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外売り場に戻り、レジの所でうつ伏せになっていたバイトの子の肩を叩く。
「代わります。お疲れ様でした」
彼女は、今にも落ちてしまいそうな瞼で頷くと、左右に揺れながら休憩室の方へと歩いて行った。
狭くて身動きが取りづらい空間は、外から見ているだけでも汗が噴き出てくる。耐えきれなくなったら、店内の薬剤期限でもチェックしに行こう。そう思いながら小屋の中に入ったけど、妙に涼しい。
「……嘘でしょ」
なんと、部屋の隅には小さいけれど充電式の冷風機が置いてあった。
「こっちに最新式置くくらいなら、あっちの大型を先に何とかすればいいのに。あ、なるほど、こっちが先に壊れたのか」
腕を組んで冷風機の価値をはかっていると、微かに甘い香りがした。会計窓口から頭を出し、左右を確認する。そして、急いでプレハブを飛び出した。
「村主さーん」
わたしを呼びに来たスタッフの横を、頷きながらすり抜ける。妙な高揚感が湧いていた。誰に聞かなくたって、すぐに見つけられる。聞きたいことは、山ほどあるんだから。
「迎井さん!」
売れ残ったポット苗が並ぶ棚の前で、彼はいつも通りに微笑んだ。
それを見て、自分の無駄な意気込みが急に恥ずかしくなった。
「こんにちは。お久しぶりです、ネ……」
みっともない表情で笑い返す。
「見事な閑古鳥だなぁ」
「おかげさまで」
わたしは、体をもぞもぞと動かした。
来ようが来まいが、客側の勝手だ。何を一人で胸をざわつかせてたんだろう。
「ここのところ、忙しそうだったね」
「最近もいらしてたんですか?」
「いや。近くの老人ホームに出張した帰りに駐車場を見たら、連日満車で近寄れなかったから」
わたしは眉間の皺をゆるめた。
ランタナのポットに手を伸ばし、時間をかけて整列させる。横顔に痛いくらいの圧を感じて、いかにも今、思い出したかのように口を開いた。
「先日は、素敵な百日紅を見せていただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。あの花木も喜んでいたよ、すごく」
さらりと言ったひとことで確信した。あの美しさは、環境の良さだけじゃない。彼自身が、条件の一つになっているんだ。
「散ってしまう前に見られて、良かったです」
彼の半身をまんべんなく照らす日差しが、アスファルトに薄い色の影を作る。
「花の終わりは、何度経験しても慣れないね」
それはそうかもしれない。これからの季節、あの庭は一気に色褪せる。その時、目の前の瞳は何を映すのだろう。想像すると、胸が苦しくなった。
「冬咲きの花とか、植えないんですか?」
話すつもりのない言葉が滑り出た。顔を上げ、視線を合わせる。
「椿とか、蝋梅とか、華やかで良いですよ。ビオラなんかも可愛いですよね、色とりどりで。色んな種類を植えたら、季節ごとに咲いて。そうだ、木蓮って知ってます?」
迎井さんの表情が、ふっと抜け落ちた。気づいていたけど、なぜか口が閉じられない。まるで自慢するみたいに、滑らかに動いてしまう。
「うちにも鉢であるんです。白い花の咲く種類なんですけど。夏は艶のある葉っぱが美しくて、落葉したら光る蕾が幻想的で。初春に咲くビロード生地みたいな花びらは……」
「好きなの?」
わたしの言葉を弾き返すような言い方に、ハッと我に返った。感情を伴わない色の目が、じっとこちらを見ている。
「はい、昔から。でも、そんな大層な話じゃ」
受け取る視線は、まとわりついて取れない、蜘蛛の糸を連想させた。息が詰まる。
「木蓮は高木ですし、結構お庭の幅も取りますし、花がつくまで数年単位ですから、絶対にお勧めという訳じゃないんです。たまたま、うちにあるってだけの話で……」
突然、迎井さんが長身を二つに折り、広い肩を震わせ始めた。
「え?」
ぽかんと口を開けたわたしを横目に、彼はアハハとお腹を抱え、しまいには目尻を指で拭いだした。さっきの表情は何だったんだ? 感情の落差についていけない。
「必死だなぁ」
呟かれたひと言に、たちまち口がへの字になる。わたしなりに一生懸命提案したつもりだったのに。
「それは失礼しました。出過ぎた真似をいたしました!」
「違うんだよ。ぼく自身がね、何を言ってるんだろうって。最近、たまにあるんだ。それが可笑しくて」
わたしは口を元の形に戻して、滲んだ額の汗を拭った。
「迎井さんって、そんなふうにも笑うんですね」
身を起こし、笑いを消しきれない様子で首を傾げる。
「毎回、足が地面にくっついてるか確認してたんです」
「ぼくを幽霊か何かだと思ってた?」
「幽霊、ではないけど、この世に存在するかわからない、何か」
「それって、幽霊だよね」
確かに。腕を組んで考え込むと、迎井さんは再び身をよじった。妙に安心した。彼はこう見えて、案外、普通の人なのかもしれない。
「ぼくは、何でもない人間だよ」
穏やかさを崩さない彼の声が、単調なリズムを刻む。
「何の力も持たない、ただのニンゲン」
説得力のない台詞に、エプロンの裾をしっかり掴んだ。危うく流されるところだった。
「あの――」
その時、背後でガタガタッと大きな音がした。出かかった言葉を飲み込んで振り返ると、大型扇風機が首を不自然に軋ませて左右に揺れている。
「あー、もう、やっぱり」
大げさに肩をすぼめる。そそくさと現実に背を向け、いつものように首の位置を調整しようと扇風機に触れると、モーター部分からうっすらと白い煙が見えた。
慌てて手を離す。気づけば、プラスチックの溶けた匂いが充満していた。ドクンと心臓が跳ねた。配線が焼き切れたのか。煙の隙間に、バチッと弾ける火花を見た時、足元で見えない何かが爆ぜた。
なぜか、知っている感覚だった。
体が硬直する。
すぐそこで喋る迎井さんの声が、パチパチと焚き火が弾けるような音に変わっていく。
「熱い……」
浴びていたはずの残暑の熱気が、足元へと移動していた。それはまとわりつきながら這い上がり、じりじりと皮膚を焼いていく。暑さではない、滲みるような火傷の痛みだと悟った。
逃げなきゃ。
しかし、足は根づいたように動かない。気づけば、ランタナの花びらが真っ赤に染まっていた。
違う。
染まっているのは、わたしの方だ。
艶やかな炎が全身を包んで、空高くはためくのを目にした。
助けを求めて手を伸ばす。その手は炭化した枝になっていた。もう片方の腕を見る。樹皮を纏った指先が、チリチリと焼けている。目が痛くなるほどの酸っぱい匂いが立ち込める。
これは、夢?
目を見開くこと以外、できなかった。炎の向こうでは、必死な面持ちで何かを訴えている迎井さんの顔が、ゆらりゆらりと揺らめいている。熱さで首が曲がった。宙に視線を這わせる。パキッと音を立てて、体のどこかから黒い炭が落ちていき、アスファルトの中に消えていった。
わたしは死ぬのね。
と、頭のどこかでわたしが思った。
仕方がない。わたしがここに立っていたのだから。
ひどい痛みに意識が遠のいていく。ぼんやりとしながらも、強い思いが湧いてくる。
だめ。このまま朽ち果てては。守らなきゃ。大事なものたちを……。
しかし、やがて何も感じなくなり、視界が上下左右から閉じるように霞んでいった。
あぁ、これは夢じゃない。
記憶だ。
膝がくずおれた瞬間、生身の温もりがわたしを支えた。炎をかき消すような力強い声に、風の音が舞い戻ってくる。
「大丈夫」
声は言った。
「きみは村主コウだ。熱くない。どこも燃えていない」
わたしは、燃えていない。
まぶたに初秋の太陽が当たって、じんわり温かかった。背中には硬いアスファルトの感触があった。未だ動きづらい指先に力をこめると、第一関節がやんわり曲がった。
何で、知っているの? わたしが燃えていたこと。
聞き取れないほど語尾を震わせて、迎井さんは言った。
「ごめん、熱かったね……もう二度と……」
もう二度と、何だろう。
声が遠のく。光が散っていく。ただ、胸を強く穿つ音の余韻だけが残っていた。
紅い雨が降る。
炎を包み込む。
大丈夫、大丈夫よ。熱くないわ。
ふと足元を見る。
辺りには、小さなフリルの紅い花びらが散らばっていた。




