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わたしが忘れた紅い花  作者: 出原ミサ
のばした手の先
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18/23

ー4ー

 インターフォンを鳴らすのは、勇気が要った。最近じゃ、人の家を訪ねるなんてそうそうないし。何度目かの深呼吸の後、素早くボタンを押し、身構えた。

 しかし、スピーカーから聞こえてくるのは、微かな雑音だけ。自分の鼓動が余計に高く響いて、そわそわと辺りを窺った。もう一度ボタンを押した。反応はない。

「待って。待って待って」

 指先が震えている。今日は逃げないと決めて来た分、急激に肩の力が抜けていく。

 お祖父さんの代から変わっていないと思われる、すり硝子の引き戸を見上げた。看板もない。予約時しか開かない。あの日のお礼を、だなんて、我ながら薄っぺらい口実だ。

 こめかみのあたりを、涼しい風が掠めていった。脱いで畳んだ仕事着と普段は持ち歩かないメイクポーチで、カバンが不格好に膨れている。

 朝からやり直せたらいいのに、全部。

「村主《すぐり》さん?」

「ヒャアッ」

 長いスカートの裾を踏んづけて、つんのめった。手をついて、敷石へ頭から突っ込むのは何とか回避したけど、恥ずかしくて顔が上げられない。さっきくぐり抜けてきた門の方から、駆け寄ってくる足音がする。

「大丈夫!?」

 目の前に手が差し出された。すらりと長い指だった。

「大丈夫です、大丈夫。全然……」

 押し留めるように、両手のひらを何度も突き出して、自力で立ち上がる。目線だけを少し上げると、以前と同じ白い上下に重ねたパーカーが見えた。片手には買い物袋がぶら下がっている。それから、いつもの彼からは想像できない音量で話しかけられた。

「怪我は!? 服、汚れてないかな? あ。それから……えっと……」

 さらに視線を上げると、迎井《むかい》さんは大きなマスク越しに自分の口を強く押さえていた。体が硬直し、キャップの下の瞳が所在なくさまよっている。

「こういう時、普通どうするのかな」

 ふぅっと、体温が戻ってきた。

「すみません。せっかく差し出してくれた手を、わたしが断ったから」

「いや、見よう見まねだから、正しいか分からなかったし」

 その言い方がおかしくて、思わず吹き出す。

「親切に、正しいも間違いもないですよ」

 彼はマスク越しに分かるくらい、頬を持ち上げた。

「そう。村主さんといると、こう、飲み込まれそうになるね」

 きゅっと唇を引き結ぶ。さっき擦りむいた手のひらがヒリヒリし始めた。黙ったままのわたしを掬い上げるように迎井さんが言った。

「あれからどう? 体調は」

 ハッとして姿勢を正す。

「その節は、ご迷惑をおかけしました。あんなこと初めてで、わたしも何が何だか。だけど、以前よりも体が軽い気がするんです」

「……そうなんだ」

 迎井さんが、キャップとマスクを取った。美しい白銀の髪が日の下に晒される。彼は、自分の手のひらをわたしに向かって広げて見せた。

「手を見せて」

 何となく手を広げたけど、迎井さんの眉間の小さな皺を見て、慌てて引っ込める。

「このくらい平気です、お気になさらず」

「裏庭にね、水道があるんだ。良かったら、そこで手を洗っていって」

「かすり傷ですから」

「傷は傷。バイ菌が入って、化膿することだってあるんだよ」

 真剣な口調に、罪悪感が顔を出す。正体不明だとか、彼を危険人物扱いしていたことに。

 わたしは擦り傷だらけの手のひらを握り、小さく頷いた。

「話があって、来ました」

 顔を上げると、迎井さんはうっすらとした笑みを貼り付けていた。あの日と同じように、滑らかな動きで建物と塀の隙間を示す。

「じゃあ、立ち話もなんだから」

 少し猫背になったシルエットがドアの奥に消えるのを待って、わたしは迷わず裏庭に向かった。

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