7. 社交界デビュー
日中は止んでいた雪が、また夜になってから降り始めた。
強くなった風が戸口を叩き、隙間から凍りつきそうな冷気が吹き込んでくる。
サリナの家には暖炉などという贅沢なものはない。
ヒビの入った大きな瓶に薪をくべ、簡易的な暖房に仕立てている。
しかし、家のあちこちには隙間があるため、かなり近づかないと暖かくない。しかも、近づき過ぎると煙が目に沁みるので、長い時間、その前でジッとしていられなかった。
手っ取り早いのは家中から搔き集めた衣類や布団で身体を包み込み、とにかく早く寝てしまうことだ。
だが、今夜に限っては寝床に逃げ込むわけにはいかなかった。これからグスカの屋敷で夜会が開かれることになっており、その華々しい場への招待をサリナは受けているからだ。
これまでに見たことも触れたこともない上流階級の社交場。
そこへ招待されたことに、サリナは期待や楽しみを覚えるより、どちらかと言えば不安の方が大きかった。何しろ礼儀作法などまるで知らないのだ。
グスカの招待客たちが無知な自分にどんな目を向けてくるか。そんな場面を想像しただけで空恐ろしくなる。
──やっぱり断ろう。
あれからサリナは、ずっと行くか行くまいかで悩んでいた。
自分などに華やかな場が似合うはずがない。行っても恥を掻くだけだ。
それに元々はウィルが演奏に招かれたのであって、サリナはそのおまけで許されたようなもの。たとえ夜会に参加しなくても、グスカはきっと気を悪くしないだろう。
そう考えをまとめると、ようやく肩の荷が軽くなった気がした。
そこへ──
「今晩は」
いつの間に音もなく入って来たものか、戸口にグスカの執事ズウが立っていた。午前中とまったく変わらず、今まで姿を隠していただけで、ずっとそこに控えていたかのように。
驚いたサリナは思わず悲鳴を上げそうになった。
「お約束通り、お迎えに上がりました」
「わ……私を?」
「はい」
ズウはうなずいたが、ニコリともしなかった。
サリナはベッドで寝ている母を見た。すでに熟睡してしまっているのか、布団にくるまったまま何の反応も示さない。
さっきまでの決意は揺らぎ、サリナはどう言葉を絞り出したものか迷った。
「その……ご招待いただいて申し訳ないのですが……やはり私は……」
するとズウは恭しく頭を垂れ、右腕を軽く振って外へ誘い出そうとした。
「ご心配には及びません。今頃はウィル様もご到着されているでしょう。お屋敷でお会い出来ますよ。それに、お嬢さんには我が主人が特別に選んだ、お召し物の準備を整えてございます。お嬢さんはその身ひとつでお越しくだされば結構。何も不安に感じる必要はありません」
「で、でも……」
サリナは弱々しく抵抗を試みた。
(……断らなくては。私のような者が行くべき所じゃないんだから)
だが、ズウの言葉には魔法の力でも宿っているみたいに足は自然と前に進み出ていた。サリナの意志とは反するのに。一体どういうことなのか、と怖くなった。
「どうぞ、夢のようなひとときをお楽しみください」
ズウはそう言うと、戸口をサッと開け、サリナを外へと招いた。
狭い鍛冶屋通りから表通りに出ると、立派な黒塗りの馬車が止まっていた。サリナの乗車を待つように、馬車の扉はすでに開け放たれている。
乗るつもりのない意思とは裏腹に、サリナの身体は何者かによって操られるみたいに乗り込んでいた。
車内は無人だった。乗車したのはサリナ一人だ。それなのに先程まで誰かいたみたいに、中は仄かに暖かく感じられた。
サリナが座席に着くと、ズウは外から扉を閉めた。
程なくして馬車は走り出した。一路、グスカの人形屋敷へと。
このような乗り物に乗った経験のないサリナは、中でどう過ごしたらいいのか戸惑った。扉にある小窓から外の景色を眺めることくらいしか思い浮かばない。
雪が降り出した夜のドールは、家路へと急ぐ人の姿が何人か見られただけで、暗澹として生気がなく、途方もなく淋しく感じられた。
だが、馬車のスピードと思いがけず高い目線はこれまでサリナが体験したことのないもので、いつも見慣れているはずの町が似て非なる別なもののように感じられる。ずっと住んでいた町がこんなにも小さなものだったとは気づきもしなかった。
ルッツ王国最北の地ドール。
生まれてから今日に至るまで、サリナはずっとこの地に押し込められてきた。一年のほとんどが雪と氷で覆われた、太陽の日差しが届かぬこの町に。
振り返れば、楽しい思い出など数えるほどしかなかった。むしろ辛かった記憶の方が多い。
それでも、いつかは必ず幸せになるのだ、と強く心に秘めながら生きてきた。床に伏した母を支えながら、愛してもいないラカンに抱かれながら。
そんなサリナの求める幸せは、いつしか現実から遠いものになってしまった気がする。
──幸せって何だろう? 私の幸せって何なの?
静かに降り積もった純白の雪が仄かに闇を照らす北限の冬景色を眺めながら、サリナは不意に涙が込み上げ、嗚咽を洩らしそうになった。
──私はこの永遠に逃れられない雪の中から、いつになったら出られるの?
サリナの視界は涙でぼやけ、顔を両手で覆わなくてはいけなくなった。
黒塗りの馬車はそんなサリナを乗せながら、いよいよ目的の地、グスカの人形屋敷へと到着した。
敷地内に入ってからも、馬車はしばらく走り続けた。入口から屋敷まで、かなりの距離があるせいだ。
ようやく悲しみから立ち直ったサリナが再び窓の外を覗くと、雪化粧をした林などと並んで、大きさも形もそれぞれ異なった奇妙な石像がそこかしこに配置されているのが見えた。これも人形屋敷と呼ばれる所以となったグスカの蒐集物なのだろうか。
庭園にさえ蒐集物を飾っているグスカのことだ、屋敷の中にはさらに驚くような品が陳列されているに違いない。
サリナが知る限り、グスカの屋敷に足を踏み入れた町の人間はいないはず。ひょっとすると、サリナが町の住人として初めて招待された客かも知れない。
そう考えると、サリナは少しだけ元気を取り戻した。母や町の人たちに人形屋敷での出来事を話して聞かせたら、きっと楽しいだろう、と。
馬車はようやく止まった。間髪を置かず扉が開かれる。
ここまで馬車を御してきたズウはサリナを客人として遇し、またしても丁寧に一礼した。
「さあ、到着しましたぞ。我が主グスカ様のお屋敷へようこそ」
もう引き返せない。サリナは観念して馬車から降りた。
目の前には巨大な白い壁が視界いっぱいに立ち塞がっており、それだけでサリナは圧倒されてしまった。徐々に視線を上げていくと、その正体が判然とする。それこそがグスカの屋敷であった。
屋敷そのものは二階建てであるが、端から端までが異様なくらい遠くに離れているため、まるで宮殿のような大きさだ。
こんなものが自分の生まれ育った町に建てられている事実に、今更ながら驚愕させられるサリナだった。一瞬遅れて、その尋常ではない全容に気づき、ようやく感嘆の声を洩らす。
「こ、これがグスカ様の……お屋敷……」
いつもは柵越しに遠くから眺めるだけだったグスカの屋敷が、ここまでの威容を誇るとは。何もかもがサリナの想像以上だった。屋敷だけでこの規模なのだから、広大な庭園を含んだ敷地は幾ばかりか。
サリナは日常とかけ離れた世界に一目で呑まれた。
「さあ、どうぞこちらへ」
気後れした様子のサリナに、執事のズウは表情ひとつ変えず、邸内に入るよう促した。サリナは誘われるがままに足を進める。
玄関から屋敷の中へ通されると、凍てつくような外気は完全に遮断され、春のような暖かさがサリナの身を包んだ。
不思議なことに、いくら辺りを見回してみても、暖になりそうなものは見当たらない。ここまで広大な屋敷だと逆に寒々しさが支配しそうなものだが、そのようなことは全然なく、眠気をも誘いそうな麗らかさが漂っていた。
屋敷全体に何某かの仕掛けがあるのか、或いは魔法の類なのか。
サリナ自身、まるで夢の中にでも迷い込んだような気分になってくる。
「では、まずはお召し替えを」
ズウはそう言って、玄関ホール正面にあるカーブを描いた階段に、サリナを招いた。
階段は左右にひとつずつあり、対を為しているが、二階に上がった中央部で合流している。
どちらを利用したらいいものかサリナは迷ったが、先にズウが立って上ってくれたので、その後に付いて行くだけで良かった。
二階へ上がると、左手にある扉へと案内された。
ズウが扉を開けると中は衣裳部屋らしく、沢山のドレスが吊り下げられており、大きな姿見がまやかしの奥行きを作り出している。侍女らしき女性も二名控えており、サリナが中へ入ると軽く会釈してきた。
「夜会は間もなく始まります。お召し替えが終わりましたら、一階ホールにあった正面の扉からご入場くださいませ。皆様、そこにお集まりです。では、私めはこれにて」
ズウはそう言って一礼すると、後のことを侍女たちに任せ、衣裳部屋から退出して行った。
残されたサリナは一人、どうしていいのか困惑していたが、すぐさま二人の侍女によって促され、大きな姿見の前へ連れて来られた。
姿見に映るサリナの姿は、服は継ぎ接ぎや綻びだらけで薄汚れ、髪もブラッシングされていない、まるで寝起き直後のような状態だった。おまけに化粧はおろか口紅ひとつさえつけていない、そばかすが目立つ素嬪姿。
見れば見るほど、みすぼらしい貧乏人のそれであり、こうして明るい部屋の中で実際の自分を直視してしまうと、サリナはまたしてもこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。
だが、侍女たちはいきなり巻き尺を持ち出し、サリナの身体のサイズをあちこち計り始めたので、動こうにも動けなくなってしまった。
侍女たちの動きはとてもテキパキしており、時折、様々なポーズをサリナに取らせたりする。侍女の手がサリナの身体の敏感な部分に触れるたび、くすぐったさに身を捩りたくなったが、なるべく声を上げないようグッと奥歯を噛んで耐えねばならなかった。
侍女たちは採寸を終えると、今度はいきなりサリナの服を脱がせにかかった。驚く暇さえ与えてもらえない。服はもちろんのこと、下着まで脱がされ、サリナは全裸にされてしまった。
女性同士とはいえ、さすがに裸身を晒すのは恥ずかしかった。
ところが、侍女たち誰一人としては眉ひとつ動かさない。サリナの顔を決して見ず、目は伏せ気味にしながら手を動かす。彼女らにしてみれば、こうしてかしずくのは当たり前の仕事なのだろう。となれば、サリナも我慢しなくてはならない。
サリナは全裸のまま、台の上に乗せられた洗面器に向かって上体を折り、前もって用意されていたお湯をたっぷりと頭へかけられた。髪を洗ってくれているのだ。
侍女たちは慣れた手つきでサリナの髪を梳き、垢と汚れを落としていく。こうして誰かに頭を洗ってもらうのは幼かった頃以来の経験で、ずっとそうして欲しいと心の中で願うくらい、とても気持ちが良かった。
洗髪を終えると、次に侍女たちは新しいお湯を洗面器に汲み、濡らしたタオルを固く絞ってから、サリナの全身を拭き始めた。肌に触れる温かなタオルは気持ち良かったが、益々、羞恥心に顔が火照る。自分で拭く、とサリナは言ってみたが、侍女たちはただ首を横に振り、黙々とサリナの身体をきれいにしていった。
侍女たちが自分の身体を拭き終わるまで、サリナは必死に我慢した。特に侍女たちの手が――たとえタオル越しとはいえ、乳房や局部に触れたときは、変な声を洩らしそうになる。それを避けるため、唇をきつく結ばねばならなかった。
身体を拭き終えた頃には、濡れていた髪の毛も少し乾いてきた。
改めて姿見に映る自分の姿をサリナは見る。生まれたままの姿だ。
そこに先程までのみすぼらしさは微塵も見られなかった。まるで自分が新たな人間として生まれ変わったかのような錯覚をサリナは覚える。
グスカが用意したという衣裳をサリナは侍女たちの手を借りて次々と身につけていった。
見たことも触ったこともない高級素材の下着、腰骨が折れそうなくらい締め付けられるコルセット、そして、気品溢れる豪華さで仕立て上げられ、輝くような光沢感たっぷりの純白のドレス。
さらには眩い宝石が贅沢に散りばめられた国宝級のネックレスや黒髪に映える繊細な髪飾り、耳たぶが引っ張られるほどの重たいイヤリング、さらに両中指には同じ意匠が施された赤と緑の指輪を嵌め、すっかりサリナは別人に変身していた。
「これが、私……」
姿見に映った自分の全身を眺めて、一番に驚いたのがサリナ本人だっただろう。自分で思わず見惚れるほど、目の前に立つうら若き女性は輝いて見える。
最後に上品な香水を吹きかけ、身支度を完成させた侍女たちは衣裳部屋の扉を開け放つと、一礼した姿勢のままサリナを送り出した。
サリナは裾の長いドレスとヒールの高い靴を履かされていたため、足取りも自然と慎重になったが、それが上流階級の淑女そのものに見えた。階段を下りるだけで裾が衣擦れの音を立てる。
一階のホールに戻った。玄関の入口を背にすると、二つの階段に挟まれて大きな扉がひとつある。
ひとつ深呼吸をしたサリナは意を決すると、その扉へと進んだ。目の前まで来たところで、手を触れる前に扉が開かれる──
目の前にきらびやかな光景が飛び込んできた。
ここは本当に屋内なのか、と思わずサリナが疑うほど会場は広大で、天井が高く造られていた。この中に、自分が住んでいる小さな家を二十軒くらい建てられそうだ、と下らないことを本気で考えたほどだ。
天井の中央には巨大なシャンデリアが吊り下げられており、その周囲をさらに飾るようにして小さなシャンデリアがいくつも配置されている。屋敷の外に出れば月も星もない夜だと言うのに、ここはまるで昼間──いや、それ以上に光溢れる空間が作り出されていた。
会場には大勢の人々がすでに集まり、それぞれがグラスを片手に歓談を楽しんでいた。サリナと同じように着飾った貴人たちだ。しかし、誰一人として見知った顔はない。
当然だ。普通に考えて町の者がグスカの屋敷に招かれるわけがないのだから。
ここに集っているのは、おそらく国中から招待された、グスカと交友のある貴族や富豪たちに違いない。
それにしても、彼らはいつの間にドールの町へ来たのだろう。総勢二、三百名はいると思われるのに、そのような者たちが大挙して町を訪れたという噂をサリナはちっとも聞いたことがなかった。
絢爛豪華な場にひたすら圧倒され、息すらも忘れて立ち尽くすサリナに近づく者がいた。
「お召し替えが済んだようですね」
ズウだ。この慇懃無礼な執事は来賓客用にシャンパンが注がれたグラスをいくつもトレイの上に乗せ、片手で起用にバランスを保っていた。
サリナははにかんだ。
「こんな高い御召し物を着るの、私、初めてで……」
「よく、お似合いになっていらっしゃいますよ。お越しになっているどのご婦人にも引けを取りません。夜会は間もなく始まります。それまで、ご歓談ください。おひとつ、いかがですかな?」
そう言ってズウは、トレイをサリナの方へ差し出した。
黄金色の液体は見ているだけでも目の保養になりそうなくらいきれいだが、生憎とサリナはアルコールが苦手だ。それでも断ったら失礼ではないかと考え、とりあえず形だけでも、ひとつ受け取っておくことにした。
「では、ごゆっくり」
そう言い残すと、ズウは人混みの中に消えて行った。




