5.急転直下の運命の先〜アルジャン
(彼女だ……!)
店に入った瞬間、すぐにその姿を捉えた。
ここは、彼女が気に入っている店だという。
『ルピナスなら、合コン名目でも誘い出せるってドロテアが言ってたからさ』とカイルが話していた店だ。
彼女は、奥まったテーブル席の端に座っていた。
淡い茶色の、少しクセのある髪。
控えめな顔立ちだが、柔らかな淡い榛色の瞳が印象に残る。
――あのとき、自分を拾い上げた手と同じ色をしている気がした。
気づけば、視線がそこに留まっていた。
だが、不意に視線が合った途端、彼女の肩が揺れた。
そこに、明らかな怯えが見えた。
カイルが言っていた通り、彼女は騎士が苦手らしい。
(どう声をかける)
(礼を言うか)
(いやまずは――)
どうすれば、怖がらせずに話しかけられるだろうか。
『なんだよアルジャン、あの子のこと気になるのか?じゃあ――アルジャンの席はあそこだな。コハルナちゃんの隣』
思案していると、カイルがわざとらしく、周囲に聞こえるような声を張り上げた。
そのまま、ぐいと背中を突き飛ばされる。
(……行けってことかよ。でけえ声で、余計なことを言うな!)
思わずカイルを睨んでやったが、助かったのは事実だ。
柄にもなく緊張しながら、奥のテーブルへと進み、俯くコハルナの前に腰を下ろした。
「俺はアルジャンって言うんだが、名前を聞いていいか?」
――そう、声をかけようとした。
彼女の名前は、もう知っている。
それでも、顔を上げようとしない彼女に、会話の糸口として口を開く。
その瞬間だった。
「あら、アルジャンじゃない。私、ここに座ろうかしら」
わざとらしく声をかけながら、セラフィナがコハルナの隣に腰を下ろす。
(本当に来やがったのか……)
内心で舌打ちする。
「やあ、空いてるのは、この席だけかな?」
さらには、場違いなほど整った男が現れた。
(こいつら……!)
目の前には、命の恩人。
隣には、厄介な監察官。
斜め前には面倒くさい魔法治癒師。
俯く命の恩人に、話したいことはいくつもある。
だが、こんな奴らを前にして、まともに話ができるとは思えない。
沈黙が続いている。
皆がコハルナを見つめる中、彼女はこちらを見ることなく、窓の外を見ていた。
タルトを食べ終え、用は済んだとばかりに立ちあがろうとしたコハルナに、思わず「待て!」と大きな声を出してしまった。
(しまった)と思うが、もう遅い。
彼女は怯えたように視線を落とした。
そこにセラフィナが口を挟む。
「コハルナちゃん、今日は合コンよ?せっかく仲良くなったんだもの、もう少し話したいわ。たとえば……治癒法なんかについてね」
合コンの席で治癒法の話を振る意味が分からない。
だが、コハルナはためらいながらも、上げかけた腰を静かに下ろした。
――こんな無茶な話にも付き合ってしまうあたり、彼女らしい。
「ねえ、〈聖銀の縫糸〉についてどう思う?」
「〈聖銀の縫糸〉……?」
「あら、知らないの?……ふうん。魔法の銀糸なんだけど」
「銀糸……」
小さく息をのんだコハルナの瞳が揺れていた。
化粧の濃いセラフィナに怯えているのは、明らかだった。
「まあまあ、今日は合コンなんだから。まずは自己紹介からだろう?私はルシアン、軍の監察官をしているんだ」
そこにルシアンが割り込んできた。
こいつは、こういう男だ。
「そういえば、コハルナさんは街の診療所勤めなんだって? この界隈なら、あのロドヴィクス・フォン・ヴァレリア卿の診療所かな」
「あ、いえ。私が勤めてるのは、ロロじいの診療所です」
コハルナの答えに、ルシアンの口角がわずかに上がった。
「ふうん。……ロロじい、ね。いいね。……それは、実に興味深い」
コハルナが「ロロじい」と呼ぶ町医者は、かつて「神の手」と謳われた宮廷筆頭治癒師――ロドヴィクス卿だ。
頑固で偏屈、「凡人に教える時間は一秒たりともない」と豪語し、数多の貴族や秀才たちの弟子入りを門前払いしてきた、あの伝説の老医療師だった。
すでに、調べはついている。
彼女は、そんな人物に孫娘のように可愛がられているらしい。
直接治療を施しているわけではないようだが、それだけでルシアンの気を引くには十分すぎる材料なのだろう。
獲物を定める蛇のように、ルシアンの目が細められた。
「コハルナさん、せっかくこうして仲良くなれたんだし。今度、うちの王立医療監査局に招待するよ。見学ついでに、簡単なテストも体験できるよ」
「王立……医療監査局……?」
コハルナの声が震えていた。
権力の権化のようなその肩書きに、怯えているのは明らかだった。
「んなとこ、誰も行きたがるわけねえだろ」
「そうよ。監査局に行くくらいなら、コハルナちゃんの治療院に遊びに行くわ。ロロじい様に、私も挨拶したいもの」
「はは。君たちは誘ってないよ」
「うるせえな。合コンなんだから、お前ら二人で喋っとけよ」
「なによ。あなたたち二人で話しとけばいいでしょう」
「はは。セラフィナは面白いな。たまには隊を離れて、君たち二人でゆっくり話したらいい」
「お前ら仲いいじゃねえか」
不毛な会話が続いていく。
(俺は何でこんな奴らと話してんだ……)
アルジャンは、深く長いため息を吐き出した。
「あの、私です……」
小さく震える声に、思考が引き戻された。
目の前のコハルナが、潤んだ瞳でアルジャンを真っ直ぐに見つめている。
「アルジャンさんの傷を縫ったのは、私です。あの、責任は……」
消え入りそうな声は、ぷつりとそこで途切れてしまった。
だが、はっきりと聞こえた。
(責任……?)
一瞬、思考が止まる。
――風呂だ。
あの時の光景が、嫌でも脳裏に蘇る。
(……俺と一緒に風呂に入ったことか!?)
ドクン、と心臓が跳ねた。
(男として、責任を取れと――そういうことか?)
激しい動揺がアルジャンを襲う。
(結婚……?いや、しかし……)
彼女は自分に興味がないのではなかったのか。
あの怯えは――言い出せなかったからか。
「責任?そんなのいいじゃない、コハルナちゃん。気にすることないわよ」
固まるアルジャンをよそに、セラフィナが話に割り込んだ。
「そんなことより、〈聖銀の縫糸〉の扱い方を――」
「はは。確かに、責任なんていいじゃないか」
さらにルシアンが、言葉を被せてセラフィナの話を遮る。
「それよりこれから王立医療監査局に――」
「いや、責任は大事だろう!」
勝手にコハルナとの繋がりを断ち切られて、アルジャンは思わず叫んでいた。
ルシアンの言葉をねじ伏せ、アルジャンはコハルナに詰め寄る。
「おい、いいか。責任は……責任の話が先だ!」
心の準備ができたわけではない。
だが、騎士としての勘が、この場を逃してはだめだと告げていた。
「……はい。アルジャンさんに、一生を捧げます」
コハルナの言葉に、場がしんと静まり返る。
周囲の席から息を呑む気配が漏れ、一瞬だけ時間が止まった気がした。
これまで剣を磨くことだけに心血を注ぎ、結婚どころか女との付き合いすら考えたことはなかった。
(だが――彼女なら)
それも、悪くない。
目の前で今にも泣き出しそうなこの女になら、俺のすべてを預けてもいい。
「……だめですか?」
「だめなわけねえだろ?いいさ、結婚しようじゃねえか」
覚悟を決めたアルジャンの返事に、コハルナの目が、こぼれそうなほど丸く見開いた。
その驚いた顔さえ、案外悪くないと思っている自分に驚く。
(やっぱり悪くねえな)
心の中は思いのほか弾んでいた。




