3章20 a lull in the grump ➂
2時間目が始まっている。
この時間の教科は英語。
担任の木ノ下先生が授業をしていた。
その先生の話を聞きながら、希咲は黒板の方へ顔を向けている。
彼女の席は右側から――つまり、廊下側から2列目。
その列の最後方だ。
時折机に置いた教科書やノートに目線を落としつつ。
板書をしながら真面目に授業を聞いている。
蛭子ほどではないが、希咲もかなりの日数を欠席してしまった。
その遅れを取り戻さねばならない。
彼女は放課後はバイトがあったり。
家に帰れば弟や妹たちの世話に、母親の代わりにやっている家事もあり。
そんな家庭事情から、帰宅後はなかなか勉強の時間はとれない。
そのため、学校に通っている時間中に粗方のことは頭に叩き込んで。
後はテスト前に追い込みをかけて帳尻を合わせるという学生スタイルだ。
なので、その授業に穴を空けてしまったことは、普通の女子高生としての彼女にとっては地味に痛手となっている。
開いた教科書は現在61ページ。
希咲はその左下の角をまとめて指で摘まんで、パラパラと紙を鳴らした。
(けっこう進んじゃってるわね……)
他の教科も同様だが、休んでいた間の分のノートを誰かに見せてもらわねばと考える。
そうすると第一に思いつくのがクラス委員の野崎さんだ。
彼女なら特に嫌がらずにニッコリ笑顔でノートを貸してくれそうなイメージだが――
(――何でも笑って許してくれそうな分、何を嫌がるのかわかんないのよねー……)
彼女の優しさに甘えまくっていると、うっかり地雷を踏むかもしれないので気をつけねばと戒める。
遅れをとっているのは授業だけでなく、こういった交友関係もだ。
新クラスになってもう一ヶ月経っている。
だが逆に、このクラスメイトたちとはまだ一ヶ月ぽっちの付き合いなのだとも謂える。
一人一人がどういう子なのかは、まだ正確には把握出来ていない。
そして他の生徒に比べて、自分たちはそれを知るための時間が少ないのだ。
(それも追い付かなきゃなー……)
もうそろそろ誰しもが新しい環境に慣れる頃で。
また、慣れなければいけない頃合いだ。
希咲 七海はプロフェッショナルなJKなので、それに乗り遅れるわけにはいかないのだ。
(他の子たちに迷惑かけたくないし)
心の中で「うんうん」と頷いて気合いを入れる。
とはいえ――
(大体は知ってるのよね)
視線だけで教室を一度見渡してみる。
そんなに1教室の生徒数は多くない。
去年同じクラスだった子もいるし、クラスは違えども交流のあった子だっている。
さらに同クラス26名の内4名は幼馴染+王女さまで、他には去年から親友の愛苗だっている。
今から知り始めなければならない人数は然程多くはない。
(他によく知ってるのだと……)
顔は真っ直ぐに黒板を向いたままで。
目線だけ少し左に流れる。
弥堂 優輝――
幼馴染たちや親友を除けば、その次に一番よく知っているのは彼になる。
いい意味でも悪い意味でも、事実としてそうなってしまう。
希咲は授業を受けている彼の姿を眺めた。
(……大人しくしてる)
何の意味もない感想が浮かぶ。
あの男がどれだけ頭がおかしいのかを希咲はよく知っている。
そんな彼が大人しく授業を聞いているだけで、何故だか珍しく見えてきてしまう。
(ヘンなの……)
だが考えてみれば、彼は授業中に進んで何かおかしなことをしたりしない。
積極的に発言をしたりもしないが、基本的には触れさえしなければ大人しいのだ。
よくよく思い出すと、ほんの一ヶ月前の授業でもああやってジッとしていたことが思い出せる。
弥堂は背筋を伸ばして姿勢よく座り、視線は教師の方へ向けている。
(でも、どうせ話は聞いてないんだろうなあ)
よく見れば彼の手にはペンが握られていない。
ノートに黒板に書かれた内容を写している様子もなかった。
ただ大人しくしているだけで、真面目に授業を受けているわけではない。
(なんだろ。ジャマしないだけヨシって思っちゃう)
ここまでに知った彼の言動を思えばそれだけで上等だと思わされた。
あまりにも判断基準のハードルが下がってしまっている。
(ヘンなの)
それは自分へか。それとも彼へか。
曖昧なまま同じ言葉を浮かべて、ずっと彼へ視線を向けている。
ああして大人しく座っているのに。
それでも弥堂の今の姿がやっぱり浮いているように感じてしまう。
それはホテルで感じた、彼の姿が戦場にピッタリとハマったと感じた――あれと同じ意味で。そしてあれと真逆の感覚だ。
むしろその感覚が強くなったかもしれない。
(それってやっぱり……)
夢を観て。
彼の過去を多少なり知ってしまったからだ。
普通の高校生として。
普通の高校生に混じっている。
だが彼はまったく普通ではない。
希咲はきっとこの世界にいる誰よりもそれを知ってしまった。
だから、そんな彼がここで普通の高校生として授業を受けている姿に、どうしても違和感を覚えてしまうのだ。
(あたしだって言えたもんじゃないけどね……)
苦笑いを浮かべて自嘲する。
自分も、自分たちも普通だとは言えない。
だけど、そんな自分たちと比べても、弥堂は尚更異質だ。
希咲たちもこれまでに普通ではない環境で、異質な出来事の中で、大変な思いはしてきている。
だけど、弥堂のそれは自分たちとは比べ物にならないと思ってしまった。
希咲は全てでなくともそれを観てしまった。
逆にいえば、ほんの一部を観ただけで、そんな風に思わされてしまった。
しかし、それはただそれだけのことだ。
彼以外の他の普通の生徒たちとも同じように。
ただ、“違う”というだけの。
そんな当たり前のことに過ぎない。
だから。
そんなことで彼に同情を浮かべたり。
何か劣等感のようなものを彼に感じるべきではない。
そうは思えども。
(それでも、やっぱねぇ……)
多少は。
何かしらは。
思ってしまう。
自然的なもので、仕方ないことで。
だけどそんな自分に――
(――はい。悪い癖)
――希咲は一旦思考を打ち切った。
視線は彼に向けたまま、右手でペンをクルンクルンと回して別の思考を探す。
そうすると頭に浮かんだのは――
『ユウくん。アナタはこれまでずっと過酷な道を歩き、数々の困難に苦しめられてきました』
夢の中で観た、聖女エアリスの言葉だった。
港での魔王との決戦前の。
『運命は只管にアナタを弄び、異世界での戦いの日々はアナタの心を蝕み、でも、それでもアナタは今日まで歩き続けてきました』
『ですが、アナタはその日々に答えを得られなかった。結末を取り上げられ、決着をつけることが出来なかった。だからアナタの戦いは終わらなかった。日本に帰って来てからもずっと、その心は遠い戦場に置いて行かれたままだった』
きっと彼女はずっと弥堂の近くで、自分よりももっと彼の人生を見てきたのだろう。
その一部しか知らない希咲も、彼女のこの言葉が真実であるとわかる。
(あいつはきっと――)
中学生だった時のある日突然異世界に飛ばされ。
突然勇者なんてものにされて。
だけど、得られるはずだった力を得られなかった。
(なのに。あいつは普通の中学生のままで。頑張って生き抜いて――ううん。何回も死にながら、それでも戦い抜いた……)
異世界での戦争を終わらせようとして。
魔王を倒して。
なのに終わらなくて。
それでも何かしらのケジメをつけようと、自分を召喚した皇女に挑んだ。
だけど、それすら叶わずに。
今度は勝手に元の日本に戻されてしまった。
それが弥堂の半生だ。
その半生は――
他人がそんなことをするべきではないが。
それでも傲慢に残酷に横暴にその半生に評価を下すのならば――
――彼は何も成し遂げられなかったのだろう。
何よりも。誰よりも。
他ならぬ彼自身が強くそう思っている。
彼はきっと――
(――帰りたいとは思ってなかったのよね……)
異世界での彼の姿からなんとなくそう感じる。
だけど帰されてしまった。
異世界の戦場に誰よりも適応してしまったその後で。
日本人として、異世界への適応に苦しんで。
そして今度は異世界人として、日本への適応に苦しむ。
(そっか……)
だからこういった何気ない日常シーンで、彼の姿が『世界』から少しズレて見えてしまうのかもしれない。
あのスキルは使っていないのに。
希咲はそんな風に思った。
(あいつは、どう思ってるんだろ……)
今この教室で、こうして英語の授業を受けていて。
彼は今何を思っているのだろうか。
それに、そもそも――
(なんで高校入ったんだろう)
同じ年代の者たちなら至極当たり前のことだが。
あの弥堂が、あそこから戻ってきて、それで高校に入学しようと発想する。
それは決して悪いことなどではないが、彼らしくない発想だと思った。
もしかしたら――
(普通になろうと――普通に戻ろうって……、そう思ったのかな……?)
それはまだ夢では観ていない。
もう夢では観ない。
知りたいのなら彼に直接訊くべきだ。
(聞いたら、怒るかな……?)
少なくとも喜びはしないだろう。
無表情が少しだけ動いて嫌そうな顔になる。
何度も見た顏だから、簡単に想像ができる。
もしも。
仮に弥堂が普通の高校生になろうとしていたのだとしたら――
(――あたしが……)
そう考えるのは思い上がりだろうが。
そのきっかけの一つになったことは間違いがない。
そしてその台無しになった先の一つの結末が――
『あっちの世界で出来なかった魔王討伐。それを今ここでやり直しましょう。そしてアナタは自分の時間を先に進めるのです』
あの“龍脈暴走事件”、または“魔法少女事件”だ。
あの地獄のような戦場で――
『ようやく戦争を終わらせられる。アナタの7年の戦争にやっと答えが出るわ』
――弥堂はようやくそれを成し遂げた。
だが――
(――なんだかな……)
それは本当に彼にとって喜ばしいことだったのだろうか。
希咲は素直にそうは思えなかった。
(愛苗はきっと救われた……。あたしも……、たぶん……)
では、弥堂自身はどうなのだろうと考えると、答えがわからない。
異世界に攫われて。
望まずに還されて。
普通になろうとして。
こっちの異変に巻き込まれて。
きっと本当に必要としていた時に得られなかったチカラを今更与えられ。
闘いの日々を終わらせることが出来て。
それによって愛苗が救われ。
そのためにまたチカラを手放して。
だけどそのせいで新しい別の戦いがまた始まってしまった。
結局彼の戦いは終わっていない。
(なんて――)
救いのない物語なんだろうと思った。
だけどこれは空想などではなく、現実の出来事で。
そして今現在彼の“普通”や“平穏”を脅かしているのが自分たちなのだ。
そんなつもりはないのに、そうなってしまっている。
だけど――
(――そうならなきゃいけないなんて、そんな決まりはない……っ!)
水無瀬 愛苗を守りたいという想いや目的は同じなのだ。
それなら敵対する理由などない。
しかし弥堂はそうは考えていない。
それは彼の人間不信からだけではないだろう。
きっと他にも、まだ希咲の把握していない事情がある。
その事情を知らなければならない。
それを知るには直接本人に訊くべきだ――と思い直したばかりだったのに。
他でもない本人から、説明がめんどいから夢で見ろと言われてしまった。
そこにちょっと不服はあるけれど。
なんにせよ、それを知ることが出来るのは今夜になるだろう。
(だから今考えてもあんま意味ないんだけどねー……)
ちょっと拗ねたように唇を尖らせて。
その唇と鼻の間にペンを挟んで両手で頬杖を。
そして薄く嘆息した。
どんな事情があったとしても、今から彼と敵対する気にはなれない。
それだけは決定でいいだろうと、希咲は頷いた。
この思考はここで一旦止まる。
そうなると、話は元に戻る。
左手は頬を支えたまま、右手でまたペンをクルリと回し始めた。
敵対しない。
相手を知る。
みんなで手を取り合って。
(ようするに、なかよくするってこと)
まだよく知らないクラスメイトと仲良くするために、その人のことを知らなければ。
このクラスになってもう一ヶ月で――と、先程考えていたことだ。
(あいつはなんか逆なのよね……)
よく知ってしまったがために、仲良くするのが難しくなっている――
――そんな気がする。
(なにそれ)
自分で考えてわけがわからないと、自分で苦笑いをしてしまった。
(う~ん……)
クルクルとペンを回して手遊びをしながら、ぼんやりと彼の後ろ姿を目に映し続けている。
(あたし、この男の子と――)
『――仲良くできるのかな?』
そんな風に思考を続けようとした時。
教壇に立つ先生が教科書を読み上げながら歩き。
黒板の右端の方に『A』から始まる英単語をなにか書いた。
その動きを追うように生徒たちの顔が動く。
弥堂の顔も。
少し右を向くと彼の横顔が露わになった。
右の眼が見えて。
鼻筋の輪郭を無意識に目線でなぞって。
そしてその下――
唇に目が留まった。
目線はそのまま。
ぼんやりと――
『あたし、この男の子と――』
(――キス……しちゃったのよね……)
そんなことを思い出す。
クルン、クルン――と、ペンが回って。
七海ちゃんのお顔がシュボっと赤くなった。
(なななななに考えてんのよ……ッ⁉)
激しく動揺したせいでペンを取り落とす。
「あっ――」
宙に浮いたそれを掴み取ろうとして失敗した。
ペンがカツンっと床を鳴らし、続いて机をガタっと揺らす。
皮肉にも、その騒音が授業に完璧な静寂を齎した。
シ~ンっと静まった教室の中の24人分の目が希咲の方を向いている。
「あ、あぅっ……」
彼女の顔は別の羞恥で赤くなった。
「希咲さん……? 大丈夫ですか?」
「えっ⁉」
木ノ下先生にキョトンとした目を向けられると、希咲はさらに動揺してしまう。
「シャ、シャーペン落としちゃって……、あはは。うるさくしてゴメンなさい」
「いえ、いいんですよ。それくらい」
先生は優しくニッコリと笑ってくれた。
希咲は奇異の視線を避けるために誰とも目を合わせないようにしてペンを拾おうとするが――
「は、はい、希咲さん、これ……」
「え?」
それよりも早く、右斜め前の席に座る太っちょの男子生徒――小野寺くんが、自身の足元近くに転がってきた希咲のペンを拾ってくれた。
希咲は照れ隠しに愛想笑いを浮かべる。
「ん。ありがと。小野寺くん」
「い、いえ……」
小野寺くんは希咲とは目を合わせず。
拾ったペンの最端を指で摘まんで決して自らの体細胞が彼女に触れぬよう慎重にそれを手渡した。
そしてすぐに前を向く。
希咲もペンを受け取ってすぐに前を向いて、若干身を縮こまらせた。
他の生徒たちも特には強い関心を向けたりはせずに先生へ意識を戻す。
弥堂は最初から興味も視線も向けていない。
すると――
チラリと。
小野寺くんが目線を横目に。
そして、希咲の露出した右耳の輪が朱に染まっているのを見て、ハフハフと呼吸をした。
それどころではないので希咲は彼の様子には気付かなかったが。
小野寺くんの後ろの席――希咲の右隣りに座る小窪くんが笑いを堪えた。
小窪 彗多は聖人と同じサッカー部で、のらりくらりとした人間関係が得意な人間だ。
聖人が居なければクラス1のイケメンと呼ばれそうなビジュアルだが、自分自身が目立つことをあまり好まず。
どちらかというと目立っている人間を観察したり揶揄ったりすることを好む、イイ性格をした糸目男子だ。
生来視野が広いらしく、教室の右端最後方の席ということもあって、クラス内の大体の一部始終は彼に把握されている。
そんな彼にとってはこの2年B組はとても興味深いオモチャで。
新学期が非常に充実している側の生徒さんだった。
去年同じクラスだった者や、同じサッカー部である聖人や根本にはバレているものの。
小窪はこんな自分の特性を上手く隠しながら、他人の人間関係を野次馬的に楽しんでいる。
何か大きな悪意があるわけではなく、ただの悪趣味だ。
交友関係が元々浅く広いので、彼はこのクラスのメンバーの性格なども大体把握している。
誰と誰を絡ませてみたら面白そうだ――などと。
これからの学園生活に期待を寄せ、一人含み笑いを隠した。
彼以外にも本性を隠した生徒は何人もいて。
この2年B組の人間関係はわりと終わっていた。
学級委員の野崎さんの展望とは裏腹に――
このメンバーがクラスとしてまとまるのは、まだ先のことなのかもしれない。




