10. 惨劇の一夜
「ウィルーっ!」
サリナは悲痛な声を上げ、アクシデントに巻き込まれたウィルの方へと駆け寄ろうとした。
会場は予期せぬシャンデリアの落下でパニックと化し、あちこちから女性客の悲鳴が発せられていた。落ちたシャンデリアから離れようと人々の輪が大きくなる。
そんな不規則な動きにサリナは行く手を遮られた。それでも必死にウィルへ近づこうと試みる。
「おい、よせ!」
いきなりサリナの腕がグイッと引かれ、高いヒールの靴を履いていたせいもあって体勢を崩しかけた。引き留めたのはロムだ。
サリナはすぐさま抗議の声を上げかけた。
しかし──
ヒュン、という風を切るような音がした刹那、再びガラスの砕ける音が会場に響いた。中央にあった大シャンデリアに続き、周りに配置されていた小さなシャンデリアも落下し始めたのだ。
小さい、と言っても大シャンデリアと比べたときのもので、単体でも充分な大きさと重量があった。もし、ロムが引き留めていなければ、サリナに直撃していたかもしれない。そう思うと身がすくんだ。
「他にも落ちてくるぞ!」
誰かが大声で注意喚起した。皆、恐怖に顔を引きつらせて天井を見上げる。
その言葉通り、天井一面を埋め尽くしていたシャンデリアは熟した果実が枝から離れるように、大勢の招待客が集まった会場へ次々に落下した。
それまで優雅な舞踏会に興じていた会場は、たちまち凄惨な地獄絵図と化した。重たいシャンデリアが逃げ遅れた者たちを無慈悲に押し潰し、砕けた破片が粉々に飛び散って、逃げ惑う招待客を容赦無用に傷つける。
特に、それを顔面で受けてしまった者は堪らぬ。反射的に破片を浴びた顔へ手をやった結果、逆に傷をつけてしまう原因を作り、より怪我を悪化させてしまう。転倒すれば全身に破片が突き刺さった。
会場のそこかしこで半狂乱めいた悲鳴が飛び交う。パニックはさらなる被害を引き起こし、巻き添えになる犠牲者の数を増やした。
「ここはヤバい! 出るぞ!」
大きな身体でサリナを守るようにしながらロムが叫んだ。
しかし、サリナはすぐさま否を訴えるように首を振る。
「でも、ウィルがまだ――!」
「バカ野郎! 今は自分の身を心配をしろ!」
そう怒鳴りつけたロムの額からも血が伝っていた。本人も気づかないうちに頭を切ったのだろう。
それを見てしまっては、サリナもこれ以上の強情を張るわけにはいかなくなる。口を閉ざすために、きつく唇を噛まねばならなかった。
「行くぞ!」
ロムはそう言うと、サリナを庇いながら一番近い出口を目指した。
背後では、いつ終わるとも知れないガラスの砕ける音と聞く者を震え上がらせる悲鳴がこだまする。
サリナもロムも逃げるのに必死で、それらに感けている暇はなかった。後ろを振り向く余裕すらない。
「がっ!」
突然、ロムが喉の奥から絞り出すような呻き声を上げ、その逃げ足が鈍った。心配したサリナが気遣わしげにロムを見る。
「い、いいから……早く走れ!」
ロムは言葉を振り絞るようにして、それを制した。鈍ったスピードを取り戻すべく、歯を食いしばる。
二人は命からがら安全な会場の出口へと転がり込んだ。途端にロムが倒れ込む。
「ロムさん!」
前屈みになったロムの背中を見て、サリナは悲痛な声を上げた。
「くっ……うううっ……」
ロムの背中には、ちょうどスプーンの大きさと長さを持ったシャンデリアの飾りが二つ、突き刺さっていた。サリナを庇ったせいで怪我を負ったに違いない。
ガラス製の飾りは深く刺さっているらしく、ロムは苦痛に顔を歪めていた。
「ちょ、ちょっと待ってて……!」
サリナはシャンデリアの飾りをロムの背中から抜こうとした。刺さった破片に触れた刹那、ロムが聞いたこともない悲鳴を上げる。ラカンとの殴り合いでも、ここまで痛がる素振りを見せなかった男がこんな姿を見せるとは。
さすがにサリナも怯みかけたが、だからと言って手を止めるわけにはいかない。
今度は目を瞑り、心の中で「ごめんなさい」とロムに詫びながら抜いた。
「うあああああっ!」
再びロムは悲鳴を上げた。大の男が目に涙を溜めている。我慢できないくらい激痛が走るのだろう。
とりあえず一つは抜くことが出来たが、背中に突き刺さっているシャンデリアの飾りはもう一つ。
サリナは心を鬼にして、もう一本も抜いた。
「ぐあああああっ!」
聞くに堪えないようなロムの絶叫。このまま気絶できれば、その方が楽だったかも知れない。残念ながらロムは意識を失いはしなかった。
無事に破片を抜くことは出来たものの、二ヵ所の傷口からは止め処なく出血が続いていた。手当てする必要がある。
サリナの行動は早かった。
自らの手でスカートの裾を裂いた。素足が露出するが、それに構わず、作った布切れをガーゼ代わりにしてロムの傷口に押し当てる。
純白だったはずの布切れはすぐにロムの血を吸い、見る見るうちに深紅に染まった。
「誰か……誰か、助けてください!」
一人でやれることには限りがある。サリナは助けを呼ぼうとした。
だが、会場から出て来た人々は一刻も早く危険な場所から離れようと、誰もが逃げ延びることに精一杯で、助けを求めるサリナたちの姿など目に入っていない様子だった。
こんなパニック状態の中、他人に構ってなどいられないのだろうが、普段は優雅な生活を送っているはずの上流階級の人間でもここまで取り乱すのか、とサリナは落胆を覚えずにいられなかった。
いや――
さっきまで逃げるのに必死だったのは自分も同じではないか。サリナは身勝手なことを考えた自分を恥じた。
こうなれば自分でどうにかするしかない。サリナは覚悟を決める。
それにウィルもまだ会場の中に取り残されているのだ。早く引き返して助けないと。
サリナは歯を食い縛って倒れているロムを起き上がらせると、自分の肩を貸しながら、とりあえず休ませる場所を探すべく廊下を進んだ。
大柄な男性を肩に担いでの移動は女性であるサリナにとっては大変な重労働だ。百歩も歩けば息が切れてしまう。おまけに履き慣れないヒールの高い靴のせいで、歩くと爪先が痛む。
やむを得ず、サリナは途中で靴を脱ぎ捨てて裸足になった。
ドレスの裾も破いてしまっているので、もはや淑女と呼べる格好ではない。けれども、そんなことを気にしていられなかった。とにかくロムを安全な所まで運ぶ。今はそれだけだ。
「大変そうじゃねえか、サリナ。良かったら、手を貸してやろうか?」
不意に声をかけられて、サリナは顔を上げた。すでに、その表情は硬い。
強張ったサリナの反応を見て、ラカンはニッと嫌らしく笑った。その後ろにはベネシストまでいる。
「あなたたち……!」
「また会ったな、サリナ。どうやら舞踏会はとんでもないことになっちまったようだが」
「まさか──あなたたちが仕組んだんじゃないでしょうね!?」
サリナは気色ばんだ。
対して、ラカンは愉快そうにせせら笑う。
「とんでもない。オレたちがそんな大それたことをするもんか。第一、ここはあの大富豪殿のお屋敷だぜ」
このドールの町の人間ならば、グスカに盾突くようなことはしない。それは暗黙の了解だ。
「じゃあ、あれは……?」
「単なる偶然か、それとも他に仕組んだ人間がいるのか……まあ、オレたちにしてみれば、都合よく起きてくれたハプニングさ。――ところで……どうやらそいつ、怪我を負ったみてえだな」
ラカンはサリナの後ろにいるロムに目を向けた。
この男が何をしようとしているのか、サリナには手に取るように分かる。
「やめて、ラカン! 弱っている人間に何をするつもり?」
するとラカンは大仰に目を見開いてみせた。
「まったく、不運としか言いようがねえな。のこのこ、こんなところにまで出しゃばらなければ、こうして痛い目に遭うこともなかったろうに!」
「て、てめえ……」
負傷したロムはギロッとラカンを睨みつけたが、サリナに支えられ、やっと立っている状態だ。せっかくの凄味も迫力不足に終わる。
案の定、ラカンは余裕たっぷりの態度だった。
そんな不敵さを見せるラカンを前にして、何ら打開策を見出せず、サリナは唇を噛むしかなかった。
「……分かったわ、ラカン。私があなたについて行けばいいんでしょ?」
「お、おい――!」
自己犠牲を選んだサリナの決断に、ロムは異を唱えようとした。
だが、その前にサリナは無言で、怪我を負ったロムを廊下の床に座らせた。表情には戦いを挑むような、強い決意が滲み出ている。
そんなサリナの顔をロムは見てしまった。彼女を守るどころか、むしろ負担となっていることに、ロムは傷の痛みよりも己の不甲斐なさに顔を歪ませる。
「気持ちは有難いけど……ごめんなさい。色々とありがとうございました」
サリナはそうロムに感謝を告げると、自らラカンの方へと歩を進めた。ラカンは思い通りに事が運び、満足そうな笑みを浮かべる。大袈裟に腕を広げてサリナを出迎えようとした。
「お帰り、サリナ。お前はオレの隣にこそふさわしい」
「いいこと、ラカン。くれぐれも、この人には絶対に手出ししないで。それが私からの条件よ」
「ああ、分かっているとも。そいつには何もしやしねえ。さあ早く、こっちに来るんだ」
もう一度、ロムの方を振り返ってから、サリナはかつての交際相手に近づいた。
待ちかねたラカンは手を伸ばし、サリナの腕を痛いくらいに掴んだ。
サリナは思わず顔をしかめた。
「初めから、オレと一緒にいれば良かったものを。そうすれば、オレもお前も幸せだったのに。──ベネシスト」
ロムは後ろに控えていた用心棒に合図が送られた。
ベネシストは左腰に差した《刀》をスラリと抜き放つ。ギラリ、と刀身が光を跳ね返した。
その瞬間、サリナの顔から血の気が引く。
「ちょっ――ラカン! 約束が違うわ!」
サリナから浴びせられた非難にもラカンはビクともしない。
「約束だと? もちろん破りはしないとも。オレはこいつに手出ししない。やるのは、あくまでもベネシストだ」
ラカンに捕らわれたサリナの横を無言で通り抜けたベネシストは、何とか立ち上がろうともがいているロムへゆっくり近づく。
「この人でなし! ──お願い、ベネシスト! 手を出さないで! その人は怪我人なの!」
「黙っていろ、サリナ! いいか、よーく憶えておけ! このオレに歯向かうヤツは、誰であろうと容赦しねえのさ! ──ベネシスト、せめてもの慈悲だ。苦しまねえように、あの世へ送ってやれ!」
ラカンの言葉にベネシストは返事をしなかった。代わりに得物である《刀》を上段に振り上げる。
「ロムさん!」
恩人の無事を祈るようにサリナは叫んだ。
しかし、逃げようにも、深手を負っていては動きも緩慢だ。ロムはままならない自分の身体に命令を送ろうと必死の形相だった。
ビュッ!
白刃が真っ向から振り下ろされた。
「くっ!」
間一髪、ロムは横へ転がるようにして、ベネシストの攻撃を回避した。白刃が空を薙ぐ。
しかし、凶刃の一撃を免れたものの、そんな動作すら身体は追いつかず、ロムの顔面には脂汗が滲み、息遣いも荒くなる。
際どいところを躱してのけたのを見て、ラカンは面白がって口笛を吹いた。
「ハッハッハッ! そんな身体で避けるとは、なかなかしぶてえじゃねえか! 簡単には死ぬなよ。逃げて、逃げて、そして死ね!」
死に物狂いで身体を起こしたロムは、再び構え直すベネシストを見上げた。
今度は外すまい、とベネシストはジリジリと摺り足で間合いを詰めようとする。
ロムのこめかみを冷や汗が伝った。回避するタイミングを僅かでも誤れば一巻の終わりだ。
「やめて! もう、やめて!」
見かねたサリナはロムに駆け寄ろうとした。が、その腕はラカンにガッチリと掴まれており、有無を言わさず力尽くで阻止されてしまう。
「何処へ行くつもりだ、サリナ!」
「離して! そんなこと、私がさせないわ!」
とは言え、所詮は女の細腕、ラカンの力には抗いきれない。
「お前はこっちへ来い! そこでたっぷりと可愛がってやる! 二度と歯向かえないよう肉体に沁み込ませてやるから覚悟しておけ! ──ベネシスト、後は任せたぞ」
「イヤッ! やめて、ラカン! お願いだから、ベネシストも!」
「うるせえ女だなぁ!」
ラカンは抵抗を続けるサリナを引き摺るようにして、その場から立ち去った。
残されたのはロムとベネシストだけ。
「……悪く思うなよ」
今から抵抗できない相手を斬り殺そうというのに、ベネシストは感情を揺らすことなく、あくまでも静かな声音を使った。
振り上げられた《刀》から一瞬たりとも目を離さず、ロムは懸命に逆転の一手を探す。
だが、そのような隙を易々と与えてくれる相手ではない。
ベネシストが息を止めた刹那、鋭い一刀が電光石火となってロムを襲った。
大勢の招待客で盛況だったはずの舞踏会場は、吐き気さえ催す不快な血生臭さに満ちていた。
天井より吊るされていた豪奢なシャンデリアは、大小を問わず、ほぼすべてが落下してしまった。元の形が分からなくなるくらい粉々に砕け散り、床一面をガラス片が覆い尽くしている有様だ。今は壁際に設置されている明かりだけが現場を薄暗く照らしている。
さらには逃げ遅れた人々が犠牲になり、折り重なり合うようにしながら下敷きになっていた。本来、真っ赤だったはずの絨毯は、流れ出た血によってどす黒く変色してしまっている。
会場内を占めているのは死の静寂だ。敢えて言えば、シャンデリアを吊っていた鎖だけがキィーキィーと、まだ揺れながら耳障りな音を微かに立てている。
「ほっほっほっ、愉快、愉快。これほど派手な見せ物は他にないな」
この惨状を目の当たりにしながら、耳を疑いたくなるような言葉を吐いたのは、誰あろう、この夜会の主催者で、当人形屋敷の主人でもあるグスカであった。
あれだけのパニックだったというのに、グスカは先程とまったく変わらず、会場前方にしつらえた椅子に寛ぎ、その重たい身を深く沈めていた。
幸運にも、グスカが座していた位置にシャンデリアは墜落しなかった。頭上にシャンデリアがなかったから──ではない。どういうわけか、グスカの頭上にある小さいシャンデリアだけが落下を免れている。まるで最初から意図されていたかのように。
室内の惨状をまるで風光明媚な景色を愛でるように見渡しながら、グスカは持っていたワイングラスを掲げ、一人、犠牲者に手向ける献杯をした。そのままグラスに口をつける。
「んぐ……ぬっ!?」
血よりも色濃い赤ワインが喉に流し込まれると、グスカは途中で顔をしかめた。慌てて飲むのを中断する。不快な表情で口の中をモゴモゴと動かし、入り込んだ異物をペッと吐き出した。
それは小さなガラス片だった。他のシャンデリアが砕けた際、グスカのグラスに紛れ込んだものだろうか。
幸い、口の中は切れていない。グスカは絨毯の上に吐き出したガラス片をジッと見つめた。
「――どうだ? ガラスを混入させた美酒の味は?」
不意に何者かの声が響き、グスカはビクッと身体を震わせた。目だけを動かし、声の主を探そうとする。
しかし、会場の中にはグスカ以外、生きている者の姿を認めることは出来なかった。骸と化した犠牲者を除けば、災難から逃れられた招待客は一人残らず避難したはず。
では、何処から声は届けられたのか。
「ぬうっ――!?」
不穏な気配でも感じたのか、グスカは不意に頭上を振り仰いだ。
唯一、落下を免れたシャンデリアが静かに揺れている。その上に何者かの黒い影が垣間見えた。
「何奴ッ──!?」
グスカが腰を浮かし、人影の正体を確かめようとした刹那、金属を断ち切る音がして、ひとつだけ残っていたシャンデリアが落下した。
人形屋敷の主の頭上へ。
「ひぃっ!」
グスカは短い悲鳴を上げると、座っていた椅子ごと横倒しになった。
そのまま球体に近い肉体は床の上を無様に転がり、シャンデリアの落下地点から逃れることに成功する。
派手な破砕音が会場に轟いたのは、その直後のことだった。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
危ないところで難を逃れたグスカは腰を抜かした格好で、砕け散ったシャンデリアと押し潰された自分の椅子を見つめた。
なぜ今頃になって。
グスカは恐怖に駆られ、天井を再び見上げた。
その刹那、黒い影が舞い降りた。まるで漆黒の翼を広げた化鳥のように。
黒い翼と見誤ったものがマントだと判明した刹那、グスカは青ざめた顔をして、着地した人物が何者か気づく。
「き、貴様は……!?」
醜悪な肉団子を思わせる大富豪の前に、壮麗なる美影身がスッと立ち上がった。
――吟遊詩人ウィル。
その黒き双眸は怜悧な鋭さを増し、彼を招いたこの屋敷の当主を射抜いた。




