第7話 黒い手は白線を越えられない
黒いゲートの向こうから、細い黒い指が伸びていた。
人の手ではない。
黒い苔を細く束ねたような五本の指が、関節のように折れ曲がっている。
それが罠部屋の石畳に触れた瞬間、黒い泡が音を立てて広がった。
画面の端が、悲鳴みたいな文字で埋まる。
《出てきた》
《逃げて》
《なにこれ》
《戦闘職呼べ》
《白線の人、下がって》
私も下がりたかった。
足は震え、割れた爪は痛み、口の中には焦げた魔素と金属の苦味が残っている。
でも、黒い手はまだこちらへ来ていない。止まったのではなく、進む場所を探している。
私は白線の跡を見た。
ゲートから伸びた黒い泡は、さっき私が貼った白テープの跡の手前で止まっている。
白テープそのものは、もうない。
けれど、そこに残った清掃剤の薄い膜だけが、黒い泡を一瞬だけ弾いている。
次の泡は、膜の切れ目を探すように石畳の目地へ入り込んだ。
「……進路なら、切れます」
声が漏れた。
『ミオさん?』
トウマさんが聞き返す。
「倒すんじゃありません。出てくる条件を潰します」
黒い手は、ゆっくり石畳の目地を探っている。膜に触れた先端の一本が引っ込み、濃い魔素の筋へ向きを変えた。
その筋を追っているなら、清掃剤の膜で進路を切れる。
戦闘じゃない。清掃だ。
「ハヤテさん、カメラは泡の先端へ。黒い手全体じゃなく、白線の手前を映してください」
『わかった』
ハヤテさんはすぐに従った。
予備カメラのライトが、黒い泡の先端を照らす。
泡は石畳の細い目地へ入り込み、そこから廊下へ伸びようとしていた。
「リコさん、アキトさんを壁際へ。レオさん、ハヤテさんの後ろに立って、彼が下がる時だけ支えてください」
『俺がハヤテを?』
「剣を拾うより役に立ちます」
レオは一瞬だけ顔を歪めた。
だが、ハヤテさんの後ろへ回った。
コメント欄がざわつく。
《レオが後ろ回った》
《剣より役立ってて草》
《指示うまい》
私は清掃バッグを開けた。
残っているものは多くない。魔素吸着シートが二枚、固定スプレーは残量三割、滑落防止白テープは残り一メートル、小型残滓計がひとつ。
A-17封止剤なんて、今の清掃バッグには入っていない。
私は魔素吸着シートを半分に折り、白テープを目地に届く長さまで引き出した。固定スプレーの残量表示は赤に近い。それでも、今ここにあるもので黒い泡の広がりを少しでも小さくするしかない。
『ミオさん、応援要請を出しました。戦闘隊到着まで七分』
トウマさんが言う。
「七分は無理です」
『でしょうね』
即答。
この人は、私が無理と言うと、ちゃんと無理として扱う。
『必要時間は』
「三分。黒い手をゲート側へ戻して、泡の進路を切ります」
『手順を』
「吸着シートを泡の先端へ置きます。白テープで清掃剤の膜をつなげます。固定スプレーは、泡が入り込む溝だけに吹きます。ハヤテさんは、ゲート縁まで映像に残してください」
『続けてください。緊急監査上、応急清掃処置として承認します』
端末に承認の二文字が残っているだけで、白テープを巻いた指が少し動いた。
今は、勝手に飛び出した掃除係ではない。記録され、認められた作業として動ける。
私は膝をつき、吸着シートを広げた。
黒い泡の先端が、指のすぐ近くで弾ける。
生臭い匂いがした。
湿った土と、古い血を混ぜたような匂い。
清掃マスクの内側に、熱がこもる。
でも、吸着シートは泡を飲み込んだ。
表面の黒い光沢が、少しだけ薄れる。
《効いてる?》
《清掃道具で止まるの?》
《色薄くなった?》
《いや無理無理無理》
黒い手が、初めてこちらへ反応した。
細い黒い指が、石畳を叩く。
泡の流れが、私の膝の方へ変わる。
手から悪意の視線を感じる。
「し、白テープ」
私は残り一メートルのテープを引こうとする。
だが指が震えて、端がうまく剥がれない。
苛立ちで涙が出そうになる。
こんな時に、ただのテープで手間取っている。
『ミオさん』
トウマさんの声。
『一拍置いてください。あなたの手元を、全員が待てます』
待てます、と言われて急かされなかった。
それだけで、指が動いた。
私は白テープの端を爪で押さえ、石畳に貼る。
白い線が、黒い泡の前に細く伸びる。
清掃剤の膜とつながる。
泡が、そこで止まった。
「固定スプレー」
残量三割では足りない。
でも、全部を止める必要はない。
進む方向だけ止めればいい。
缶を押すと、白い霧は一度だけ噴き、すぐに細くなった。
私は缶を振り、黒い筋が入り込む細い溝へ残りを吹いた。
白い霧が目地を覆い、黒い泡が迷うように揺れた。
黒い手が、苛立ったように石畳を叩く。
ゲートの向こうで、また石をこするような低い反響がした。
さっきより、荒い。
《怒った?》
《効いてる》
《掃除で押してる?》
《戦闘隊まだ?》
私は小型残滓計を石畳へ置いた。
数値が跳ねる。
黒い泡の濃度が、白テープの手前で落ちている。
「トウマさん、数値出ます。ゲート側へ戻っています」
『確認。記録しています』
「ハヤテさん、ゲート縁を」
『映してる』
ハヤテさんの声が、少しだけ誇らしげだった。
彼の映像には、黒い手がゆっくり戻る様子が映っている。
戻るというより、押し返される。
白線を越えられない。
コメント欄が、その言葉を拾った。
《止まってるね》
《白線を越えないということは理解った》
《なんで》
《ハヤテそこ映して》
のんきな視聴者たち。
私は笑う余裕なんてなかった。
スプレーが切れ、白い霧が消える。
黒い手が最後に一度だけ、石畳を叩いた。
その先端が、私の靴先に触れる。
冷たい。
痛い。
皮膚を直接撫でられたわけではないのに、足首の内側まで冷える。
私は反射で足を引きそうになった。
でも、引けば白線を崩す。
白線を崩すな。清掃剤の膜を踏み破るな。
黒い手は、白線の手前で止まる。
そして、ゲートの向こうへ引っ込んだ。
黒い泡が、石畳から剥がれるように消えていく。
廊下に、静けさが落ちた。
数秒後、コメント欄が爆発した。
《止めたああああ》
《清掃道具で?》
《戦闘隊まだ走ってる?》
《白線の人!!!!》
《清掃員って何する職だっけ》
私は廊下に座り込んだ。
今度こそ、立てなかった。
ハヤテさんのカメラは白線の跡を映していた。
黒い泡が消えた跡、白テープ、吸着シート、残滓計の数値。全部、残っている。
トウマさんが言った。
『ミオさん。今の手順を、後で報告書に起こします』
「はい」
『その前に、一つ確認させてください』
声が、少しだけ柔らかくなる。
『あなたは本当に、Dランク探索者ですか』
コメント欄が笑いと驚きで流れる。
《それな》
《Dランクとは》
《探索者じゃなくて清掃員だぞ》
《清掃員のランク制度作れ》
私は疲れた頭で、少しだけ笑った。
「探索者としては、Dランクです」
それは本当だ。
戦えないし、強い魔物を倒せない。派手な技もない。
「でも、清掃員としては」
私は床に残った白線を見る。
「……報告書に、残りますか」
トウマさんは、すぐには答えなかった。
返事の代わりに、画面上部へ小さな受付欄が開いた。
三層右回廊応急清掃処置。
作業者、三倉ミオ。
記録採用。
探索者ランクの欄ではなかった。
作業者欄。
そこに私の名前が入っているのを見て、清掃剤で湿った指先が、少し震えたその時。
ピッ
感慨に浸る間もなく、受付欄の下にメッセージが浮上する。
ダンジョン庁事故調査課の緊急通知だ。
《三倉ミオ氏に対し、三層右回廊事故の功労者・参考人として出頭を要請》
それだけではない、
同じ画面の下で、別のメッセージが表示された。
《大手探索者事務所ヴァルトへ、未報告ゲート管理記録の提出命令》
《さらに、同じ封止剤を使った事故記録の照会。対象、過去六件》
コメント欄が、一瞬だけ止まった。
次の瞬間、画面が文字で埋まり直した。
《提出命令きた》
《何の提出?》
《参考人ってミオ?》
《過去六件?》
《今日だけじゃないの?》
《え、まだ続くの》
《全部出せ》
私は通知を見つめた。
黒い泡を止めたばかりの指には、清掃剤の匂いがまだ残っている。
画面の中では、封鎖完了の記録、ヴァルトへの提出命令、過去六件の一覧が、次々に追加されていく。
数分後、事故調査課の職員が黄色い封鎖テープを張っていた。
戦闘隊の盾が黒いゲートの前に並び、救助班がアキトさんを担架へ移している。
リコさんは、その横を離れようとしない。
『ミオさん』
トウマさんが言った。
『ここからは、あなたを守りながら進めます』
私は小さく頷いた。
カメラには映らないくらい、小さく。
「お願いします」
黒いゲートは、まだ閉じていない。でも、そこへ走り込む人はもういない。
ヴァルトの提出命令も、まだ始まったばかりだ。
通知に添付された事故記録一覧が開いた。
過去六件。
そのどれにも、同じ白い封止剤の型番が並んでいる。
そのうち一件だけ、処理済みの青い印が瞬きするように消えた。
二層旧搬入口。
更新時刻は、いま。
処理済みのはずの現場が、現在時刻で動いている。
前の班で、一度だけ見たことがある。
終わったことにされた現場が、終わっていなかった時に出る表示だった。




