88.曹操、病に倒れる
※おことわり
言うまでもありませんが、この戦記はフィクションです。
史書には「曹操が病に倒れた」という記述はありません。そもそも赤壁の戦いは、正史『三国志』の中ではあっさり片付けられています、不思議なことに。また、程昱と程普が苗字が同じため遠縁にあたるという設定も筆者の創作です。
程昱のひねりのない作戦に対してオレは懸念を示し、
「それはどうでしょう?オレは以前【先読みの夢】で、荊州を手に入れた丞相はその余勢を駆って江東の孫権を攻めますが、赤壁という所で丞相の水軍が返り討ちにあって壊滅してしまう、とお伝えしましたが……」
と反対した。反対にもかかわらず、孫呉との開戦を勧めるオレに不審を抱いた曹操はムッとして、
「つまり、おまえは腹の中でわしが孫権と戦って負ければいいと思っているわけか?やはりおまえは秘かに自立を謀んでおるのだな?!」
チッ、バレてたか。オレは慌てて弁明した。
「そうではありません。オレが言いたいのは、今のままでは丞相の軍は孫呉に負ける。速やかに別の対策を練るべきだ、ということです」
「試しに聞いてやろう。その策とやらを申してみよ」
「荀彧様や賈詡殿の申されるとおり、孫子の兵法に善の善とされる「戦わずして勝つ」の策。つまり、荊楚の領民を慰撫し、豊富な金・兵糧・武器を利用しつつ、時おり軍船を長江に廻航して呉会の地を威嚇すれば、三年も経たずして孫呉は頭を下げて参るでしょう。これが上策。
次に、孫権のもとに逃げ込んだ劉備の“獅子身中の虫”を発動させ、孫呉が内部から攪乱されるのを煽る策。丞相が仕掛けた“埋伏の毒”である関羽将軍を使って、劉備の孫呉撹乱を後押しする。孫呉で内乱が起これば、袁譚・袁尚の争いのように、いずれかの勢力が丞相に援軍を依頼して来るのは必定。これを利用し一方を攻撃した後、もう一方をも攻め滅ぼす。これが中策。
そして、江陵に駐屯する八十万と号する曹魏軍を二つに分け、一軍を荊州から、もう一軍を寿春から二方面作戦で孫呉に向かって侵攻する。これが下策」
「ふうむ。どう思う、程昱よ」
「論外ですな」
と程昱が自慢の髭を撫で回しながら答える。
「まず上策とやらは、孫権から送られた返書で失敗に帰したことは明らか。
次に中策は、張遼殿も献策されたがすでに丞相が却下なさった物。そもそも、“埋伏の毒”の褒美として関羽を鎮南将軍・荊州刺史に任命してもらい、そのおこぼれに与ろうと謀む、秦朗の卑しい魂胆が底にあるのは明白。
そして下策はあざと過ぎる。秦朗よ、おまえは今年中に淮南の広陵を陥とさねば、丞相と交わした公約を果たせなかったことになる。そこで今荊州に展開する曹丞相の軍勢を二つに分け、その一方の軍勢で広陵を攻略させようとしているのだ。他人の褌で相撲を取るとは、恥を知れ!」
「うむ、程昱の申すとおりだ。秦朗よ、おまえの策はどれも使い物にならぬ。荀彧同様、おまえも賞味期限切れと言ったところかの。ぐははっ!」
曹操が呵呵大笑する。そうして、
「おまえは牢獄から、わしが天下統一を成し遂げる瞬間をとくと眺めておけっ!」
「くっ……」
まずいぞ。牢に閉じ込められたままだと、赤壁の戦いで死ぬ運命にある兵たちの命が救えない!
◇◆◇◆◇
まずは前哨戦。
江陵を発した八十万と号する曹魏軍は千隻の軍船に乗って、一路孫権の駐屯する柴桑の大本営を目指した。周瑜・魯粛らの率いる孫呉の水軍三万はこれを迎撃。中央旗艦の蔡瑁の軍団が集中的に狙われて潰走し、左翼の徐晃・右翼の史渙の奮戦むなしく、曹魏の水軍は江北の烏林に退却した。
しかし、緒戦に勝ったはずの孫呉の君臣はともに震撼した。
周瑜・魯粛・諸葛亮の説得に騙され、北方の兵は水戦に不馴れで呉越の兵と水上で互角に渡り合えるはずがないと高をくくっていたが、現実的には楼船を二隻失った。曹操軍の兵力は孫呉軍の7,8倍を有する。このままじりじりと戦力を削られていけば、いずれ曹操に寄り切られて負ける。
周瑜提督の見込みが甘かったのではないか?孫権の心の中に、再び降伏の文字が浮かび上がった。
逆に「行ける!」と手応えを感じたのは曹魏軍である。確かに十隻の軍船を沈められたものの、敵の楼船を二隻仕留めることに成功した。水軍を率いる経験が浅い徐晃・史渙の指揮だったが、孫呉に通用することが証明されたのだ。
軍船の所有数では曹魏軍の方が圧倒的に多い。相手の軍船をゼロにした方が最終的な勝利者であるならば、今日の戦いだけを見れば曹魏軍の方が被害が大きかったとはいえ、物量に勝る曹魏軍の方が有利なことは明らかだった。
そんな時に曹操が病に倒れた。
曹操だけじゃなく、曹魏軍の将兵の間に疫病が蔓延しているそうだ。正史『三国志』の曹操・劉備・孫権の伝に見える、赤壁の戦いを抜き出してみよう。
・曹公は江陵から劉備征討に出撃し赤壁に到着した。劉備と戦ったが利あらず、ちょうどその時、曹操の軍営では疫病が流行し官吏士卒の多くが死んだ。(『魏志武帝紀』)
・孫権は周瑜・程普ら水軍数万を送って劉備と協力し、曹公と赤壁で戦い大いに討ち破ってその軍船を燃やした。劉備と孫呉の軍は水陸並行して進み、追撃して江陵に達した。この時疫病が流行し多数の死者が出たため、曹公は撤退して許都に帰還した。(『蜀志先主伝』)
・周瑜・程普を左右督とし、各々万人を領し、劉備とともに進んで赤壁で遭遇し、曹操の軍を大破した。曹操は残余の船を焼いて引き退き、士卒は飢え疫んで大半が死んだ。(『呉志呉主伝』)
赤壁の戦いで曹魏の軍船が焼かれて大敗したのは歴史的事実だが、それと同時に曹魏軍に疫病が流行していたのも事実のようである。
当時長沙にいた医者の張仲景が、医学書『傷寒論』を記している。後漢末に流行していた“傷寒病”で一族の者を多く失ったことで、その処方を残そうと考えたという。
傷寒病とは“チフス”として知られる病気である。不衛生な食べ物を口に入れることによって感染し、高熱・発疹・腹痛・嘔吐下痢、ひどくなると肝障害や脳症等を発症するそうだ。
曹操は急遽布令を出し、曹丕に対孫呉戦の指揮を委ねた。
「用兵の道は変幻自在、小が大を呑むには“智”を使い“勢”を利用する。
賊の提督は知勇兼備の周瑜じゃ。奴は“智”と“勢”を駆使して急戦を仕掛けて来るに違いない。わしの病が治癒するまで戦いを避け、徹底して持久戦の構えを取れ。されば賊の軍規は緩み士気は衰える。これを待って攻略を開始するように」
と戒めた。
しかし、腐れ儒者の桓楷・華歆は主人の曹丕に入れ知恵して、
「丞相は病に罹り、弱気になっておられるのです。我々の力では勝てないことを心配し、敢えて安全策の持久戦を求めたのでしょう。
我が曹操軍は、数の上でも孫呉軍を圧倒しておるのです。いま機をみて賊を破れば、殿下の功績は不朽のものとなりましょう。丞相の後嗣ぎ候補と目される曹沖様・秦朗らライバルを蹴散らすチャンスです。わざわざ敵を丞相に残す必要もありますまい」
「ではあるが……」
と曹丕はためらう。イヤミ三銃士の一人・董昭は、
「仮に秦朗であれば、奴が献策した「中策」――関羽を使って孫権の“獅子身中の虫”となっている劉備に孫呉軍を裏切らせるように、丞相は指示を出したでしょうな」
と囁いた。曹丕は憤怒の表情で、
「うぬっ、俺が秦朗に劣るとでも言いたいのか?!あいつには負けられん!程昱、なにか良き策はないのか?」
程昱は進み出て、
「ご心配なく。すでに手は打っております。
実は、孫呉の将軍である程普は私の遠縁なのです。周瑜とも不仲で、奴の勇ましい徹底抗戦論には眉を顰めておるらしい。一万の水軍兵を率いて参戦したものの、周瑜に提督の座を奪われ、不満を口にしているとか。斥候の調べでは、孫権の内意を受けて、秘かに張昭ら降伏派と連携しておるそうです。
私はすでに程普を調略しており、次の開戦と同時に、彼の配下の黄蓋と申す者が敵陣営の右翼から離脱し、我が軍に投降するという手筈を整えておきました」
うっわ。黄蓋の投降って、すでに曹魏軍の敗戦フラグが立ってるじゃん!
「陣形が乱れたところに我らの楼船千隻が突撃すれば、いかに周瑜の指揮が優れていようと壊滅は必至。その勢いでもって長江を下り、賊の首領・孫権が遠巻きに戦況を見つめておる柴桑の大本営に進撃します。まあ、降伏は間違いありますまい。仮に奴が逃亡すれば、そのまま都の建業を占領するまでです」
と程昱は自慢のあご髭をしごきながら戦略を披露する。曹丕は喜んで、
「善哉、さすが程昱ぞ!俺は決めた。持久の策など取る必要はない。いざ出陣じゃ!」
と号令を掛けた。
そして運命の建安十三年(208)11月20日、曹魏軍の軍船は折からの東南風で紅蓮の炎に包まれ、ことごとく燃えて灰燼に帰したのであった。
>丞相は病に罹り、弱気になっておられる…わざわざ敵を丞相に残す必要もありますまい
この場面は、唐の李世民が病に臥し持久戦を指示したのに、殷嶠と劉文静が功を焦って群雄の薛挙を攻撃し、大敗した史実をモチーフにしました。
次回。時計の針を曹操が病に倒れた時点に巻き戻し、赤壁の戦いのウラで主役の周瑜、そしてこの物語の主人公である関興がどう動いていたかが語られます。お楽しみに!




