老婆ふたたび
「あの……差し支えなければ、ここで、失礼させてもらえないでしょうか」
ヤエノスの顔が強張る。シェイスは表情は変わらないが、何言ってんの、お前、という雰囲気がありありと出ている。
「いや、だって、その、大上妃? ……さまに殺される可能性があるということですよね? それだけ俺のことが気に入らないということですよね? だったら、このままここで帰らせてください。俺は……こんなところで死にたくはありません。村に、ユアザライ村に帰らせてください。剣聖・ジサの息子として、暮らしていきたいです」
「そう、いたしたいのは、やまやまですけれど」
ヤエノスはそう言うと、俺の衣服を整え始めた。袖を引っ張り、首元を直し、まるで母親のようだ。
「あなた様は先ほど、国王陛下より王太子に指名されました。その際の陛下のお言葉を、よもやお忘れではありますまい。この国の行く末は、あなた様の双肩にかかっているのです。今ここで、あなた様を元の村にお還し申し上げましては、わが国が滅ぶことになります。国家を預かるものとして、それだけは、いたしかねます」
彼は俺から少し離れると、顔を上下に動かして、まるで値踏みするような様子を見せた。
「正直に申し上げますが、大上妃陛下は、ご自身のお産み遊ばしたお子様を王位に就けたいというお望みはお持ちでございます。それがために、これまで側室様がお産み遊ばしたお子たちを手にかけてこられました。しかしながら、エルファス、コルシェル両殿下では、この国を引っ張っていくことは無理でございます。それは、国王様はもちろん、大上王陛下、大上妃陛下もおわかりのこと。大上妃陛下にあらせられましては、よもや、あなた様のお命を奪うことはないかとは存じますが、念には念という言葉がございます。我々が申し上げましたこと、くれぐれもお忘れなきように、願い上げ奉ります」
……願い上げ奉られても困るよ。さっきから聞いていれば、側室のお子を手にかけてきたと言っている。 ということは、死んだ約五十人の子供たちは、その大上妃が殺してきたということだ。俺の生みの母親も、その人によって殺されたのか。顔は知らないけれど、理屈を言えば、そいつは俺の敵ということになる。まさに悪魔の所業じゃないか。叩き斬っちまえよ、そんな野郎は。
……何かあったら、この剣でその大上妃を殺して逃げよう。そんな考えが頭をよぎる。確か、後宮には女性しかいなかったはずだ。大上妃をブッ殺して逃げたところで、女性に俺を捕まえられるとは思えない。問題は、そこから出た後だ。この迷路のような建物から無事に外に出られるだろうか。きっと、かなり多くの兵士も詰めていることだろう。一人二人なら何とかなるが、数を頼んで押し包まれると、どうしようもなくなる。結果的に俺は殺されることになるが、それも、仕方がないか。
ふと、両親の顔とフィリアの顔が脳裏に浮かんだ。やっぱりもう一度、父と母に、妹に会いたい。できることなら、フィリアにも会いたい。それは、生きていなければ叶えられないことだ。
……なるように、なりやがれ。
もはやヤケクソだった。その様子を見たヤエノスは、一礼すると歩き始めた。
再び後宮の入り口までやって来た。さっき、大上王に会ったときに大上妃のところにも行けばよかったじゃないかとは思うが、それは口に出さないでおく。ヤエノスが、鈴のついた紐を引っ張る。きれいな音が鳴った。
しばらくして、あの老女が出てきた。ついさっき会ったばかりなのだが、どちら様でと言わんばかりの表情を浮かべている。俺だよ、さっき一緒に歩いたじゃないか。
「先ほど、国王陛下より、こちらのシェン殿下に王太子即位の勅命が発せられました。追々、こちらにもその旨が通知なされましょうが、まずは大上妃陛下にお目通りの上、ご挨拶をいたすよう、国王陛下よりご命令がございました。そのため、殿下をこちらにご案内申し上げました。どうぞ、よしなにお取り計らいのほど、お願い申し上げます」
ヤエノスはそう言って深々と腰を折った。惚れ惚れするようなきれいなお辞儀だ。先ほどの老婆も、お前はわかっているなと言わんばかりの表情を浮かべている。彼女は小さく頷くと、小さな扉から中に入り、ぱたんと扉を閉めてしまった。
あれ? どうしたんだ、俺は入れないのか、と思ったそのとき、バカでかい門がゆっくりと開いた。中には先ほどの老婆が控えている。後ろには……エプロン姿の女性が数十名控えている。何だこれは?
「さ、どうぞ、お渡りくださいませ」
老婆がそう言って頭を下げる。ヤエノスとシェイスが目で中に入るように促してくる。俺はフッ、と息を吐くとゆっくりと門に向かって歩き出した。
「……どうして門が開いたので?」
老婆の近くに来くると、彼女に話しかけてみる。何を言っているんだという顔をされる。
「まだ王太子ではないですが……。この門から入っても、よろしいので?」
「……」
老婆は腰を折った状態から、スッと背筋を伸ばして、俺にまっすぐな視線を向けてきた。
やっぱり、怖いな、この人は……。




