初夜
フィリアの体からはとてもいい香りがした。これはシャホの香りではない。そうだ、デルビッツ子爵の屋敷の香りだ。懐かしい……。彼女との出会いから今までの記憶が走馬灯のようによみがえる。
「……子供のころから、ずっとあなたが好きでした」
「……私も、です」
……素直にうれしかった。どんな誉め言葉よりもうれしかった。生きていてよかったとさえ思った。抱きしめている腕に力が入る。ああ、これでは苦しいだろうなと思い、ごめんなさいと言って力を緩める。彼女を見ると、大丈夫と言いたげに、少し笑みを浮かべながらゆっくりと首を振る。
フィリアを抱きかかえたまま部屋に入り、ベッドに寝かせる。
「いや……です」
「え?」
「このままでは、いやです」
「ああ、じゃあ……」
「月が、覗いています」
「……」
見ると、先ほど見た見事な月が窓に浮かんでいた。俺は黙ってベッドから離れると窓辺に向かい、静かにカーテンを閉めた。そうして再び彼女の待つベッドに戻る。
あらためて顔を見ると、やはり美しい。じっと俺を見据えた目が、知性を帯びていて、凛とした雰囲気を醸し出している。心臓の鼓動が波打っているのがわかる。俺はそのまま彼女の唇を奪った。
そこから先は、体が勝手に動いていた。気が付いたときには、俺の手は彼女のパジャマを脱がせていた。何かに引っかかっているのか、ボタンが取れない。手が震える。
「ん……」
フィリアが優しく自分でボタンを外す。一つ目が取れると、あとは嘘のようにスムーズに取ることができた。
「……」
思わず息呑んだ。目の前の裸体が、この世のものとは思われるほどに美しかったからだ。これまで見た、どの女性よりも、均整の取れた体だった。肌は白く、まるで白磁のような美しさだった。
男と女が何をするのかは知っていた。村やヤマドの町に住む親父の弟子たちが折に触れて教えてくれたし、実際に村はずれの山の中で男女がコトに及んでいる姿を見たりもした。成人してからは何度となく兄弟子たちに町はすれにある娼館に誘われたが、どうしてもそこに行く気にはなれなかった。あるときなどは、町の兄弟子の家に届け物をしたら、その真っ最中だったこともあった。二人は俺の存在に気付かずに行為を続けていて、慌てて外に出たことを懐かしく思い出す。
ただ、そうして得た知識は今はほとんど役に立たないでいた。それは、俺が見た行為は大抵が男性が女性を組み敷いているというものだったからだ。目の前のフィリアは、そうしたことは似つかわしくない、というより、そうしたことをしてはいけないと思わせるだけの神々しさがあった。そういえばその昔、親父が、
「男は女性には勝てませんよ。腕っぷしで勝てても、女性には男を最後にひれ伏させるものを持っていますからね」
と言っていたのを思い出したが、その意味がようやくわかったような気がする。フィリアの体は、力の入れ方を一つ間違うと、壊れてしまいそうな雰囲気さえあった。
気が付けば俺はパジャマを脱いでいて、フィリアを抱きしめていた。肌と肌が触れ合う中で何とも言えぬ感覚が俺の体を包んでいた。体自体は俺の方が大きいが、彼女を抱きしめていると、まるで、彼女に包まれているかのような感覚を覚える。何となく、兄弟子たちがこぞって娼館に通う理由がわかる気がした。きっと、この感覚を求めて通っているのではないだろうか。
「フィリア様」
思わずそんな声が漏れる。そのとき、フィリアが口を開いた。
「フィリアと呼んでください」
「フィリア……好きだ」
「私も、です」
あらためてきれいな名前だと思う。好きな女性に好きと言えることが、これほどの幸せを感じられるものかと驚く。俺は彼女を再び抱きしめた。と同時に、本能的に、だろうか、彼女の両手が俺の背中に添えられた。
その肌はつややかで柔らかかった。相変わらず懐かしい香りが備考をくすぐっていた。その香りに包まれながら、俺は何度も彼女の名前を呟いた。フィリアは俺の、ただ本能に任せただけの、ちぐはぐな愛情を毅然とした態度で受け入れてくれた。
「ふっ……」
「ん……」
「ふぅぅぅ」
「んんっ!」
「……大丈夫?」
「……大丈夫です」
「うううっ……フィリア……」
背中に添えられているフィリアの手に力が入り、彼女に抱きしめられる形になった。女性の力なので痛みを感じる程ではなかったが、俺の体が彼女の中に取り込まれたような、不思議な感覚を覚えた。それまで閉じられていた彼女の目が、ゆっくりと開かれる。俺もその目をじっと見つめる。気が付けば、彼女の手を握っていた。その手を、彼女は少し力を込めて握り返してきた。なぜかはわからないが、俺たちは、俺たちにしかわからない絆が芽生えたような気がした。
……俺たちは本当の意味で、夫婦になったのだ。




