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インターフォンを鳴らすのは、勇気が要った。最近じゃ、人の家を訪ねるなんてそうそうないし。何度目かの深呼吸の後、素早くボタンを押し、身構えた。
しかし、スピーカーから聞こえてくるのは、微かな雑音だけ。自分の鼓動が余計に高く響いて、そわそわと辺りを窺った。もう一度ボタンを押した。反応はない。
「待って。待って待って」
指先が震えている。今日は逃げないと決めて来た分、急激に肩の力が抜けていく。
お祖父さんの代から変わっていないと思われる、すり硝子の引き戸を見上げた。看板もない。予約時しか開かない。あの日のお礼を、だなんて、我ながら薄っぺらい口実だ。
こめかみのあたりを、涼しい風が掠めていった。脱いで畳んだ仕事着と普段は持ち歩かないメイクポーチで、カバンが不格好に膨れている。
朝からやり直せたらいいのに、全部。
「村主さん?」
「ヒャアッ」
長いスカートの裾を踏んづけて、つんのめった。手をついて、敷石へ頭から突っ込むのは何とか回避したけど、恥ずかしくて顔が上げられない。さっきくぐり抜けてきた門の方から、駆け寄ってくる足音がする。
「大丈夫!?」
目の前に手が差し出された。すらりと長い指だった。
「大丈夫です、大丈夫。全然……」
押し留めるように、両手のひらを何度も突き出して、自力で立ち上がる。目線だけを少し上げると、以前と同じ白い上下に重ねたパーカーが見えた。片手には買い物袋がぶら下がっている。それから、いつもの彼からは想像できない音量で話しかけられた。
「怪我は!? 服、汚れてないかな? あ。それから……えっと……」
さらに視線を上げると、迎井さんは大きなマスク越しに自分の口を強く押さえていた。体が硬直し、キャップの下の瞳が所在なくさまよっている。
「こういう時、普通どうするのかな」
ふぅっと、体温が戻ってきた。
「すみません。せっかく差し出してくれた手を、わたしが断ったから」
「いや、見よう見まねだから、正しいか分からなかったし」
その言い方がおかしくて、思わず吹き出す。
「親切に、正しいも間違いもないですよ」
彼はマスク越しに分かるくらい、頬を持ち上げた。
「そう。村主さんといると、こう、飲み込まれそうになるね」
きゅっと唇を引き結ぶ。さっき擦りむいた手のひらがヒリヒリし始めた。黙ったままのわたしを掬い上げるように迎井さんが言った。
「あれからどう? 体調は」
ハッとして姿勢を正す。
「その節は、ご迷惑をおかけしました。あんなこと初めてで、わたしも何が何だか。だけど、以前よりも体が軽い気がするんです」
「……そうなんだ」
迎井さんが、キャップとマスクを取った。美しい白銀の髪が日の下に晒される。彼は、自分の手のひらをわたしに向かって広げて見せた。
「手を見せて」
何となく手を広げたけど、迎井さんの眉間の小さな皺を見て、慌てて引っ込める。
「このくらい平気です、お気になさらず」
「裏庭にね、水道があるんだ。良かったら、そこで手を洗っていって」
「かすり傷ですから」
「傷は傷。バイ菌が入って、化膿することだってあるんだよ」
真剣な口調に、罪悪感が顔を出す。正体不明だとか、彼を危険人物扱いしていたことに。
わたしは擦り傷だらけの手のひらを握り、小さく頷いた。
「話があって、来ました」
顔を上げると、迎井さんはうっすらとした笑みを貼り付けていた。あの日と同じように、滑らかな動きで建物と塀の隙間を示す。
「じゃあ、立ち話もなんだから」
少し猫背になったシルエットがドアの奥に消えるのを待って、わたしは迷わず裏庭に向かった。




