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前編

オメガバースは添え物程度です。すみません。


前編

 

第三王子ルシアン・アルヴェルディの五歳の誕生日ために、王宮では盛大な祝宴が開かれていた。

大広間には白薔薇と青いリボンが飾られ、天井から吊るされた無数の燭台が、昼間だというのにきらきらと輝いている。

楽師たちが奏でる穏やかな音楽。着飾った貴族たち。

王族の誕生日を祝うために集められた、大勢の人々。


その中には、ルシアンと年齢の近い子供たちの姿もあった。侯爵家、伯爵家、辺境伯家。いずれも王家と縁の深い家の子供たちだ。

そして、そのほとんどが――αだった。


「第三王子殿下、お誕生日おめでとうございます」


「ありがとうございます」


「お目にかかれて光栄です、殿下」


「こちらこそ」


「殿下が健やかにご成長されますよう、お祈り申し上げます」


「ありがとう」


ルシアンは笑っていた。

教えられた通りの角度で頭を下げ、教えられた通りに微笑む。言葉遣いも間違えない。王子として、何一つ恥ずかしくない振る舞いをしている。

けれど。

小さな手は、膝の上でずっと握りしめられていた。


――苦しい。


五歳のルシアンには、それ以上うまく言葉にできなかった。今日は自分の誕生日だ。それなのに、朝からずっと息が詰まっている。理由は分かっていた。


自分が、Ωだからだ。


アルヴェルディ王家は、αの血が濃い。歴代の王も、王妃も、その子供たちも。王族にはαが多く、Ωが生まれること自体が珍しかった。ましてや王子。ルシアンは、王家にとって珍しい存在だった。


誰も彼を蔑んではいない。むしろ、その逆だ。大切にされている。大切にされすぎている。


「殿下、そちらへお進みになる際は私が」


「段差がございますので、お気をつけくださいませ」


「お疲れではありませんか?」


「殿下、お一人で歩かれませんよう」


何をするにも誰かがいる。転ばないように。怪我をしないように。誰かに傷つけられないように。誰かに利用されないように。

Ωであるルシアンを守るために。


みんなが必死だった。それが嫌なわけではない。守ってもらえることがありがたいのも分かっている。

けれど――。


「殿下の将来のためにも、良いお相手を見つけなければなりませんな」


ふと、近くでそんな声が聞こえた。

ルシアンは顔を上げた。


「ええ。今回のお茶会は、その意味でも重要でしょう」


「まだお小さいとはいえ、王家のΩともなれば……」


そこから先は聞きたくなかった。ルシアンは目を伏せた。

今日、同年代のαの子供たちが集められた理由を、幼いながらに理解している。これは自分の誕生日を祝うためだけのパーティではない。

自分を守ってくれる人。将来、自分の婚約者になるかもしれない人。その候補を探すための場でもある。

だから、みんな自分を見る。王子として。Ωとして。そして――将来の婚約者として。

視線を感じるたびに、胸の奥がざわざわした。相手が嫌いなわけではない。怖い顔をされているわけでもない。それでも、なぜか怖かった。


αの人たちといると、いつもどこかで思ってしまう。――僕を見ているんじゃない。

――Ωの王子を見ている。そんな気がしてならない。


「……少し、庭へ出てもよろしいでしょうか」


ルシアンがそう言うと、側にいた侍従がすぐに頭を下げた。


「もちろんでございます、殿下。ただ、護衛を――」


「……うん」


断ることはできない。結局、数人の護衛を連れて、ルシアンは大広間を出た。廊下を抜け、庭園へ。

扉が閉まった瞬間。


「……ふぅ」


ルシアンは小さく息を吐いた。静かだった。


大広間の音楽も、人々の話し声も、ここまでは届かない。

春の風が頬を撫でる。色とりどりの花が咲いている。


ルシアンは護衛たちに「少し一人になりたい」と告げ、庭園の奥へ歩いていった。

もちろん、護衛は少し離れた場所から見守っている。それでも、大広間よりはずっと楽だった。


「……疲れた」


誰もいないと思って呟いた、そのときだった。


「――まあ」


後ろから声がした。ルシアンはびくりと肩を揺らして振り返った。そこに、一人の少女が立っていた。


淡い金色の髪。白を基調とした淡い青のドレス。胸元には小さな宝石が飾られている。年齢は、ルシアンよりも少し上くらいだろうか。

少女はルシアンと目が合うと、すぐにドレスの裾をつまんだ。


「ご休憩中失礼いたしました、殿下」


綺麗な礼だった。その所作に、ルシアンも反射的に背筋を伸ばす。


「……ううん」


「こちらにいらしたのですね」


「うん」


少女は顔を上げた。青紫色の瞳が、まっすぐルシアンを見る。その瞬間。――どくん。胸の奥が、大きく鳴った。


「……?」


ルシアンは自分の胸元を押さえた。なんだろう。

今まで感じたことのない、不思議な感覚だった。

怖くない。むしろ――。

この人を、もっと見ていたい。そう思った。


「殿下?」


「……君は?」


「エレノア・ヴァレンティアと申します。ヴァレンティア侯爵家の二番目の娘でございます」


「エレノア……」


名前を口にしただけで、胸の奥がまた温かくなる。知らない名前なのに。初めて会ったはずなのに。

どうしてこんなにも、心が惹かれるのだろう。


「本日は殿下のお誕生日をお祝いするために参りました」


「……ありがとう」


「とんでもございません」


エレノアは微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、ルシアンは思った。

――この人がいい。

理由なんて分からない。ただ、そう思った。大広間にいたαたちとは、何かが違う。


エレノアもきっとαだ。それは分かる。けれど、彼女を前にしても身体が強張らない。

怖くない。逃げたくならない。それどころか、もっと近くにいたい。


「……殿下?」


気づけば、ルシアンはエレノアの顔をじっと見つめていた。


「どうかなさいましたか?」


「……ううん」


ルシアンは慌てて首を振った。


「なんでもない」


「そうですか?」


「うん」


エレノアは少し首を傾げた。けれど、それ以上は聞かなかった。そのことにも、ルシアンはほっとした。

エレノアは少し離れたところに立ったままだった。王子の前だから、勝手に近づかない。けれど、帰ろうともしない。

その距離感が心地よかった。


「……殿下」


「なに?」


「少し、お疲れでいらっしゃいますか?」


「……分かる?」


「はい」


「どうして?」


「先ほどから、ずっと微笑んでいらっしゃいますから」


「……?」


「楽しそうに笑っているというより、頑張って笑っていらっしゃるように見えました」


ルシアンは黙った。そんなことを言われたのは初めてだった。みんなは、ルシアンが楽しそうにしていると思っている。誕生日なのだから。王子なのだから。笑っているのが当然なのだと思っている。

けれど、この少女は違った。自分が笑っているかどうかではなく、自分がどう感じているのかを見ている。


「……僕、そんなに変だった?」


「いいえ」


エレノアはすぐに首を横に振った。


「ですが、無理をなさらなくてもよろしいのではないでしょうか」


「……」


「本日は殿下のお誕生日なのですから」


ルシアンは、しばらく彼女を見つめた。そして、ほんの少しだけ、自然に笑った。


「……ありがとう」


「とんでもないことです」


エレノアも微笑む。

風が吹いた。淡い金色の髪が、ふわりと揺れる。その髪を押さえる仕草まで、ルシアンには綺麗に見えた。

もっと知りたい、この人のことを。

もっと話したい、もっと、ここにいてほしい。

そんな気持ちが、次々と胸の中に生まれていく。


「エレノア」


「はい、殿下」


「……僕と、少しお話ししてくれる?」


「もちろんでございます」


エレノアはそう答えると、ルシアンから少し離れた場所に腰を下ろした。


「何のお話をいたしましょう?」


「……分からない」


「ふふ」


「笑った?」


「申し訳ございません」


「……いいよ」


ルシアンも笑った。気づけば、誕生日パーティが始まってから初めて、心から笑っていた。


ルシアンの好きな花の名前。好きなお菓子。王宮の庭で一番好きな場所。

そんな他愛のない話をした。ルシアンばかりが喋っていたように感じる。エレノアは全てに穏やかに相槌を打つ。

ほんの短い時間だった。

けれどルシアンにとっては、今までで一番長く感じるほど穏やかな時間だった。


やがて、遠くから侍女の声が聞こえてきた。


「エレノア様!」


エレノアが綺麗な所作で立ち上がる。


「どうやら探されているようです」


「……行くの?」


「はい。皆様のところへ戻らなくてはなりませんので」


その瞬間。胸がきゅっと痛くなった。


「……また会える?」


気づけば、口から言葉がこぼれていた。エレノアは振り返る。


「もちろんでございます」


「本当に?」


「ええ」


そう言って、エレノアは微笑んだ。


「また王宮へ伺う機会もございますから」


「……いつ?」


「そうですね……」


エレノアは少し考える。


「次にお会いしたときには、今日よりたくさんお話しいたしましょう」


「……約束?」


「はい。お約束いたします」


エレノアが小指を差し出した。ルシアンは目を丸くする。


「これは?」


「約束をするときにするものだと、以前お友達に教えていただきました」


ルシアンも小さな小指を差し出した。絡める。

たったそれだけなのに胸の奥が、また熱くなる。

――この人。

――この人だけは。

なぜか、失いたくない。まだ五歳のルシアンには、それが恋だとは分からなかった。

ましてや。

自分とエレノアの間にあるものが、Ωとαの間にごく稀に生まれる、特別な結びつきなのだということも知らない。

ただ、生まれたときからずっと感じていた、あの息苦しさが。この少女の隣にいると、嘘のように消えていた。


王子でいなくてもいい。Ωでいなくてもいい。

何かを期待されなくてもいい。

ただ――。

この人の隣にいる自分でいたい。


「それでは、失礼いたします。ルシアン殿下」


最後まで、エレノアはきちんと王子に礼をした。その姿を、ルシアンはじっと見つめていた。


「……エレノア」


「はい?」


「また来てね」


「はい。お約束いたします」


少女が去っていく。淡い金色の髪が、春風に揺れている。見えなくなるまで。ルシアンは、その背中をずっと見つめていた。そして、小さな胸の中で思った。

――次は、いつ会えるだろう。


その日。五歳の第三王子ルシアン・アルヴェルディは、一人の少女に恋をした。それが恋だと知るのは、もっとずっと先のこと。

その少女が自分の「運命の番」なのだと知るのも、まだ先のこと。

けれど。Ωとして生まれた彼の本能だけは、誰よりも早く知っていた。


――この人だ。

理由などなくても分かる。この人だけは、違う。他のαとは違う。この人のそばなら、怖くない。だから。

五歳のルシアンは、まだ名前のつかないその感情を胸に抱えたまま。

初めて、自分から願った。

――ずっと、この人のそばにいたい、と。

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