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わたしが忘れた紅い花  作者: 出原ミサ
のばした手の先
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19/22

ー5ー

 並んで縁側に座り、風にそよぐ百日紅《ひゃくじつこう》を見上げる。滑らかな木肌が午後の穏やかな光を吸い込み、真夏よりも艶めいて見えた。

「あれが、今年最後かな」

 揺れるたび散っていく花びらを目で追う。そのひとつが地面に届く前に口を開いた。

「百日紅の苗木が入荷したんです。良かったら、買いに来てください。出したばっかりなので、状態も良いです。今なら好きなものを選べますし」

「そう」

 迎井《むかい》さんはチラッとだけわたしを見て、すぐに両手で包んだカップの中を覗き込んだ。そして、抑揚のない声で言った。

「いいね」

 乾いた風が吹いた。彼の髪をなびかせ、肩下まで伸びたわたしの髪を揺らし、塀の向こうに抜けていく。急いで言葉を付け足した。

「お手紙とか苦手でしたよね、だから、また時期を過ぎてしまう前にお伝えしとこうと思って」

「苦手なわけじゃないんだよ」

 わたしは、スカートの皺をぎゅっと掴んだ。

「気になってたんです。お元気なのかな、と」

「もしかして、生存確認?」

「そんなんじゃ」

 笑い声が響いて、手の力を解く。

「あの日のお礼、ちゃんと言いたくて。押しかけてすみません」

「ううん。村主《すぐり》さんが元気なら、それで」

 風が止《や》んだ。大きな百日紅の根元には、周りの土を覆うようにして、冷たい葉陰が広がっている。迎井さんのまつ毛の落とす影の色に似ていた。わたしはお茶をぐっとあおった。

「考えてしまって、色々と。そしたら、迎井さん急に来なくなるし。何かあったんじゃないのかって」

「やっぱり生存確認だ」

「違います。あ、そんなに違わないか」

 彼は、青い空に向かって口を開けて笑った。大きな花びらが、ほとほととこぼれ落ちるみたいに笑うんだなぁと思った。迎井さんは、ようやくわたしに向き直った。

「どうも村主さんには敵わないね。近く、苗木を買いに行かせてもらうよ」

「営業に来たわけじゃないですから」

「うん。ぼくが、買いに行きたくなったんだ」

 その視線はいつもと違い、わたし自身の感情を揺さぶった。経験したことのない心の動きに耐えきれず、カップの中の波紋に目を向ける。

「お忙しかったですか? お仕事」

「涼しくなってきたからね、お陰様で」

「だから、いらっしゃらなかったんですね」

「――そうだね」

 含みをはらんだ間に、安堵のため息を飲み込む。

「会わない方がいい気がして」

 カップが大きく傾いて、冷えたお茶がスカートにシミを作った。

「……すみません」

「違うよ、誤解しないで」

 迎井さんは、側に置いてあったタオルをわたしの膝の上に乗せた。声に嘘はなくて、無理に引き上げたであろう口元が、左右非対称に歪んでいた。

「ぼくがきっかけで、嫌なことを思い出すんじゃないかと思ったんだ。怖がらせたくなかった」

「小火のことなら、もう大丈夫です。平気です」

「そう。良かった」

 柔らかい笑顔が、わたしの口を縫いつける。

 わたしたちはしばらく無言で座っていた。時々、車の通り過ぎる音が遠くから聞こえるくらいで、辺りはとても静かだった。日が陰り、樹上の葉がざわめき出す。

「少し冷えてきたね。ブランケット、取ってこようか」

 整骨院に来る人に貸し出すものなのだろう。きっと清潔で、柔らかそうで、体を覆うとみんな同じ色を纏う。返事をせずに、迎井さんの顔を見上げた。

「あの時、ごめんって、言いましたよね」

 かろうじて保たれていた空気のバランスが崩れた。

「どうしてですか?」

 溜まっていた衝動が、迎井さんの方に身を乗り出させる。

「何で、わたしが熱さを感じていたこと、知っていたんですか? もう二度とって何ですか?」

 百日紅の花びらがひとつ、目の端を落ちていった。

「七月に初めてお会いしましたよね。みんな、迎井さんは古参のお客さんじゃないって言ってました。誰かと……間違ってますか?」

 迎井さんは無言で上着を脱ぎ、わたしに触れないよう細心の注意を払って、肩に掛けてくれた。その表情からは、まだ早い春先の気配がした。

「違う。ぼくが見てたのは、きみだ」

 強い風が吹いた。百日紅の枝がしなり、たくさんの花びらが宙を舞い、地面を転がっていく。最後の艶姿を見せつけるように。

「村主コウが感じ恐れているものは、村主コウのものじゃない」

 紅《あか》は雨のように迎井さんの体にまだらに降り注いだ。白い上下を、白銀の髪を、深い色に染めていく。

「ちょっと待ってください。どういう意味ですか?」

 掛けてくれた上着を握りしめる。

「あなたは、誰なんですか?」

 どれだけ詰め寄っても、微動だにしない。表情を変えないまま、彼の口だけが機械的に開いた。

「ぼくはかつて、取り返すことのできない罪を犯した」

「……え?」

 答えになってないし、言葉の意味も理解できない。

「何もしなかった。ただ、見ていた。きみの痛みを代わることすらできずに」

 ふいに、固い枝のような動きで自分の腕が伸びた。ここで彼に触れることが正しいとは思わなかったけど、止められなかった。

 光る髪に貼りつく花びらを一枚一枚剥がして、紅い小山を作る。迎井さんが差し出してきた、皺の少ない手のひらにそれを収めた時、ほんの少し指先が触れた。

 その瞬間に、流れ込んできたものがあった。

 真っ黒に焦げた花木の残骸。それを、目を逸らすこともできずに、ただ見つめ続ける視線。

 やっと分かった。

 涙すら流せない痛みに、わたしはそのまま手を重ねた。置き忘れていた自分の皮膚を貼り合わせたように、ぴったりと馴染んだ。下になった、ただでさえ白い手から血の気が引く。

 ――あなたは知っていたのね、全て。

 口が勝手に動いた。自分の声だけど、自分の言葉じゃなかった。彼は肩を震わせ、やがて泣き笑いみたいな顔をした。そして、ためらいがちにわたしの手を握り返した。

「それが、ぼくの贖罪だから」

 手のひらは大きくて温かだった。それだけは確かだった。

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