満月を抱きしめる夜
「そろそろ時間も時間でございます。お休みになりませんと」
シェイスが話をブッた斬るように口を開く。たしかに、もう、夜も更けている。全員が寝るかという雰囲気になった。
「ところで、今宵はいかがされますか」
「いかが、とは?」
「夜伽の件でございます」
……この男は何を言っているんだ。妹もフィリアもいるんだぞ。……ほら、二人とも何とも言えない顔になっているじゃないか。
そんな俺の心の声など届いていないとばかりに、彼はさらに言葉を続ける。
「殿下がお妃さまのお部屋に赴かれるのもよし、お部屋にお召しになるのも問題ございません」
いや、今、ここで、そんな話をしているのが、苦しいんだよ。
俺はオホンと咳払いをして、メイルとフィリアをちらりと見てからシェイスに視線を向ける。
「二人は長旅をして、今日この城に到着したのだ。それを待っていたかのように閨の伽を命じるというのは、いかにも酷であろう」
「左様でございますか。差し出たことをいたしました。それでは、お妃さまにはお部屋に案内いたしましょう」
シェイスはそう言ってフィリアたちを伴って部屋を出ていった。その後ろ姿を見ながら俺は大きくため息をついた。
「いきなりそんなことを言われても、心の準備ができてねぇよ……」
誰に言うともなく呟いてから、手をぱちぱちと鳴らす。そうしておいて、
「湯浴みの準備をしてくれ」
と命じる。しばらくすると扉がノックされ、侍女のイリサルが入室してくる。
「準備ができました」
彼女はそう言って一礼すると、再び部屋を出ていった。それを見て俺はバスルームに向かう。
大きな盥が真ん中に置かれていて、そこには満々と湯が溜められている。すぐ前には二つの槽があり、それぞれ熱い湯と冷水が湛えられている。侍女たちは俺の命令を受けると盥を準備し、槽から水や湯を汲んで盥に湯を張る作業を行う。最初は俺がやっていたのだが、さすがにそれだけは自分たちでやらせてくれとイリサルたちが言ってきたので、それ以降は任せることにしている。確かに、彼女らにやってもらった方が早いし、湯も適温にしてくれるので、助かるのだ。
盥の前に置かれている椅子に座り、湯を頭から何度もかぶる。そうしておいて、盥に入り、そこで体を洗う。シャホと呼ばれる白い塊をこすり合わせると白い泡ができるので、それで体を洗い、顔を洗い、頭を洗う。それだけで風呂の時間は終わってしまうので、十分もあれば事は足りてしまうのだ。
盥の底には栓があり、それを抜いて湯を出していく。タオルで体を拭いているうちにそれは抜け切るので、空になった盥を壁に立てかけておく。俺は問題なくそれができるが、女性たちは一人では持ち上がるまい。きっと、数人がかりでこれを持ち上げるのだろうと察して、俺は一人でそれをすることにしている。
服を着替え、ランプの灯を消してベッドに入る。今日もいろいろあったなと思いながら、目を閉じる。
「……」
「……」
「……」
眠れない。眠れない。眠れない。本当にフィリアが俺のところに来たのか? あれは現実だったのか、という思いが湧き上がってくる。本当に大丈夫なのか。何が大丈夫なのかわからないが、この城に来たのは、本当に彼女の同意を得ているのだろうか。俺を自由に操ろうとシェイスらが企んだのではないだろうか。そんな思いまで頭をもたげてくる。
一旦ベッドから出て水を飲む。大きく深呼吸をして再びベッドに入る。
「……」
やっぱり寝れねぇ。
メイルやフィリアは眠れているのだろうか。メイルは熟睡している気がする。フィリアは……眠れぬ夜を過ごしているのだろうか。だったら……。いや、どうだろうな。
手を叩けば侍女がやって来る。フィリアを呼んでくれと言えばこの部屋に連れてくることだろう。でも、いきなりそんなことをすれば、嫌われる可能性が高い。ましてや、いま、眠っているところをたたき起こされたとなれば、確実に俺は嫌われることになる。
……下らないことだ。そんなことを考えるのは、やめよう。
そう考えながら起き上がる。別に、一晩くらい寝なくともどうということはない。眠れないなら起きていればいいのだ。
ふと、窓の外に視線を向けると、そこには見事な満月が浮かんでいた。いつもの見慣れた月ではなかった。そのあまりの美しさに、俺はしばしの間時間を忘れた。
ややあって、まるで、吸い寄せられるようにして窓を開けて、バルコニーに出た。月はさらに輝きを増して冴えわたっているかのようにも感じる。緩やかに吹いている風が体に心地いい。ゆっくりと視線を左に向けると、そこには、フィリアが同じように月を眺めていた。白いパジャマが月明かりに映えて、神々しささえ感じるほどの美しさだ。
俺の視線に気づいたのか、フィリアがゆっくりとこちらを見た。彼女は驚きもせずに、俺を見据えている。
「……眠れませんか」
「……いえ。……月がとってもきれいなものですから」
「……俺もそう思います。今夜の月は格別に美しいです。あなたと見ているからかもしれません」
彼女は相変わらず俺にまっすぐな視線を向け続けている。俺も無言のまま、彼女を見つめる。
「こちらに、来ませんか」
ふと、そんな言葉が口を突いて出た。ステップがついていたのだろうか、フィリアはゆっくりとバルコニーの欄干に上がると、一呼吸おいて、俺に向かってふわりと飛び上がった。
「……!」
彼女はゆっくりと俺の腕の中に降りてきた。その体は思った以上に軽く、そして、柔らかかった……。




