3.絶体絶命からの回復〜アルジャン
「えっ」
思わず、声が漏れた。
(いつ声をかける)
(今か)
(……いや、フォークが止まってからにするか)
そうやってアルジャンは、声をかけるタイミングをずっと測っていたのいうのに――
目の前に座るコハルナは、自分に全く興味などないようだ。
『あ……じゃあ、私はそろそろ帰りますね。みなさんお疲れさまでした』
タルトを食べ終えると、これでもう用は済んだとばかりに、彼女は立ち上がりかけた。
その姿に、思わず焦りが出る。
「待て!」
反射的に投げかけた声が、自分でも驚くほど大きかった。
案の定、コハルナの肩が短く跳ねる。
(……しまった)
『アルジャン、コハルナちゃんは怖がりだから、言葉使いと、デカい声にならないように気をつけろよ』
昨日カイルが繰り返していた忠告が、今さら脳裏をよぎる。
だが、もう遅い。
視線を下げた彼女に、次にどう声をかけたらいいのか分からない。
言葉が見つからず、アルジャンは口をつぐんだ。
怯えたように視線を落とす彼女は――命の恩人だ。
* * *
あれは魔獣の群れと対峙しているときのことだった。
魔獣の爪が頬を裂くと同時に、血が目に入り、視界が潰れた。
傷は浅く、致命ではない。
――だが、その直後。
右腕に凄まじい衝撃が走り、骨が砕ける感覚とともに、剣が手から滑り落ちた。
(……まずいな)
妙に冷静な頭で、そう考えた。
魔獣との戦いは、いつだって危険と隣り合わせだ。
想定の範囲内だった。
「アルジャン!」
その時、聞き慣れた声が飛んだ。
(――セラフィナか)
振り向くより早く、足元が崩れた。
「ひとまず止血するわ!後で戻すから!」
(戻す……?)
問い返す暇もなかった。
理解するより先に、全身の感覚がふっと途切れる。
痛みが消え、熱が引いた代わりに、指一本動かせない。
視界だけが残った。
目に映るのは、どんよりと濁った空だけだ。
――次に気がついた時には。
冷たい雨に打たれていた。
(これは……魔法か?まだ討伐の最中か?)
体の感覚は、何一つない。
だが、意識だけははっきりとしていた。
空から落ちてくる雨が見える。
地面に落ちる雨音も聞こえる。
――静かすぎる。
どう考えても、戦いの場ではなかった。
理由は分からないが、無機質な感覚のまま、自分は道端に捨てられているらしい。
時折り、すぐそばを足早に通り過ぎる足音が聞こえた。
(セラフィナ、あいつ……余計な真似しやがって!こんな姿で一生を終えろっていうのか!)
治癒師としての腕はいいが、薄情なやつだ。
腕を落とした、使い物にならなくなった騎士など、あの女なら見捨ててもおかしくない。
怒りだけが湧き上がるが、指先一つ動かすことも出来ずに、アルジャンはただ雨に打たれていた。
そのうち雨も上がったようだが、希望は少しも見えなかった。
今、自分がどんな姿を晒しているのか分からない。
ただ、そばを通り過ぎる気配はいくつもあった。
それなのに、声をかけられるどころか、こちらを向く視線さえ感じられない。
きっと、一瞥する価値もないような姿をしているのだろう。
ため息ひとつ吐くこともできずに、ただ空を見るしかない。
そんな自分を拾い上げたのが、コハルナだった。
突然――ひょいと覗きこまれた。
知らない女だった。
その瞳には、隠しようのない憐れみが浮かんでいる。
助けたいけどどうしたらいいのか分からない、というような顔だ。
(……何だよ)
無様な姿を哀れまれたことに苛立ちを感じたが、彼女は自分を抱え上げ、自宅へと持ち帰った。
彼女が扱う手つきから、ようやく状況が呑み込めてくる。
どうやらあの女――セラフィナの魔法で、自分は人形に変えられているらしい。
(あの野郎……!)
再び怒りが燃え上がった、その時だった。
『先にお風呂ね。……そうだ、スカートと一緒に、この子も洗っちゃおうかな』
呑気な声に、意識が目の前の現実に引き戻される。
湯をためる音が聞こえてきたかと思えば、視界の端で、彼女がためらいもなく服を脱ぎ始めた。
――待て。
(待て!待て!一緒に風呂に入るつもりか?!)
(はあ?!ふざけんな!俺は男だぞ!!)
必死に叫ぶ声は、届くはずもない。
そのまま風呂場へと連れて行かれた。
狭い浴室に、湯気が立ち込めていた。
目を逸らしたくても、首一つ動かせない。
視界が白くぼやけているのに――見えるものは、やけに鮮明だった。
(――いや。見てない!断じて、俺は何も見てないぞ!)
その必死な主張も、もちろん届くはずがない。
『お風呂、気持ちよかった? 綺麗になってよかったね』
心の中で暴れすぎて、風呂から上がるころには、何かを考える気力すら残っていなかった。
『すぐに腕と顔を直してあげるね。待っててね』
『白より……銀の方がきれいよね』
そんな言葉も聞こえたが、どうにでもしてくれという、投げやりな気分だった。
自分は、裸を見られても何とも思われないような、ただの「物」に成り下がったのだ。
人形の姿をいくら取り繕ったところで、この惨めな現状に変わりはない。
そう思っていたのだが――
縫い終わり、ベランダに干されているうちに、指先にわずかな感覚が戻り始めた。
次に、腕。
それから全身へ、ゆっくりと、けれど確実に感覚が広がっていく。
真夜中に近くなったころ、不意に重力が戻り、元の姿へと戻った。
静まり返ったベランダで上体を起こすと、切断されていたはずの右腕が、嘘のように繋がっている。
手を握り、開く。
――違和感がない。
ただ繋がっただけではない。いつもの、研ぎ澄まされた感覚だ。
(治った……のか?)
実感が、遅れて押し寄せる。
すぐにでも、部屋の奥で眠る彼女を叩き起こして礼を言いたい衝動に駆られた。
だが、こんな真夜中に大男が窓を叩けば、彼女を怖がらせてしまうだろう。
(礼は……後だ)
静かな寝息を立てる彼女を起こさないよう、アルジャンは音を立てずに、闇に溶けるようにその場を離れた。




