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第4話 N404


 管理番号N404の黒いゲートは、奥でまだ明滅していた。


 罠部屋にいた全員が同じ方向を見ていた。

 3層右ルートにも、このダンジョンにも、こんな穴は存在しないはずだった。


 さらに、黒いゲートのフチから、黒い泡が滲み出している。

 水ではない。煙でもない。

 石畳の目地を伝って、さっき白テープを押さえた場所へ、少しずつ迫ってくる。


 白テープの縁には、清掃用の薬剤が薄く残っている。

 泡の縁がそこに触れると、ほんの数秒だけ白く濁って動きが鈍る。

 その間に、泡が次にどこへ伸びるかが見える。


 止まる気配はない。

 このままだと、罠部屋全体が泡に飲まれる。


『ミオさん』


 管理番号が映った直後、見たことのない個別通話が開いた。

 画面の表示は「ダンジョン庁配信監査 担当:瀬名トウマ」。一拍だけ迷い、それでも私は応答していた。


『配信監査の瀬名です。さきほどからの救助指示は、緊急監査記録として保全しています。管理番号N404と未清掃申告も照合中です』

『詳しくは退避後に。今は全員退避を優先してください』


 よく分からないが、担当の人らしい。


 その声は落ち着いていた。

 少なくとも、あの番号を見てただ慌てているだけの人ではなかった。


『ミオさんの判断を優先してください』


「はい」


 即答できた。


 優先順位は迷わない。

 踏んでいい場所を確保し、人を外へ出す。


「リコさん、アキトさんを支えて。ハヤテさんはカメラを足元へ。みんなの位置が画面に残るように」


 コメント欄は、もう笑い半分ではなかった。


 《ゲートやばくない?》

 《泡広がってて草》

 《レオさん、お願いだから動かないで!》

 《これ事故じゃね?》


 同接は11万を超えていた。

 その数字を見た瞬間、ハヤテさんの手が動き、カメラがゲートの方へ向こうとした。


 さっきまでなら、彼は迷わずその絵を取りに行っていた。

 でも、ハヤテさんは一度唇を噛み、カメラの向きを足元へ戻した。


『足元だけ映すようにしますね』


「ありがとうございます」


 短く返す。

 その一言で、ハヤテさんの肩が少しだけ緩んだ。


 私は白テープを引き出し、泡が広がる目地と、壁際の獣像の真下を避けて、出口まで貼っていく。

 魔素マーカーで読み取った危険範囲の縁に、石畳の白テープと配信画面の白線を重ねていく。


 使える幅は、さっきより狭い。

 安全圏そのものが、黒い泡に削られている。


「全員、線の外へ足を出さないでください。アキトさんは左脚に気を付けて、リコさん、肩で支えて」


「ハヤテさん、3歩後ろ。レオさんは、全員が出るまで線の内側で待ってください」


『俺が待つのか?』


「あなたが一番動けます」


 それは事実だった。


 レオは何か言いかけたが、コメント欄を見て口を閉じた。

 それから、アキトさんとリコさんの背中を見た。


 《最後尾いけ》

 《リーダーなら最後だろ》

 《ここで前に出たら本当に終わり》

 《清掃員様の指示です》


 4人は、白線の内側を1歩ずつ進む。

 アキトさんの肩が短い間隔で上下している。

 リコさんの腕が震えている。

 ハヤテさんのカメラライトが、白線と石畳だけを照らしている。

 レオは最後尾で、剣のない手を握ったり開いたりしていた。


 扉まで、あと7歩。


 黒いゲートが、また罠部屋の空気を吸い込んだ。

 吸い込みの方向が、さっきまでと変わっていた。泡が新しい目地へ引き寄せられ、石畳の継ぎ目が塗りつぶされていく。


 出口への線が塞がれている。


「止まって!」


 私の声と同時にリコさんが止まり、アキトさんも、ハヤテさんも続いた。レオだけが半歩遅れた。


 彼の靴先が、白線の外へかかりかける。

 私は手に持っていた白テープを投げた。

 テープの芯がレオの靴先に当たる。


『痛っ』


「足を戻して」


 白テープの外側、ライン側面の石畳の目地が泡立つ。

 レオの靴先があった位置を黒い泡が覆った。


 コメント欄が一斉に湧いた。


 《今のなに》

 《レオ狙った?》

 《もう配信止めろ》

 《ぎりぎりだった》


 トウマさんからの通話が、本配信に重なった。


『ミオさんの指示を、時刻付きで記録に残します。全員、テープの内側から出ないでください』


「出口まで、あと6歩」


 私は石畳に視線を落とした。

 泡が目地を伝って進んでいる。広がる速度から、次の吸引で今の線が塞がると予測できた。


「今から19秒後、もう一度線が塞がります。次の合図で、全員2歩だけ進んでください」


『了解。ミオさんのカウントに合わせます』


 白テープの残りを、出口側へ2歩分だけ引き出した。


「3、2、1。進んで」


 4人が動く。アキトさんの足が引っかかり、リコさんが支え、ハヤテさんのライトが大きく揺れかける。

 ライトの光が泳げば、白テープも泡の縁も画面から消える。


 その瞬間、レオが無言でハヤテさんの肘を押さえた。

 ライトの揺れが止まり、白テープと足元の境界が、画面の中に保たれた。


 その一瞬だけ、彼はちゃんとリーダーだった。


 許すわけではない。

 でも、その一瞬は、画面と記録の両方に残ったはずだ。


 出口まで、あと2歩。


 黒いゲートが、3度目に罠部屋の空気を吸い込んだ。

 今度は、強い。

 白テープが石畳から剥がれかける。


 私の指が、テープの端を押さえた。

 爪が割れ、痛みが指先から肘まで走る。それでも離さない。


「走らないで。歩いて。線の内側から出ないで」


 アキトさんが出る。リコさんがその腕を支えたまま続く。ハヤテさんがカメラを抱えて出て、レオが最後に飛び出した。

 私は白テープの端を離し、扉の外へ転がるように出た。


 扉の向こうで、罠部屋の石畳が黒い泡に沈む。

 白テープだけが、吸い込まれていく。


 冷たい空気が、頬を通り抜けていく。

 誰かが、ふっと息を吐いた。


 私は廊下の床に座り込んだ。


 廊下の冷たい壁に背中を預けると、手の痛みと膝の痛みが一度に戻ってきた。

 口の中に焦げた魔素と金属の苦味だけが残っている。


 それでも、生きている。全員、生きている。


 コメント欄が、堰を切ったように溢れていた。


 《全員出た》

 《白線すご》

 《掃除係ちゃん生きてるナリ》

 《フォローした》

 《切り抜きだけ見たら意味わからなくて草》

 《事務所、説明しろ》

 《未報告ゲートって何》


 「掃除係はいらない」と言って追放された私。


 ただ、廊下に座り込む4人と、黒い泡に飲み込まれていく白テープが、その言葉を静かに否定していた。


 空腹に気づいた瞬間、朝、会社の休憩室で開け損ねたおにぎりを思い出した。

 そういえば、食べる時間もないまま契約終了を告げられて、そのまま走ってきたのだった――


 その時、別の通知が画面上部に出た。


 大手探索者事務所ヴァルト公式からの声明。

 グリッター・ファングが所属している事務所だ。


 私は、嫌な予感がした。

 契約終了済みの私を、彼らの事務所が公平に扱ってくれる理由はない。


 ハヤテさんのカメラが震えた。

 レオがスマホを見て、固まった。

 声明は短かった。


  ―――――――――――――――――――――――――

 グリッター・ファングの3層右ルート配信における一連の混乱について、契約終了済みの外部清掃員・三倉ミオ氏による無許可の音声介入が確認されています。

 弊社としては、現時点で本件が所属パーティーの行動に起因するものとは認識しておらず、詳細を確認中です。

  ―――――――――――――――――――――――――


 文字を読み終えた瞬間、音が消えた。


 無許可の音声介入。


 私が?


 助けた4人の震える肩が、すぐそばにある。

 足元に残った白テープが、まだ私の指に貼りついている。

 なのに、画面の中では、責任の矛先が私の声に向けられていた。


 端末を支える指に力が入らなくなった。罠は止めたはずなのに、今度は記録の上で、私が事故を招いたことにされようとしている。


『ミオさん』


 トウマさんからの通話が、また入った。


『落ち着いてください。反論は後でも通せます。先に、清掃ログを公開しましょう』


 その言い方で、端末を支える指に少しだけ力が戻った。

 次にすべきことを、示してくれている。


『清掃ログを開けますか』


 私は顔を上げる。


『まず、受付番号と送信時刻を出しましょう。配信開始前の申告だと分かるように、画面に残してください』


 流れていた文字が、数拍だけ途切れた。


 私は震える指で、清掃ログ端末を開く。

 契約終了の直前、控室を出る前に送った未清掃申告。

 あの時、レオに「誰も見ない」と言われた記録が、時刻付きで残っていた。


 無駄じゃなかった。


  ―――――――――――――――――――――――――

 受付時刻 18:43

 対象 17番扉/3層右ルート

 罠 スーパーギガデスチワワかみくだき地獄

 所見 壁面獣像の攻撃ライン、拘束鎖の異音、黄色い清掃中の札の破損

 区分 未清掃申告(配信開始前に送信済み)

  ―――――――――――――――――――――――――


 コメント欄の誰かが、最初に気づいた。


 《待って》

 《18:43?》

 《受付ってこれ?》

 《配信前?》

 《配信開始19時だよね》

 《声明と逆じゃない?》

 《ミオのせい無理ある》


 レオが、スマホを握ったまま青ざめる。

 ハヤテさんのカメラが、清掃ログの受付時刻へゆっくり寄った。

 リコさんが小さく言った。


『……ミオさん、配信入る前から、ちゃんと止めてくれてた』


 トウマさんが言った。


『ここは記録で勝ちましょう』


『その映像は消さないでください。ここから先は、本配信の救助映像ではなく、事故調査です』


『清掃員の仕事ではなく、監査員の仕事です』


 手はまだ震えていた。

 けれど、今度は白線ではなく、記録をたどって進む。


「わかりました」


 私はハヤテさんの予備カメラに向けて、清掃ログ端末を掲げた。


「3層右ルートの未清掃申告を、公開します」


 画面の中で、受付時刻が白く光った。

 その横で、さっきのヴァルト公式声明が赤いまま残っていた。


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