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完全に油断していた。二日連続で来るなんて、夢にも思わない。鮮やかなラナンキュラスの前で佇む男性の姿を、遠目に見る。すぐにでも動きそうになる膝に力を入れ、頭を抱えた。近づいちゃいけないことは分かっている。カズラとも約束した。でも、店員としての矜持が気持ちをぐらつかせる。チラチラと彼のことを覗き見ていたのが、人探しをしているように見えたのか。
「あ。村主さん、良かった」
先ほどわたしを呼びに来たスタッフに、運悪く見つかってしまった。晴れやかな声が、そこら中に響き渡る。
「あの人ですよ。ずっと待ってらっしゃいます」
『ずっと』……。
わたしは心の中で手を合わせ、なるべく声量を落として彼女を窺い見た。
「あのぅ、すみません。わたし、店長に呼ばれてたこと思い出したんです。そちらで対応しててもらっていいですか?」
「でも、村主さんご指名ですから!」
悪びれない笑顔に引きつり笑いを返す。
「昨日も来られてたんですよね。園芸関係のお問い合わせなんじゃないですか?」
それを言われたら、逃げ出せない。よりによって、今日は同じ園芸担当の荒木さんが休みだ。わたしは渋々足を動かした。彼女の声で、完全に彼がこちらに気づいてしまっていたから。
「お待たせしました」
何となく小走りで駆け寄り、距離を空けて立ち止まる。
「ちょっと聞きたいことがあって」
炎天下で長く待たせたことなんて気にも留めていないような声音には、ミストシャワーのような軽やかさがあった。
後ろめたくて、目についた傷んだ葉を摘み、ポケットに入れる。わたしは敢えて、淡々とした口調で言った。
「はい、わたしに分かることであれば」
「メールアドレスに連絡が来るって、昨日言われて書いたんだけど」
「……アドレス?」
想像してなかった【お問い合わせ】に首を傾げる。
「うん。今、壊れてるパソコンのアドレスなんだよね」
わたしはぎこちなく頷いた。
それ、わたしじゃなくても良くない?
「どのアドレスでも、ちゃんとスマホに届くから大丈夫ですよ」
なるべく分かりやすい言葉を選ぶ。お年寄りと話をする時みたいに。
彼はゆっくりと、形の良い薄い唇をアーチ状にした。
「スマホ、持ってないんだ」
「ガラケーですか?」
「いや。その類は、必要性を感じなくて」
反射的に両眉がぐっと持ち上がった。ただ、かろうじて声は上げなかった。お陰で、次の言葉も出てこなくなってしまったけど。
「村主さんは、持ってるの?」
「はぁ、まぁ、人並みには」
彼は軽く肩をすくめた。
「常に手元にあると、疲れない?」
「無いと、仕事になりません」
「花を育てる仕事に、必要なの?」
その言い草に、知らず眉間に皺が寄る。
「わたしたちの仕事は、そんなフワフワしたもんじゃありません」
すると、目の前の広い肩が細かく震え出した。キャップの下から、プッと吹き出す声が聞こえてくる。
「村主さんは、分かりやすいね」
「そういうお客様は、分かりにくそうですね」
「そう?」
可笑しそうにわたしを見つめる姿にムッと口を閉じて、視線を逸らした。自分のペースが保てない。この人の声は、社会人としてきちんと被っている皮を、いとも簡単に剥いでしまうらしい。
わたしは、腰にぶら下げていた軍手を両手にしっかりつけた。苗を品定めする老夫婦に場所を譲り、当たり障りのない笑顔を浮かべる。
「いえ、怒ったり喚いたりしなさそうだな、と思いまして」
「なるほど。あぁ、ぼくは迎井蓮と言います」
知ってます、と言いかけ、取ってつけたような咳をした。
「では迎井さん、固定電話があるならそちらで。またはおハガキでお知らせしましょうか」
彼の瞳が、昨日のように波打った気がした。じわじわと甘い香りが広がる。わたしは息を止めた。
「ハガキといっても、DMをお送りする形になりますが」
「そう」
大型扇風機の起こすぬるい風が、二人の間をよろよろと通り抜けていく。
「どちらも遠慮しておくよ」
わたしは視線を戻した。
「そうですか。お客さまがそうおっしゃるのなら……」
「また、明日来るから大丈夫」
「あの。百日紅は、秋まで入荷はございませんが」
「うん、分かってる」
「では、明日は」
他の者が対応いたします。
そう言おうとした。だけど、言えなかった。
その時の彼の目つきを、どう受け止めたらいいのか分からなかったから。
穏やかでありながら、息が詰まるほどの濃い視線。しかし次の瞬間には、視界に入れることさえ拒むように目を細める。
足が一歩、前に出た。
そして、もう一歩。
わたしの体は独断で、彼との距離を詰めようとしていた。
待って。止まって。わたしは近づきたいなんて、思ってない。
深呼吸を繰り返し、漏れ聞こえる館内放送に耳を澄ます。使い古したエプロンの裾を握りしめる。それから、大きな声で言った。
「明日は別の者が対応しますので!」
体がふっと軽くなり、急いで後ずさる。
明らかに奇異なわたしの行動に、彼は全く動じていなかった。むしろ喜んでいるようにも見えた。
「会えて、良かった」
そう言った迎井さんが、おもむろにキャップを取る。曝け出された姿に、わたしの喉が悲鳴を漏らした。
――どうして?
体の奥で、誰かの悲痛な声が響き渡る。
彼の髪は、一部の隙もなく白銀だった。
長い年月をかけて抜け落ちたような色彩は、訳も分からず胸を穿った。思わず目を閉じる。瞼の裏で、紅い粒が飛び交う。
まつげを震わせながら、うっすらと目を開けた。凛とした立ち姿が、空に届きそうなくらい真っ直ぐ伸びていた。
額の汗を拭い、再びキャップを被り直すと、彼はわたしに向かって、柔く、笑った。




