第29番 フラットなど程遠い
マイラスが転移してあっさりと部屋からいなくなると何だか部屋が広くなった気がするのです。
左下に目をやると新緑の瞳がキラキラとこちらを見上げています。とりあえず頭を撫でると目を瞑って嬉しそうにしてくれます。
確かにアサヒに聞いていた通りとってもかわいい方なのです。
「マイラスが帰ってくるまでどうしましょうか。」
サーシャ様と2人で抱き合ったまま、互いに撫であってばかりでは少々時間が勿体ないのです。
「えっと、あたし…リュケさんと沢山おしゃべりしてみたかったの。」
ぷっくりしたほっぺを赤くして後ろにコテンと寝転がりながら嬉しそうに笑う姿が更にかわいいのです。
「おしゃべり!素敵なのです!」
私も寝転がろうとしましたが真後ろには海龍様が丸まって寝ているのでサーシャ様の方に体を捻っただけにします。こんなに気持ちよさそうにしているのに起こしたらかわいそうなのです。
「あのね、あたしおんなじ神子の人がいなくて誰にも聞けなくて…その、神様ってどの位の頻度で夢に出てくる?魔法ってどのくらい使えるの?夢の中以外で神様に出会ったことある?神子の魔法って何歳くらいで使えるようになったの?」
周りに同じ人がいないことが不安だったのでしょう。サーシャ様は止まることなくいくつも溢れるように聞いてきました。
私にもわかるのです。1人というのは不安なのです。それに神子というものは同じ神を持つ者が存在しない、言わば世界に2人といない存在です。だからこそ、私は同じ立場のサーシャ様に出会えたことが嬉しくて仕方なかったのですから。
「私は夢にポセイドン様が出て来たことは今のところないのです。それは多分この国の今現在が平和だからなのです。過去の神子様の話には神のお告げはいくつもあるのです。ただサーシャ様と出会ったあの夢の場所には少なくとも二日に一回は行けるのです。最初は…6…5歳くらいでしたか、何も見えない空間でしたが、今では自由に動ける場所になったのです。」
サーシャ様は頷きながら一生懸命話を聞いてくれるのです。よっぽど嬉しいのか自分のことも絡めながら沢山話をしてくれます。私も自分の口でこんなにお話をしたことは生まれて初めてで、アサヒと海で泳いだ時とは違う楽しさで胸がいっぱいで弾けてしまいそうなのです。
「サーシャ様、すいません…その、お手洗いに行きたいのですが…」
お話が盛り上がっているところ少し勿体ないのですが、どうしても我慢ができなくなってきました。おトイレはこっちだよ!とニコニコと立ち上がったサーシャ様が案内してくれるようなのです。
海龍様を起こさないようにそっと立ち上がってサーシャ様について行きます。マイラスに渡された存在希釈が付与されているフード付きで丈が短い上着で顔を隠しながら部屋の外に出ます。
神子とはいえ普段は引きこもっている私の顔を知る人はそんなにいないとは思います。ですがバレてしまうとまずい立場ですので念には念をいれるのです。
私たちのすぐ後ろをキツネ様がついて来ますが護衛ですので仕方がないのです。でも私は男の人とほとんど話したことがないので、お手洗いについて来てもらうというのは…正直ちょっと恥ずかしいのです。
部屋を出て2、3度曲がったすぐ近くにお手洗いはありました。ですが部屋の外に出るのは少し緊張してしまうのです。
「ここで待ってるからね。」
お手洗いのすぐ外でキツネさんとサーシャ様が待機してくれるのを確認してから、私は早く済ませてしまおうと中に入ります。
さっさと済ませて手を洗って扉に手をかけた時、背後に気持ちの悪い空気が登りました。勢いよく後ろを振り返ると、血のような服を着た女性人魚の方が腕を組んで壁に背をもたれた状態でこちらを見ていました。
いつから居たのでしょう、最初から居たのでしょうか?全く気が付かなかったのです。とても美しいお顔ではあるのですが…何だか冷たい目に心の中まで見られてるような居心地の悪さを感じます。
うるさく鳴る胸を撫でながら早く外に出ようと扉に手をかけると、その手を上から被せるように違う腕が覆います。白く長く、まるで陶器のような血の気のない手。なのに同じ人魚の私よりも熱い手で、異様な気持ち悪さに全身の鱗が逆立つのです。
「わたくしを無視するなんて寂しいじゃないですか。ねぇ、神子様。」
耳に息がかかる距離からまとわりつくような艶っぽい声がかけられます。生暖かい吐息が寒々しい。叫びたいのに驚き過ぎているのか悲鳴も出すことができません。
この人は一体誰なのですか?こんな人、私は知らないのに…なぜこの人は私の正体を知っているのですか?
「…っ?!」
「あなた様に声を出されるとわたくしの命なんて一瞬で水泡になってしまいますわ。なので、ほんの少し失礼させていただきますわね。」
口を塞ぐように女の人が手で顔を覆って来たところでようやく、私を連れ去る気なのかと思考が追いつきました。私はいつものんびりしているのです。
ああ、こんな事考えている場合なんかじゃありません。なんとか声を出したいのにどうしても声が出ない、体も動かない。怖い。
「あら、この腕輪…どこの誰か知りませんが小賢しいこと…」
腕に嵌められた腕輪に気がついた女の人に取り上げられてしまいました。マイラスがせっかく準備してくれたもの!頑張って手をのばしてもするりと抜けてそのままそこらに捨てられてしまいました。
頑張ってもがいていると段々と意識が薄くなっていきます。声が出せないと私の力じゃなにもできないのです。
薄くなる意識の中で最後に見たのは、サーシャ様がいる廊下に続くはずの扉の先。けれどそこには何故か真っ暗な空気がこもる部屋に続いていて、目が回るようなむせ返る生臭い匂いの中、裸の大きな体躯で何かをしている気持ち悪い男の人がいた。
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「…あの、姫様…長すぎませんでしょうか?」
女性のお手洗いの時間などわかりませんが流石に時間がかかりすぎている気がします。姫様も少し不安だったのか曇った表情になっています。
「…ちょっと見てくるね、キツネさん。」
扉を少し開けたままでサーシャ様が中に入ります。レディの諸用に付くのは騎士を名乗っていても失礼な事かもしれませんが、姫様と神子様のことをヘビ殿に頼まれている手前どうしようもないことです。
はるか昔に姫様…サーシャ様の母ぎみであるカナロム国の女王様がまだ淑女であった時、お手洗いと気が回らずしつこく付いて周って最終的に本気でぶん殴られたことを思い出しました。
最近は昔のこんな些細な思い出も小さな苦笑いで思い出せるようになって来ました。まだほんの三月ほど前、あの時は本当に自分がおかしかったことを痛感します。
あの時は…真っ黒な感情に支配されて、ただ姫様以外は全部どうでもよかった。まるであの時は…自分じゃない誰かに…
「キツネさん!!」
切羽詰まったような姫様の声に我にかえります。外からでもわかるくらいそれほど広くない場所で探す場所もほとんどないでしょう。なのにサーシャ様は何度もいくつもの個室を開いては真っ青な顔をしています。
「どうしよう、いない!リュケさんがいない!」
こんな非常事態に恥など言っていられないので中に入って姫様に近寄ります。そこでカランと何かを蹴りました。
屈んで拾ったのは先ほどヘビ殿が神子様にお渡ししていた居場所を特定できる腕輪型の魔道具でした。
「姫様、部屋に戻りましょう。ヘビ殿に知らせなくては。」
真っ青な顔で姫様が目に涙を溜めています。自分がいながらこんなにも簡単に、しかも気がつくこともないなんて…。
「姫様、ここに神子様はいません。連れ去られたことは確実です。」
涙を堪えながら飲み込むように頷く姫様を抱えて出口に向かいます。今は一刻も早くヘビ殿に知らせなければ。
頼まれたことも満足にできない自分に腹が立ちますがこういう時こそ冷静でいなければ。反省も後悔も後でいくらでもできます。今は姫様だけでも守らなければ。
「…それでさー…キャァ⁈なんで男⁈」
出ようとした寸前、人魚のマダム二人組が中に入ろうとしたところで出くわしてしまいました。こちらが何か言う前に汚物を見る目で走って廊下に出て行ってしまいました。
…早く、部屋に戻りましょうか。




