第8話 過去の事故、白い跡
ダンジョン庁事故調査課には、昨日の配信にあった歓声も罵声もなかった。
ガラス張りの会議室には壁一面のモニターが並び、床には黄色い誘導テープが貼られている。
消毒液と紙の匂いが薄く残っていた。
その静けさの奥で、モニターの端だけが点滅している。
処理済みの青い印が一瞬消えて戻るたび、横に現在時刻が出る。
まだ詳細までは読めないのに、清掃靴の底が黄色い誘導テープの上で止まった。
今日ここで確認するのは、昨日の右ルートの事故だけではない。
未報告ゲートの管理記録と、同じコーティング剤が使われた過去6件の事故。
その2つを事故調査課の画面で確かめるために、私は呼ばれていた。
昨日までの私は、こういう場所に呼ばれる側ではなかった。
清掃報告を端末で送り、受理番号を見て、誰からも返事が来ないことを確認する。
それで終わりだった。
なのに今日は、受付で名前を告げた瞬間、職員が背筋を伸ばした。
「三倉ミオさんですね。事故調査課の夏目主任と、配信監査人の瀬名さんが中でお待ちです」
その言葉だけで、清掃バッグのベルトを握る指に力が入る。
待たれているのは、責められるためか、聞かれるためか、それとも守られるためか。まだ、わからない。
会議室の扉が開く。
トウマさんは、昨日の通話の声と同じくらい落ち着いた顔で立っていた。
グレーのスーツも細い銀フレームの眼鏡も派手なところは何もないのに、彼の前に置かれた資料だけは、異様に分厚かった。
奥には、黒い庁職員証を下げた夏目レイジ主任が座っている。
トウマさんの前には、昨日の配信映像と清掃ログ。
夏目主任の前には、事故記録と提出命令の束。
同じ机にいても、見ている記録は違う。
「ミオさん」
トウマさんは軽く頭を下げる。
「昨日は、あなたの判断で4人が生きています」
挨拶より先に、それを言われた。
声を出す前に、私は椅子の背もたれへ手をかけた。モニターでは、昨日の配信映像が黒いゲートの前で止まっている。
「……私は、清掃をしただけです」
「その清掃が、救助でした」
まっすぐ返ってくる。
反論できなかった。
私は椅子に座り、会議室のモニターへ目を戻した。
黒いゲート、白テープ、石畳に残った清掃剤の膜、そして私の清掃ログが、歓声も罵声もない部屋で証拠として並んでいた。
コメント欄は映っていない。
ここで残るのは、時刻と映像と数値だけだ。
「まず、あなたの身分確認から行います」
夏目主任が資料を開く。
「三倉ミオ。所属、ミクラ・クリアリング。探索者ランクD。民間ダンジョン清掃2種。罠作動後処理、魔素汚染初期除去、避難経路確保の資格あり。ここまでは間違いありませんか」
「……はい」
夏目主任は頷き、次の行へ指を下ろした。
「グリッター・ファング安全補助業務の契約終了は18時31分。未清掃申告の受理は18時43分。残留通話からの救助指示開始は19時8分」
資格欄より、時刻のほうが痛かった。
読み上げられるたびに、石畳の冷たさが戻ってくる。
でも、夏目主任の声は急かさない。
責めるためではなく、時系列を確かめるために読み上げているのだと分かった。
「ここからが本題です」
モニターが切り替わる。
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過去事故記録一覧 第7ダンジョン A-17系コーティング剤使用
日付 場所 探索者名 事故原因 処理状況
2層旧搬入口 ■■■■ 魔素濃度上昇 処理済み
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2層旧搬入口の探索者名欄だけ、黒い四角で伏せられている。
帰還確認の欄も空白だった。
その横で、処理済みの青い印が、短く明滅していた。
印の下に更新時刻が出ている。表示された時刻は、会議室の端末時計と同じだった。
私はモニターの前で動きを止めた。
6件。昨日、通知にあった数字だった。
その間にも、2層旧搬入口の青い印が一度消え、すぐに戻った。
更新時刻だけが、会議室の時計に合わせて進む。
グリッター・ファングへ来る前の現場班で、一度だけ同じ画面を見た。
昔、私が取材で固まってしまった現場でも、事故対応が終わったはずなのに、記録の更新時刻だけが動き続けていた。
現場はまだ終わっていなかった。
あの時にも、深町リョウスケの名前は、現場を動かす責任者として書類にあった。
「ヴァルトから提出された、同一コーティング剤使用記録です」
夏目主任が言う。
「過去1年以内、第7ダンジョン内。A-17系コーティング剤の使用記録として提出されています」
私はモニターへ近づいた。
原因欄だけを見れば、つながりはない。
3層左倉庫の床崩落。
2層旧搬入口の魔素濃度上昇。
4層配信用待機所の照明機材不具合。
1層資材搬入口の足場確認不足。
3層休憩区画のバッテリー熱暴走。
最後の2層観測井戸だけは、自然発生した魔素だまり、と書かれている。
どれも、聞いたことのある事故だった。
でも、全部ばらばらだと思っていた。
探索者の不注意、機材不良、ダンジョンの自然変化。
そう説明されていた。
「見てもいいですか」
「もちろん」
夏目主任が端末をこちらへ向ける。
私は6件の写真を開いた。
石畳、壁、ゲートのフチ。場所は違うのに、白いコーティング剤の跡だけが同じ残り方をしていた。
解像度は高くない。
それでも、白い跡の切れ方と、ゲート側に残った黒ずみは見える。
2層旧搬入口の写真を拡大する。
白いコーティング剤は、ゲートから外へ伸びず、外側からふたをするように厚く残っている。
その内側にだけ、黒い泡の痕跡が輪のように残っていた。
白く塗った外側ではなく、ゲート側に黒い跡が残っている。
まず、塗る方向が逆。
次に、白い跡が外側だけ厚い。
最後に、残るはずのない黒ずみが内側にある。
「これ、封止じゃありません」
考えるより先に、声が出ていた。
夏目主任の目が細くなる。
「説明できますか」
「A-17は、本来ならゲートのフチから外へ向けて薄く伸ばします。残滓と水分の逃げ道を残すためです」
夏目主任が頷く。
「でも、この6件は逆です。外側だけ厚く残って、黒ずみがゲート側に残る形になっている」
「外側の白い膜だけなら、残滓計を軽く当てた時に処理済みに見えます。でも、測っているのは白く覆った表面だけです。ゲートの内側の魔素反応は残ったままです」
「つまり」
「隠すための清掃です」
言った直後、2層旧搬入口の写真が一度だけ白くちらついた。
画面の右上に、小さな表示が出る。
再提出版あり。
写真が差し替わる前に、私は声を上げた。
「待ってください。原本を閉じないでください」
自分でも驚くくらい、大きな声になった。
夏目主任の指が止まり、向かいの職員もキーから手を離す。
「何が見えましたか」
「ゲートの内側に残った黒ずみです。原本にはあります。再提出版のサムネイルでは、そこだけ石畳と同じ灰色になっています」
私は画面の端を拡大した。
白い跡の形は同じ。消えたのは、ゲート側の黒ずみだけだ。
「処理済みに見せたいなら、ここを消します。外側の白い跡は残してもいい。でもゲート側の黒ずみは、まだ内側に魔素反応が残っている証拠です」
夏目主任が端末を横へ向ける。
「原本固定。再提出版は別ファイルとして保全。差分比較を作成」
職員がすぐにキーを叩く。
画面の上で、原本写真と再提出版が並んだ。
原本の黒ずみと、再提出版で消えた灰色の一角。その差分まで、証拠になった。
職員用端末の片隅では、昨日の救助切り抜きの見出しだけが流れていた。
白線の人、ヴァルト声明、未清掃申告。
外ではまだ、昨日の事故が終わっていなかった。
会議室が静かになった。
自分で言って、写真の白い跡から目が離せなくなった。
清掃は、汚れをなかったことにする仕事じゃない。
危ないものを見える形にして、誰かがもう一度そこを歩けるようにする仕事だ。
それを、見えなくするために使った人がいる。
トウマさんは、すぐに言葉を挟まなかった。
私が写真から目を離すのを待って、夏目主任が口を開く。
「三倉さん」
「はい」
「あなたは今、6件の事故記録について、ヴァルト提出資料の処理内容に不自然な点があると証言しました」
「はい」
「この証言を、事故調査記録に残します」
夏目主任の端末が短く鳴った。
ヴァルト代理人付きの照会文が開く。契約違反調査を理由に、私の単独聴取を求める内容だった。
清掃バッグのベルトが、急に肩を締めつけた。
もう来た。
私を、証言者ではなく、契約違反者に戻そうとしている。
夏目主任は、表情を変えずに返信欄を開いた。
「三倉ミオ氏は、事故調査課の正式協力者です。本人への連絡は、以後すべて事故調査課を通してください」
続けて、昨日の本配信救助映像と清掃ログの横に、証拠保全、改変禁止、外部圧力禁止の赤い札がついた。
画面の右下に送信済みの表示が出た瞬間、手の力がゆるんだ。
2通目も来たが、主任は文面を外部圧力として保存し、窓口を事故調査課経由に固定した。
その脇で、6件一覧の2層旧搬入口だけが、また一度明滅した。
更新時刻が、1分だけ進む。
向かいの職員が、端末から一度手を離した。
その表示を見て、ようやく指先が机のフチを押していたことに気づいた。
トウマさんが言った。
「では、次です」
モニターに、別の映像が出た。
映っていたのは昨日の控室で、グリッター・ファングの機材ケース、スポンサーのロゴ入りペットボトル、私の清掃バッグが画面に入っていた。
ハヤテさんが提出した元映像は音声が小さい。
でも、聞こえる。
『……今日の3層、右ルートはやめたほうがいいです』
私の声。
画面の端に、警告メモが映っている。
赤丸、矢印、17番扉。
レオの手が伸び、紙が、くしゃりと潰れる。
トウマさんは映像を止めた。
会議室の時計の音が、急に大きくなった。
「この映像で、配信前の口頭警告と警告メモは確認できます」
私は画面の中の自分を見た。
あの時の私は、まだ誰にも見られていないと思っていた。
「どうせ誰も見ない」と言われた私の警告は、映っていて、記録に残っていた。
私は清掃バッグの金具から、指先の力を抜いた。
「ハヤテさんは」
「別室で聴取中です。提出は任意ですが、彼は自分で出しました」
背もたれに、ようやく体重を預けられた。
彼が全部許されるわけではない。
けれど、潰された紙の音まで残る映像を、彼は自分で差し出した。
私の警告を消す道は、ひとつ消えた。
トウマさんの端末が短く鳴り、彼は画面を見ると表情を変えた。
「ヴァルトから、一次回答が来ました」
私は身構える。
「内容は」
「A-17コーティング剤の使用目的について、深層素材採取の安全検証に関係する可能性がある、とあります」
言葉の意味を、一瞬理解できなかった。
モニターの回答欄に、ヴァルトの一次回答が開いた。
―――――――――――――――――――――――――
第7ダンジョン3層右ルート 企業内試験区画
事故概要 一般探索者が侵入したため事故
―――――――――――――――――――――――――
「可能性、ですか」
「一次回答です。確定資料ではありません」
「……右ルートは、一般開放区域です」
「はい」
「グリッター・ファングは、ヴァルト所属です」
「はい」
「それを、一般探索者が侵入したって」
「矛盾しています」
トウマさんの声は低く、間を置かなかった。
目は笑っていない。
「少なくとも、ヴァルトの説明は現場区分と合っていません」
モニターに並ぶ6件は、まだ事故一覧だ。
深層素材搬出かどうかは、疑いでしかない。
モニターの右側には、ヴァルトの配信イベント予定表も開かれていた。
3層右ルートの欄には、配信イベント準備中の文字が出ている。
事故一覧にあった6つの場所は、コーティング剤使用記録に並んでいる。
その6件とは別に、昨日の右ルートは配信イベント予定の欄にも出てくる。
ばらばらに見えていた項目を、同じ表で照合する理由は出た。
私はモニターの時系列から目を離せなかった。
「トウマさん」
「はい」
「あのゲートは、入口か搬出口だったんですか」
トウマさんはすぐに答えなかった。端末の記録欄へ、今の質問だけを先に残す。
「現時点では断定しません」
彼は言った。
「ただし、ヴァルトの一次回答で、その可能性を調べる根拠が出ました」
モニターの端に、昨日の配信映像が並ぶ。
黒い手、白テープ、コーティング剤の跡、私の清掃ログ、そしてヴァルトの一次回答が、1本の時系列に置かれていく。
過去6件の中で、次に現場へ戻るべき場所は1つに絞られた。
A-17が本来と逆向きに残り、処理済み表示だけが現在時刻で動く2層旧搬入口だ。
夏目主任が言った。
「三倉さん。ここから先、あなたに正式な協力依頼を出します」
私は顔を上げる。
「第7ダンジョン内の過去6件について、現場清掃員の観点から再評価してほしい」
「私が、ですか」
「あなたにしか読めない跡があります」
机のフチを押していた指先を、ゆっくり開いた。
逃げたい気持ちは残っている。
それでも、誰かが隠すために清掃を使ったなら、私は清掃で、隠された跡を表に出したい。
「やります」
声は小さかった。でも、はっきりしていた。
その時、会議室の外がざわついた。
職員の声と足音が近づき、誰かが廊下を急いでいる。
扉がノックもなく開いた。
「夏目主任」
若い女性職員が、端末を抱えて駆け込んできた。
「第7ダンジョン2層旧搬入口で、黒い泡の再発報告です。過去6件のひとつです」
モニターの2件目、2層旧搬入口。事故原因は魔素濃度上昇、写真には白いコーティング剤の跡。
さっき明滅していた青い印が消え、赤い枠の表示に変わっていた。
作業中。
作業者名は空欄で、更新時刻だけが現在時刻になっている。
処理済みのはずの場所が、人員登録のないまま、いままた動いている。
モニターの隅で、白いコーティング剤の下から黒い泡がひとつ弾けた。
夏目主任が私を見る。
私は、まだ座ったままだった。
清掃靴の底が床から剥がれるのが、一拍遅れた。
けれど、次に必要なものだけは分かっていた。
「三倉さん」
夏目主任が言った。
「行けますか」
私は立ち上がった。
「現場用の白テープを、もう1巻ください」




