第9話 封止剤は時間を隠せない
二層旧搬入口は、深草迷宮の中でも地味な場所だった。
探索者の配信にはほとんど映らず、素材を運ぶ台車、清掃用の洗い場、古いエレベーター、壁に貼られた注意書きだけが並んでいる。
派手な魔物も、光る宝箱もない。
けれど、私はこういう場所ほど警戒する。
人が気を抜く場所ほど、事故の跡が残る。
トウマさんは、緊急監査同行の腕章をつけ、録画用の小型カメラを手に、私の半歩後ろを歩いていた。
私の清掃バッグには、新しい白テープと吸着シート、それから庁から貸与された固定スプレーが入っている。
「単独では入れません」
庁を出る前、トウマさんはそう言った。
「正式協力者として、必ず事故調査課の同行記録を付けます。現場でも、あなたへの直接質問は私を通してください」
守る、という言葉は使わなかった。
でも、手順が私を守っていた。
会議室で送った通知と同じだ。
直接接触禁止、単独聴取禁止、記録保全。
ヴァルト側からの単独接触を遮断する手順が、先に用意されている。
旧搬入口の前で、私は足を止めた。
手前には、黄色い簡易封鎖線が二重に張られていた。
戦闘隊はまだ到着していない。
事故調査課の職員と地元探索者が、退避路を押さえている。
壁の小さな作業表示板だけが、赤く点いている。
作業中。
作業者名の欄は空白だった。
処理済みの現場に、作業中の表示だけが残っている。
「ヴァルトも来ていますね」
トウマさんが、半歩後ろで低く言う。
封鎖線の内側には、ダンジョン庁職員が二人。
地元探索者が三人。
そして、ヴァルトの現場担当者が一人。
胸元の社員証には、ヴァルト安全検証部と書かれていた。
昨日、A-17の使用理由を「深層素材採取の安全検証」と答えた部署だ。
ヴァルトの担当者は、私を見た瞬間に眉を寄せた。
「なぜ彼女が現場に」
トウマさんが、私の前に一歩出た。
「三倉ミオさんは事故調査課の正式協力者です。質問は私へ」
短くて冷たい声だけで、担当者は口を閉じた。
コメント欄はない。
今日は配信ではない。
その代わり、事故調査課の記録カメラが回っている。
会議室のモニターにも、同じ映像が出ているはずだ。
現場は静かだった。
見ている人も、まだ少ない。
それでも、ここで私が見落としたら、終わったことにされた現場は、もう一度、終わったことになる。
書き換えられる前に、現場の跡を写し取る。
それが、今の私にできる仕事だった。
「ミオさん」
トウマさんが言う。
「開始して大丈夫です」
「はい」
私は旧搬入口の石畳に膝をついた。
黒い泡は、すでに表面には出ていない。
再発報告を受けて職員が一次封鎖した時には、石畳の溝から泡が三十センチほど伸びていたらしい。
今は、乾いた黒ずみが輪のように残っている。
でも、湿った土と古い血が混ざった、昨日の黒い手と同じ匂いがある。
私は残滓計を置く。
数値は低く、低すぎるほどだった。
「おかしいです」
「低い?」
トウマさんがすぐに聞く。
「はい。黒い泡が三十センチ出たなら、もっと残るはずです。表面だけ、誰かが拭いています」
私は黒ずみの輪の内側をライトで照らした。
乾いた跡の上に、濡れた筋が一本だけ残っている。
「再発報告のあとに触った跡です」
ヴァルト担当者が口を開きかける。
トウマさんが視線だけで止めた。
私は石畳の溝を指でなぞった。
黒ずみの輪の外側に、A-17の薄い白い跡がある。
でも、昨日の三層右回廊とは塗り方が違う。
封止剤の跡は、一層ではなかった。
いちばん下は黄ばんでいる。
真ん中には石畳の削りかすが混じっている。
上だけ新しい。
昨日か、一昨日くらい。
「三回」
私は言った。
「少なくとも三回、塗っています」
職員のひとりが、記録端末を持つ手を止めた。
トウマさんが静かに聞く。
「根拠は」
「封止剤の層です。色と、削りかすの混ざり方と、乾き方が違います」
私は写真を撮る。
白い跡は肉眼ではほとんど同じに見えるのに、ライトを当てると層の端が少しずれている。
封止剤は、時間を隠せない。
トウマさんが記録する。
「二層旧搬入口、A-17封止剤の複数回塗布痕。三倉協力者の観察では、少なくとも三回分」
協力者という呼び方にはまだ慣れない。
けれど、記録欄にそう残るたび、勝手な外部介入ではないと示してもらえる。
ヴァルト担当者が、今度こそ声を出した。
「それは、弊社が安全のために――」
「発言を記録します」
トウマさんが言った。
担当者の声が止まる。
「安全のために、未報告の深層用封止剤を、一般開放区域で、少なくとも三回使用したという説明でよろしいですか」
担当者の顔色が変わった。
私は思わずトウマさんを見た。
声は大きくないのに、話をずらせない聞き方だった。
昨日、私が黒い泡の進路を切った時と少し似ていた。
担当者は黙った。
その沈黙も、記録された。
私は石畳へ視線を戻し、黒ずみの輪の中心にある細い傷を見た。
台車の車輪跡でも刃物でもなく、重くて細長いものを引きずった跡だ。
ゲートの向こうから出た黒い手とは違う。
こちらから、何かを入れた跡だった。
「トウマさん」
「はい」
「このゲート、出てきただけじゃありません」
私は傷を指す。
「何かを、入れています」
職員の顔がこわばる。
ヴァルト担当者は、ほんの一瞬だけ目をそらした。
私はその一瞬を見逃さなかった。
トウマさんも、たぶん同じものを見ている。
「何を入れたか、読めますか」
「断定はできません。でも、傷幅は十五センチくらい。金属ケースか、素材保管筒。重さで石畳を削った跡です。傷の縁が、両側ともざらついています」
私は傷の端に残った青く光る痕跡に、採取用フィルムを押し当てた。
フィルムに移った跡は黒ではなく、ほんの少し青い。
低層の魔素反応なら白か灰色になる。
青が残るのは、もっと下の階層の素材に触れた時だ。
青い跡の端だけが、こすれたように薄く白く抜けていた。
「深層素材の残滓です。端だけ白く抜けているのは、A-17に触れた痕です。封止処理のあとで、深層素材がこの傷の上を通過しています」
「深層素材」
トウマさんが言う。
昨日のヴァルト一次回答にあった、深層素材採取の安全検証。
その言葉が、ここで戻ってくる。
「この旧搬入口は、素材搬出に使えますか」
私が聞くと、職員のひとりが頷いた。
「古いですが、台車用の搬送路があります。現在は低層資材だけの使用です」
「低層資材だけ」
私は石畳の溝と白い封止剤跡の位置を見る。
低層資材ならA-17はいらない。
深層素材なら報告がいる。
未報告ゲートなら、そもそも使ってはいけない。
石畳の傷も、A-17の跡も、台車が通った溝も、同じ搬出口へ集まっている。
清掃靴が、石畳から動かせなくなった。
ここは、入口ではない。
出口だった。
「トウマさん」
「はい」
「この場所、深層素材を外へ出すために使われています」
言い切った瞬間、ヴァルト担当者が一歩動いた。
私へ向かったのではない。
石畳の傷へ、靴先が向いた。
速い。
怒りではなく、焦りの速さだった。
トウマさんが、担当者と傷の間に入った。
「止まってください」
担当者は止まらない。
職員が動く。
担当者の靴が、黒ずみの輪のすぐ外の石畳を踏んだ。
乾いた跡の内側が、ぬるりと濡れた。
その瞬間、石畳の溝を囲む黒ずみの輪が泡立った。
再発した黒い泡が、担当者の靴先へ伸びる。
彼はそれに気づいていない。
「下がって!」
私は叫び、白テープの端を握ったまま、ロールを投げた。
ロールは石畳を転がり、担当者の一歩手前に白い帯を伸ばした。
そこから先へ出るなという目印。
「そこを越えないで!」
担当者が止まる。
黒い泡が弾ける。
白い帯の手前までしか届いていない。
白テープが止めたのではない。
黒い泡が届かないぎりぎりの位置を、私が読んだだけだ。
トウマさんが、低い声で言う。
「三倉協力者が観察中の痕跡へ接近。証拠保全中の石畳に踏み込む恐れあり。記録しました」
担当者の顔が、真っ白になる。
私は石畳の溝を見た。
黒い泡は、また動いている。
でも、昨日より小さい。
今なら止められる。
「吸着シートを」
バッグを開けながら言う。
トウマさんが、すぐに横から一枚を取った。
「これですね」
「はい。白い面を下。黒い泡の先端ではなく、溝の手前へ。証拠の傷には触れないでください」
彼は迷わず動いた。
スーツの膝が、石畳の汚れで黒くなる。
その汚れを、彼は見もしなかった。
私はバッグの中の固定スプレーへ手を戻した。
今は作業中だ。
「固定スプレー、少しだけ。黒い泡を消すのではなく、証拠を汚さないために流れだけ止めます」
「了解」
トウマさんがスプレーを渡す。
私は溝の横へ吹く。
黒い泡が小さく縮み、傷の中の青い残滓は残った。
よかった。
止めるために証拠を壊したら、隠した人たちと同じになってしまう。
黒い泡は、それ以上伸びなかった。
けれど、石畳の奥から、低い音がした。
昨日、黒い手が出る前に聞いた低い音に似ている。
旧搬入口の奥、古いエレベーターの扉。
その隙間から、黒い滲みが一筋、石畳へ伸びていた。
トウマさんが視線を向ける。
「あそこも、封止跡ですか」
私は首を振る。
「違います」
昨日の鉄っぽい苦味が、口の中に戻った。
「あれは、ゲートが開きかけている時の反応です」
古いエレベーターの表示灯が、誰も押していないのに点いた。
表示灯は地下二階で止まらなかった。
地下三階、地下四階。
登録されていないはずの数字が、ゆっくり下へ進んでいく。




