ー6ー
一帯を艶やかに染める紅。豪快にうねる樹幹から、四方に広がる枝葉。その姿に圧倒されて、わたしはただ立ち尽くした。落ちた花びらが足元に集い、靴を覆う。
「綺麗でしょう」
振り返ると、迎井さんがいた。
「驚かせた?」
「すみません、なんか、すごくて……」
大きく息を吐く。迎井さんが縁側を示し、足元が定まらないまま腰を下ろした。もらった麦茶に口をつける。心地よい温度が体の内側を上から下へと冷やしていく。庭に面したここは、まさにこの木を愛でるために造られたようだった。
「どんな手入れをされてるんですか?」
「特に、変わったことはしてないよ。祖父を真似て、伸びすぎた枝を切るくらい。しっかり根を張ってるんだって、祖父がよく言っていたな」
脚立を使って枝切りバサミを扱う迎井さんを想像した。チグハグ過ぎて、頬が少し緩んだ。
「それにしても、すごい見応えです。仕事柄、色々見てきましたけど、一番かもしれません」
尻込みしていた気持ちなんてすっかり忘れて、勢い込む。
「木が喜んでるのが分かるんです。きっと、迎井さんのことを好きなんだと思います。植物って、わたしたちのかけた愛情に応えてくれますから」
「うん、ぼくもそう思う」
彼は隣に間隔を空けて座り、氷の音を響かせながら麦茶を飲んだ。広い庭には、この木以外何も植えられていない。迎井さんの横顔は、百日紅と並んで庭のシンボルのように馴染んでいた。
「懐かしいな」
ポツリと声が聞こえた。
懐かしい……お祖父さんとの思い出だろうか。
彼は続けた。
「夏は少し苦手なんだけど、きみとこうやって並んでいられるのなら、悪くないかもと思ってしまうね」
眉をひそめる。さらりと言った言葉が、人を惑わすことだってある。
「そういうこと、軽々しく言っちゃいけないと思いますよ」
迎井さんがこちらを見た。いつも以上に普段通りの笑顔が、そこにあった。喋りすぎた口をつぐみ、目線を落とす。
足元にあったはずの花びらは、迎井さんの足元に集まっていた。白い制服のズボンが、花の色を反射して染まって見える。不思議と、紅がよく似合っていた。
「きみは夏が好きでしょう」
「何で知ってるんですか」
「……あぁ」
横を見ると、彼はわたしをじぃっと見て視線を逸らした。体の中が揺さぶられる。耳を塞いだ。うるさくて仕方がない。
「あのっ、こんなにすごい百日紅を見せていただいて光栄なんですけど!」
自分の声で蓋をするように、音量を上げる。
「この隣に植えるのも、百日紅ですよね! 最近は色ひとつとっても、たくさんあるんです。ベーシックなものをご希望なのは承知なんですけど、参考になれば。うちで毎年人気なのはこれです」
少しの隙間も明け渡さないよう、スマホに保存しておいた写真を迎井さんに見せて、喋り続けた。
「ブラックパールっていうんです。葉が黒くて、花が散った後も楽しめる品種で。この葉っぱがすごく綺麗なんです」
画面をスライドさせて、見やすいように迎井さんに体を寄せる。
「拡大して見ていただいても構いません。実物をお見せできないのは残念ですが。あぁ、でも矮性種だから。これだけ広いお庭だったら、高性種の方が映えますよね」
「そう」
甘い香りが濃厚になり、ハッと我に返る。
柔らかい笑みが目の前にあった。あの時みたいに、体が麻痺して動かなくなる。
「きみの髪色みたいだね」
彼の指がわたしの髪に触れた。まるで葉の表面をこするように、幾度も撫でる。そして、息がかかるほど顔を寄せ、じっくり観察してから言った。
「綺麗だ」
蝉の声がクリアに聞こえた。だけど、ここではないどこかで聞いた、蝉の声だった。百日紅の葉音と、何かの花木の葉音が重なる。
涙が伝った。わたしには、覚えのない涙だった。
迎井さんが大きく目を見開いた。唇を震わせ、頬を紅潮させ、心底嬉しそうに笑う。それから、小さな声で名前を呼んだ。
わたしじゃない、何かの名前を。
「こんにちはー、ごめんくださーい」
突然聞こえてきた第三者の声に、ヒュッと喉が鳴った。迎井さんが顔を逸らして家の中に向かって声を張る。
「はーい、お待ちくださーい」
彼は、側に置いてあったタオルを額から頭に巻くと、顔を半分覆うくらいのマスクをつけた。
「次のお客さま、少し早めにいらしたみたいだ」
ゆっくりと立ち上がり、いつもの穏やかな笑顔を添える。
「好きなだけいてくれていいよ。施療中は出られないし、帰る時も声かけは要らないから」
ひらひらと振る指先が縁側から消えた後、訳も分からず涙の跡を拭った。そして、肩にかかる髪先を掴んだ。
「なに……」
次の瞬間、一生分の感情を、早回しで再生させたような思いが流れ込んできた。体の輪郭が溶けていく感覚が蘇り、うずくまる。
「なにこれ……誰の……」
風が吹いた。
視線の先を、フリルの花びらがいくつか、ころころと転がっていった。




