そこで彼女は、身の回りの世話をする侍女を一人だけ付けさせてくれとだけ言って部屋を出て行った。その心配りをロウロは感謝した。


しかし、運命は彼女を放っておかなかった。これから先、彼女にはまったく予想もしなかった未来が待っているのだが、今の彼女はそれを知る由もなかった……。

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