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中編



中編


あの日からエレノアは王宮を訪れるたび、ルシアンのもとへ顔を出すようになった。


最初はほんの少しの時間だった。

庭園で花を眺めたり、王宮の図書室で本を読んだり。

時には、まだ幼いルシアンのために菓子を持ってきてくれることもあった。


「殿下、お久しぶりでございます」


「エレノア!」


彼女の姿を見つけると、ルシアンはすぐに駆け寄る。

けれど、侍従や侍女の視線を思い出すと、途中で足を止める。王子らしく。そう教えられてきたからだ。


「……お久しぶりです」


少しだけ背筋を伸ばして言い直す。エレノアはそんなルシアンを見て、ふっと笑った。


「ええ。お元気そうで安心いたしました」


「うん」


「お誕生日以来ですね」


「……うん」


ルシアンは、少しだけ俯いた。本当はもっと会いたかった。毎日でも会いたかった。けれど、そんなことを言えば困らせるかもしれない。だから言わなかった。代わりに。


「今日も、一緒に庭を見てくれる?」


「もちろんでございます」


エレノアはいつもそう答えてくれた。その言葉だけで、ルシアンは嬉しかった。

――この人は、約束を守ってくれる。

それが、幼いルシアンにとって何よりも大切だった。


*


十歳になった頃。

ルシアンは以前よりずっと背が伸びていた。王子としての教育も厳しくなり、剣術や帝王学、礼儀作法。

Ωとしての身体について学ぶ時間も増えた。王家では、ルシアンのために特別な護衛制度まで設けられた。

首元には、王族Ωのために作られた黒革と金細工の首輪。

外部から不用意に噛まれることを防ぐための、重く丈夫なものだった。誰も悪意を持ってはいない。

だからこそ、ルシアンは何も言えなかった。それを身につけていると、自分が守られるべき存在なのだと思い知らされる。


そんなある日。


「ルー」


庭園でエレノアが声をかけた。今では二人きりのときだけ、彼女はそう呼ぶようになっていた。


「エレノア」


「今日は少し元気がないように見えますが」


「……そう?」


「はい」


ルシアンは首元に触れた。


「これが嫌なんだ」


重苦しく、自分を守るための特別に誂えられた首輪。エレノアはすぐには何も言わなかった。


「重い?」


「……うん」


「そうですか」


エレノアはそれだけ言った。そして、少し考えてから続けた。


「ですが、殿下がお嫌なら、いつかご自分で決められるようになるのではないでしょうか」


「……僕が?」


「はい」


「僕に決められる?」


「殿下は王子でいらっしゃいますもの」


当然のように言われて、ルシアンは顔を上げた。エレノアは笑っている。


「守られるだけの方ではございません」


その言葉が、胸に残った。みんなはルシアンを守ろうとする。けれどエレノアだけは。守られるだけの存在として、自分を見なかった。

その日から、ルシアンは少しずつ変わっていった。自分の足で立てる王子になろうと思った。

いつか、誰かに守られるのではなく。自分が大切な人を守れるように。

――エレノアを守りたい。そう思った。



*



エレノアが十四歳になった頃。ルシアンは十歳。

以前のように、庭で花を眺めているだけでは物足りなくなっていた。


「エレノア」


「はい、殿下」


「僕、もっと剣を上手くなります」


「まあ」


「大きくなったら、あなたを守ります」


エレノアは目を丸くした。


「私を、ですか?」


「うん」


「ありがとうございます」


エレノアは嬉しそうに微笑んだ。けれど、その笑顔にはどこか姉が弟を見るような優しさがあった。それが、ルシアンには少しだけ不満だった。


「……笑わないで」


「申し訳ございません」


「僕、本気です」


「はい。存じております」


「本当に?」


「ええ」


エレノアは、ルシアンの頭にそっと手を置いた。


「立派な王子様になってくださいませ」


ルシアンは黙った。その言葉が嬉しいのに。なぜか、少し寂しかった。

――僕はもう、子供じゃない。そう言いたかった。

けれど、まだ言えなかった。


*


さらに数年が過ぎた。

十五歳になったルシアンは、もう「可愛らしい第三王子」と呼ばれることは少なくなっていた。

銀色の髪は長くなり、顔立ちも整っている。王族らしい気品も身についた。人前では、いつでも穏やかに微笑む。

けれど、エレノアの前だけでは、昔の少年に戻った。


「エレノア」


「はい、殿下」


「今日もお綺麗ですね」


「ありがとうございます」


「……」


「どうかなさいました?」


「いえ」


ルシアンは微笑んだ。以前なら、褒められれば嬉しそうに笑っていたエレノア。今では、社交界でも名の知られた美しい令嬢になっている。

当然、彼女の周りにはΩの青年たちが増えていった。

それが嫌だった。理由はまだ、自分でもよく分からない。

ただエレノアが他のΩと話していると、胸の奥がざわつく。彼らが彼女を見る目が嫌だった。あの目を、ルシアンは知っている。自分がΩとして見られていたときと同じ目。欲しいものを見つめる目。値踏みする目。

だから、エレノアに向けられるそれが許せなかった。


「……あの方とは、親しいのですか?」


「先ほどの方ですか?」


「はい」


「以前から何度かお話ししたことがございます」


「そうですか」


「殿下?」


「……なんでもありません」


笑っている。けれど。その日からルシアンは、少しずつエレノアのそばにいる時間を増やした。

会える日は必ず会いに行く。手紙を書く。彼女の好きな花を送る。誕生日には必ず贈り物をする。それが当然になった。

エレノアは、それを幼い頃から変わらない「懐かれ方」だと思っていた。けれど。ルシアンの中では、もう違っていた。これは、ただの憧れではない。もっと深い。もっと重い。自分でも名前をつけられない感情だった。


そして。ルシアンが十九歳になった。エレノアは二十四歳。五年という年齢差は、幼い頃には大きかった。

けれど今では。並んで歩けば、誰もが一組の成人した男女として見る。ルシアン自身も、もう子供ではなかった。王族としての立場を理解し、Ωとしての自分の価値も理解している。そして何より。エレノアへの気持ちを、もう誤魔化せなくなっていた。


ある日のこと。

王宮で、エレノアと二人で庭を歩いていた。


「殿下」


「はい」


「最近、お疲れではございませんか?」


「そう見えますか?」


「少しだけ」


エレノアは昔と変わらない。王子として敬い。けれど、ルシアン自身を見ている。そのことが、何より嬉しい。


「……エレノア」


「はい?」


「もし僕が、あなたにお願いをしたら」


「はい」


「聞いてくださいますか?」


「内容によります」


即答だった。ルシアンは思わず笑った。


「相変わらずですね」


「何がでしょう?」


「いえ」


そして、少しだけ真剣な顔になる。


「僕が、あなたのそばにいたいと言ったら?」


エレノアは目を瞬いた。


「今も十分おそばにいらっしゃいますが」


「そういう意味ではなくて」


言葉が詰まる。この人に。自分の気持ちを伝えたい。

けれど、そのときだった。


「殿下」


王宮医師の声が響いた。ルシアンは振り返った。


「陛下がお呼びです」


「……分かりました」


嫌な予感がした。医師の表情が、いつもと違う。


「エレノア」


「はい」


「少し行ってきます」


「承知いたしました」


エレノアに見送られ、ルシアンは王宮の奥へ向かった。


*


国王の執務室。

そこには王宮医師だけではなく、王家に仕える魔術師まで揃っていた。


「何かあったのですか?」


ルシアンが尋ねると、医師が深く頭を下げた。


「殿下。長らく確認を続けておりました、Ω特有の魔力反応についてですが……」


「はい」


「先ほど、確定いたしました」


ルシアンは黙って続きを待った。


「殿下には――」


医師は一度言葉を切った。


「運命の番がおられます」


胸の奥が、強く鳴った。運命の番。聞いたことはある。

αとΩの間に、ごく稀に存在すると言われる特別な相手。

一生に一人。魂に近いところで結びつく、唯一の存在。


「……誰ですか」


ルシアンの声は、わずかに震えていた。医師が答える。


「ヴァレンティア侯爵令嬢――」


その瞬間、息が止まった。


「エレノア・ヴァレンティア様です」


 ――ああ。そうだったのか。

ルシアンは目を閉じた。不思議と驚かなかった。むしろ。ようやく分かった、という感覚だった。

初めて会った五歳のあの日。彼女を見た瞬間に感じた、あの温かさ。他のαには感じたことのない安心。離れたくないと思った理由。ずっと会いたかった理由。彼女が誰かと話しているだけで、胸が苦しくなった理由。全部。最初から。


「……エレノア」


小さく名前を呼ぶ。すると胸の奥が、また熱くなった。

運命の番。

ずっと探していたわけではない。探す必要すらなかった。

最初から。あの日。誕生日の庭園で。彼女はそこにいた。

そして、自分は彼女を見つけた。


「……そうだったんですね」


ルシアンは、静かに笑った。嬉しい。嬉しくて仕方がない。けれど同時に。ひどく怖かった。この事実を知ったからといって。エレノアが自分を同じように想ってくれるとは限らない。

運命は、彼女の心まで決めてくれるわけではない。

だからこれは、まだ始まりなのだ。ルシアンは立ち上がった。


「エレノアに、このことを?」


「まだお伝えしておりません」


「……そうですか」


ルシアンは窓の外を見る。庭園。幼い頃、二人で何度も歩いた場所。あの日と同じように、白い薔薇が咲いている。

ルシアンは静かに微笑んだ。


「僕から、伝えます」


五歳のあの日。ただ、彼女のそばにいたかった。

十九歳になった今。願いは、もう一つ増えている。

――僕の人生を、あなたと歩きたい。

けれど。それを決めるのは、運命ではない。エレノア自身なのだ。だからルシアンは。初めて、自分の運命を知ったその日。彼女に選ばれるために生きようと、そう決めた。

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