後編
後編
「――エレノア」
庭園の薔薇が、夕暮れの風に揺れていた。エレノアが振り返る。
「ルシアン殿下」
いつもの呼び方。いつもの丁寧な礼。けれど、その日だけはルシアンはいつものように笑うことができなかった。
「少し、お時間をいただけますか」
「もちろんでございます」
二人で庭園を歩く。幼い頃から何度も歩いた道だった。
けれど、十九歳になったルシアンの隣を歩くエレノアは、もうあの頃とは違う。
そしてルシアン自身も。もう五歳の少年ではない。
「お話というのは?」
「……僕とエレノア様のことです」
エレノアが足を止める。
「はい」
「僕たちは、運命の番だそうです」
一瞬。風の音だけが聞こえた。
「……そうでしたか」
エレノアの返事は、驚くほど静かだった。
「驚かれませんか?」
「驚いております」
「……それだけ?」
「それ以上、何を申し上げればよいのか……」
ルシアンは苦笑した。やっぱり。彼女は、こういう人だ。
自分にとっては世界が変わるほどの出来事なのに。エレノアは、ただ静かに受け止めている。
「僕は、ずっと知りませんでした」
「はい」
「でも……」
ルシアンはエレノアを見る。
「五歳のときに初めてあなたに会った瞬間から、あなたが特別でした」
「……」
「あなたが他の人と話していると嫌だった。あなたが帰ってしまうと寂しかった。あなたに褒めてもらえると嬉しかった」
少し笑う。
「今思えば、最初からだったんでしょうね」
「ルシアン殿下……」
「でも」
ルシアンは、そこで言葉を止めた。
「運命だから、僕を選んでほしいとは思っていません」
エレノアが目を見開く。
「僕は、あなたに――僕自身を見てほしい」
それが。ルシアンにとって一番大切なことだった。
「Ωだからではなく」
「……」
「第三王子だからでもなく」
「はい」
「ただの僕を、好きになってほしいんです」
エレノアは長い間、何も言わなかった。
やがて。
「……ずいぶん、大きくなられましたね」
そう言って笑った。ルシアンは少しだけ眉を下げる。
「まだ子供だと思っていますか?」
「いいえ」
エレノアは首を横に振った。
「もう、そうは思っておりません」
その言葉だけで。ルシアンの胸が大きく鳴った。
*
それから二人の距離は、少しずつ変わっていった。エレノアは相変わらず、王子であるルシアンを敬っていた。
人前では必ず「殿下」と呼ぶ。礼もする。けれど。二人きりになると。
「ルー」
昔の呼び方に戻る。
「……その呼び方、ずるいです」
「どうして?」
「子供の頃を思い出してしまいます」
「ふふ。昔はよく私のところへ走っていらっしゃいましたもの」
「……今だって行きたいですよ」
「まあ」
「あなたが呼んでくださるなら」
ルシアンはエレノアの隣に座った。肩が触れる。昔なら、それだけで嬉しかった。今は、もっと近くにいたい。
「疲れていらっしゃいますか?」
「少しだけ」
「では、こちらへ」
エレノアが自分の肩を示した。ルシアンは一瞬、目を瞬いた。
「……いいんですか?」
「もちろんです」
少し迷ってから、ルシアンは彼女の肩に頭を預けた。
「……落ち着きます」
「そうですか」
「昔から」
「知っています」
エレノアの手が、銀色の髪をゆっくり撫でる。ルシアンは目を閉じた。
五歳の頃。
自分を守ろうとする大人たちの中で、エレノアだけが自分を特別扱いしなかった。
今、彼女は自分を大切にしてくれる。
王子として。Ωとして。そして、一人の男として。
「……エレノア」
「はい」
「もう少し、このままでいてください」
「ええ」
髪を撫でる手が、もう一度優しく動く。ルシアンは小さく笑った。ずっと欲しかったものは。案外、こんなにも静かなものなのかもしれない。
*
けれど。ルシアンの独占欲まで、静かになったわけではなかった。ある晩。
王宮の夜会で、エレノアが一人のΩの青年と話していた。
相手は侯爵家の嫡男。
エレノアと年齢も近く、社交界でも評判の青年だった。
ルシアンは少し離れたところから、その様子を見ていた。笑っている。エレノアが。自分以外の男と。
胸の奥がざわつく。
「殿下?」
側にいた侍従が声をかける。
「……なんでもありません」
そう答えた直後。
「エレノア」
ルシアンは彼女のもとへ歩いていった。
「殿下」
エレノアが振り返る。
「お話中、失礼いたします」
完璧な王子の微笑み。
「少し、お時間をいただけますか?」
「もちろんでございます」
エレノアは自然に彼の隣へ来た。その瞬間。ルシアンの胸が少しだけ軽くなる。けれど、それだけでは足りなかった。
「……あの方と、親しいのですか?」
「先ほどの方ですか?」
「はい」
「何度かお話ししたことがございます」
「そうですか」
エレノアは、じっとルシアンを見る。
「嫉妬なさっていますか?」
「……」
「ルー?」
「……しています」
あっさり認めた。
「とても」
エレノアは少し驚いたあと、笑った。
「まあ」
「笑わないでください」
「申し訳ございません」
「僕は本気です」
「存じております」
エレノアが手を伸ばす。そして、人目につかないように、そっとルシアンの指先に触れた。
「ですが、ご安心くださいませ」
「……」
「私は、あなたの隣におりますから」
その一言で。ルシアンは、それ以上何も言えなくなった。
*
その夜。二人きりになった庭園でルシアンはエレノアの手を取った。
「エレノア」
「はい」
「僕は、あなたが好きです」
何度も言葉にしてきた。けれど、今夜は違った。
「運命の番だからではありません」
エレノアを見る。
「五歳のときから、ずっと」
「……」
「あなたが僕を普通の子供として見てくれたから」
指を絡める。
「僕がΩだからではなく、王子だからでもなく」
「はい」
「僕自身を見てくれたから」
ルシアンは微笑む。
「だから僕は、あなたが好きです」
エレノアは何も言わない。ただ、握った手を握り返した。
「……ルシアン」
初めて名前を呼ばれた。王子としてではなく。一人の男性として。
「私は、あなたをとても大切に思っています」
「はい」
「あなたが幼かった頃から」
「……はい」
「ですが」
エレノアは少しだけ頬を赤くした。
「今はもう、それだけではないのだと思います」
ルシアンは息を呑んだ。
「それは……」
「はい」
エレノアは微笑む。
「私も、あなたをお慕いしております」
世界が止まったようだった。長い間。ルシアンは何も言えなかった。ただ、彼女の手を握りしめる。
「……本当に?」
「はい」
「運命だからではなく?」
「もちろんです」
「僕だから?」
「ええ」
その答えを聞いた瞬間。ルシアンは初めて、安心したように笑った。
「……よかった」
そして。エレノアをそっと抱きしめる。幼い頃にはできなかった抱擁。守られるだけだったΩの王子が今は自分の腕で、愛する人を抱きしめている。エレノアもまた、彼の背に腕を回した。
「ルー」
「はい」
「本当に、大きくなられましたね」
「……まだそれを言うんですか」
少し拗ねた声。エレノアは笑った。
「ふふ」
「僕はもう、あなたを守れます」
「知っています」
「あなたを幸せにしたい」
「……はい」
「だから」
ルシアンは彼女を見つめた。
「僕を、あなたの番にしてください」
エレノアは静かに頷いた。
「喜んで」
その言葉に。ルシアンは目を細める。
そして、そっと彼女の唇に口づけた。短く。
けれど、今までのどんな約束よりも確かな口づけだった。
離れたあと二人はしばらく見つめ合った。
「……エレノア」
「はい」
「もう、逃がしませんから」
「まあ」
「覚悟してください」
「ふふ。存じております」
エレノアは笑った。その笑顔を見てルシアンも笑った。
五歳のあの日。庭園で初めて彼女を見つけたときから。
ずっと欲しかったもの。それは彼女を自分のものにすることではなかった。
彼女自身に自分を選んでもらうことだった。
そして今ようやく、その願いが叶った。
――運命の番だからではない。
エレノアが、自分を選んでくれた。それだけでルシアンには、十分だった。
……けれど。これから先。彼女を思う存分甘やかして。自分も思う存分甘えて。
二人だけの時間を重ねていくことくらいは、許されてもいいだろう。
夜の庭園に、薔薇の香りが漂っていた。幼い日に交わした約束は長い年月を越えて。ようやく、大人の二人のものになった。




