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後編その後





夜の王宮は静かだった。

昼間なら多くの侍女や侍従が行き交う廊下も、今はほとんど人の気配がない。

エレノアは自室の窓辺に立ち、夜空を眺めていた。

そのとき。


「エレノア」


振り返る。扉の前に、ルシアンが立っていた。


「殿下?」


「……今夜だけは、名前で呼んでください」


いつもの穏やかな微笑みとは違った。どこか緊張している。エレノアは小さく笑った。


「どうなさいました、ルシアン様」


「……それも少し違います」


「では?」


「ルー、と」


幼い頃と同じ呼び方。エレノアの胸が、少しだけ温かくなる。


「……ルー」


その一言でルシアンの表情が柔らかくなった。


「ありがとうございます」


彼はゆっくりと部屋へ入ってくる。


「今日は、帰りたくなくて」


「まあ」


「困りますか?」


「いいえ」


エレノアは首を横に振った。


「あなたがここにいたいのでしたら」


「……本当に?」


「はい」


ルシアンは、ほっとしたように息を吐いた。そして、エレノアの前まで歩いてくる。近い。昼間なら、こんな距離にはならない。けれど今は二人きりだった。


「エレノア」


「はい」


「……触れてもいいですか?」


その声があまりにも真剣で。エレノアは微笑んだ。


「ええ」


ルシアンの手が、そっと彼女の頬に触れた。指先が震えている。


「緊張していらっしゃるのですか?」


「……しています」


「意外ですね」


「あなたのことになると、昔からそうです」


エレノアは少しだけ目を細める。そして、自分から彼の手に頬を寄せた。


「では、安心してくださいませ」


「……はい」


ルシアンが顔を近づける。ほんの一瞬唇が触れた。

けれど離れたあと、二人とも何も言わなかった。


「……もう一度」


ルシアンが小さく呟く。


「はい」


二度目の口づけは、先ほどより長かった。エレノアの腕が、彼の背に回る。その瞬間、ルシアンが小さく息を呑んだ。


「エレノア……」


「どうしました?」


「嬉しいです」


その声が、あまりにも素直だった。王子として振る舞うときの彼ではない。幼い頃、庭園で彼女を見つめていた少年のまま。ただ好きな人に抱きしめてもらえたことを喜んでいる。エレノアは彼の銀色の髪を撫でた。


「ふふ。可愛い方」


「……それは、今言わないでください」


「どうして?」


「僕はもう、子供ではありませんから」


少し拗ねた声。エレノアは笑った。


「存じております」


そう言って、今度はエレノアから彼の頬へ口づける。

ルシアンが目を見開いた。


「……エレノア?」


「お嫌でしたか?」


「まさか」


すぐに返ってきた答え。ルシアンは彼女を抱き寄せる。強く。けれど、決して壊さないように大切に。


「ずっと、こうしたかった」


「……はい」


「あなたに触れたかった」


「ええ」


「あなたに、僕だけを見てほしかった」


エレノアは彼の背中を優しく撫でる。


「……あなたを見ていますよ、多分。自分でも自覚のない頃から」


その言葉に。ルシアンは目を閉じた。長い間、欲しかった言葉だった。彼女の肩に顔を埋める。


「……幸せです」


「私もですよ」


しばらく、二人は何も言わなかった。ただ互いの温もりを確かめるように抱きしめ合う。やがてルシアンが顔を上げた。


「エレノア」


「はい」


「今夜、そばにいてもいいですか?」


エレノアは彼の瞳を見つめた。そこにあるのは、幼い頃から変わらない一途な想い。そして今は一人の男性としての愛情も宿っている。


「ええ」


静かに頷く。


「朝まで、そばにおります」


ルシアンは嬉しそうに微笑んだ。もう一度、唇が重なる。

その夜。二人は初めて、互いの距離を完全になくした。言葉よりも確かな温もりを分け合いながら。

幼い日に交わした約束を、今度は大人になった二人のものへと変えていった。


*


翌朝。

薄い朝陽が、カーテンの隙間から差し込んでいた。

エレノアが目を覚ます。隣には、ルシアンがいる。彼はまだ眠っていた。

いつもの完璧な王子の姿とは違う。少しだけ髪が乱れていて。穏やかな寝顔をしている。エレノアは思わず微笑んだ。


「……本当に、可愛い方」


すると。


「……聞こえています」


「起きていたのですか?」


「今、起きました」


ルシアンが目を開ける。そして、エレノアを見るなり。嬉しそうに笑った。


「おはようございます」


「おはようございます、ルー」


その呼び方に。ルシアンは満足そうに目を細めた。


「……もう一度、呼んでください」


「ルー?」


「はい」


彼はエレノアの手を取った。


「これからも、ずっとそう呼んでください」


「ええ」


エレノアは微笑む。


「ずっと」


ルシアンはその手を握りしめた。五歳の誕生日に出会った少女。ずっと追いかけてきた人。

運命の番。

それ以上に大切な――自分が選んだ人。


「エレノア」


「はい」


「僕は、あなたを一生大切にします」


「私も、あなたを大切にいたします」


朝の光の中。二人は静かに笑い合った。長い年月を越えた二人の物語は。


ここから、本当の意味で始まった。

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