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第4話 その映像は消さないでください


 さっき管理番号が光った黒いゲートは、奥でまだ明滅していた。

 意味までは読めない。でも、ただの穴ではない。


 罠部屋にいた全員が同じ方向を見た。三層右回廊に、こんな穴は存在しないはずだった。


 そこから漏れる黒い風が、割れ残った結晶灯の光をねじ曲げていた。壁から突き出した獣像の鎖が、穴の方へ細く引かれている。さっきまで白く残っていた線の端へ、黒い泡が少しずつ迫っていた。


 私は白テープを握ったまま、粘着面を指に食い込ませていた。


 黒い泡が白線に触れたら、その内側も安全ではなくなる。

 ただの罠じゃない。罠部屋全体が、あのゲートに飲まれかけている。


『ミオさん』


 保護対象通知のあと、監査用の個別通話が開いた。見たことのない表示に一拍だけ迷い、それでも私は応答していた。


 通話の向こうで、瀬名トウマが言った。


『ゲートの確認は後にできます。今は全員を退避させる場面です』


『管理番号を含む映像原本は保存中です。逃げる間は足元を優先して、可能ならゲートの縁も画面に残してください』


「はい」


 即答できた。


 好奇心はある。黒い風への警戒もある。でも、優先順位は迷わない。踏んでいい場所を確保し、人を外へ出し、それから黒い泡の正体を見る。


「リコさん、アキトさんを支えて。ハヤテさんは足元を優先して映してください。レオさんは剣を拾わないで」


『まだ言うかよ』


 レオの声に、いつもの反発が戻りかけた。


 私は彼を見た。

 黒い風が、レオの剣の柄に這っている。

 金属の表面に、薄い霜のような魔素結晶がつき始めていた。


「拾うと、手の皮が剥がれます」


 レオは黙った。


 コメント欄は、もう笑い半分ではなかった。


 《ゲートやばくない?》

 《剣白くなってる》

 《今来た、なんで剣凍ってる?》

 《レオ、頼むから余計なことするな》

 《監査ってもう入ってるの?》


 同接は十一万を超えていた。

 その数字を見た瞬間、ハヤテさんの手がわずかに動き、カメラがゲートへ寄りかけた。


 さっきまでなら、彼は迷わずそうしただろう。

 だが、ハヤテさんは一度唇を噛み、カメラを白線の内側へ戻した。


『足元、映してます』


「ありがとうございます」


 短く返す。

 その一言で、ハヤテさんの肩が少し落ちた。カメラの揺れが、ほんの少しだけ小さくなる。


 私は白テープを追加で貼る。黒い泡が広がる目地と、壁際の獣像の真下を避けて、出口までの線を作る。


 使える幅が、さっきより狭い。

 安全経路が、黒い泡に削られている。


「全員、線の外へ足を出さないでください。アキトさんは左脚を引きずらない。リコさん、肩で支えて」


「ハヤテさん、三歩後ろ。レオさんは、全員が出るまで内側です」


『俺が待つのか?』


「あなたが一番動けます」


 それは事実だった。


 レオは何か言いかけたが、コメント欄を見て口を閉じた。

 それから、アキトさんとリコさんの背中を見た。


 《最後尾いけ》

 《リーダーなら最後だろ》

 《ここで前に出たら本当に終わり》

 《清掃員様の指示です》


 四人は、白線の内側を一歩ずつ進む。


 アキトさんの肩が短い間隔で上下している。

 リコさんの腕が震えている。

 ハヤテさんのカメラライトが、白線と石畳だけを照らしている。

 レオは最後尾で、剣のない手を握ったり開いたりしていた。


 扉まで、あと七歩。


 黒いゲートが、また廊下の空気を引き込んだ。

 白線の先で、石畳の継ぎ目が黒い泡に塗りつぶされる。


 安全経路が一本、消える。


「止まって!」


 私の声と同時にリコさんが止まり、アキトさんも、ハヤテさんも続いた。レオだけが半歩遅れた。

 彼の靴先が、白線の外へかかりかける。


 私は手に持っていた白テープを投げた。

 テープの芯がレオの靴先に当たる。


『痛っ』


「足を戻して」


 白線の外で、石畳の目地が泡立った。

 黒い泡が、レオの靴底を舐める寸前で弾ける。


 コメント欄が一斉に流れた。


 《今のなに》

 《白線消えた?》

 《テープ投げたの神》

 《レオ、半歩で死にかけすぎ》

 《白線の外、泡出た?》


『白線の外の泡、記録します』


 トウマさんからの監査コメントが、本配信に重なった。


『ミオさんの指示を、監査コメントとして固定します。全員、白線の外へ出ないでください』


 画面上部に、同じ警告が文字で出た。


 こんな時なのに、白テープの端を押さえる指が止まった。

 私一人で叫んでいるわけではなくなった。


 でも今は、止まっている場合じゃない。


「出口まで、あと六歩。次の引き込みで踏み場がもう一度変わります」


『周期は?』


「二十秒。いえ、十九秒」


『了解。全員、ミオさんのカウントに合わせて』


 画面上部の監査表示が、私のカウントに合わせて点滅した。

 コメント欄がまた変わる。


 《監査表示ついた》

 《白線の人の指示、記録に残るのか》

 《清掃員ってもっと裏方だと思ってた》


 私は返事をせず、白テープの残りを指で引き出した。出口まで、あと二歩分。


「三、二、一。進んで」


 四人が動く。アキトさんの足が引っかかり、リコさんが支え、ハヤテさんのライトがぶれかけた瞬間、レオが無言でハヤテさんの肘を押さえた。


 その一瞬だけ、彼はちゃんとリーダーだった。

 許すわけではない。でも、ハヤテさんの肘を押さえたことだけは、記録に残る。


 出口まで、あと二歩。


 黒いゲートが、三度目に廊下の空気を引きずり込んだ。

 今度は、強い。

 白テープが石畳から剥がれかける。


 私の指が、テープの端を押さえた。

 爪が割れ、痛みが指先から肘まで走る。それでも離さない。


「走らないで。歩いて。線の内側から出ないで」


 アキトさんが出て、リコさんが出て、ハヤテさんが出て、レオさんが出る。最後に、私が扉の外へ転がるように出た。


 直後、罠部屋の石畳が黒い泡に沈んだ。

 扉の向こうで、白テープだけが吸い込まれていく。


 私は廊下の床に座り込んだ。


 廊下の冷たい壁に背中を預けると、手の痛みと膝の痛みが一度に戻ってきた。

 今は口の中に焦げた魔素と金属の苦味だけが残っている。それでも、生きている。全員、生きている。


 空腹に気づいた瞬間、朝、会社の休憩室で開け損ねたおにぎりを思い出した。窓際のサボテンに「行ってきます」と言ったあと、食べる時間もないまま契約終了を告げられて、そのまま走った。


 コメント欄が、見たことのない速度で流れていた。


 《全員出た》

 《白線すご》

 《ミオたん生きてるナリ》

 《フォローした》

 《全部映ってたぞ》

 《事務所、説明しろ》

 《未報告ゲートって何》


 その時、別の通知が画面上部に出た。

 大手探索者事務所ヴァルト公式からの声明。


 私は、嫌な予感がした。ハヤテさんのカメラが震え、リコさんがアキトさんを支えたまま顔を上げる。


 レオがスマホを見て、固まった。

 声明は短かった。


 グリッター・ファングの三層右回廊配信における一連の混乱について、契約終了済みの外部清掃員・三倉ミオ氏による無許可の音声介入が確認されています。現時点で、弊社所属パーティーのみの判断に起因するものとは認識しておりません。


 文字を読み終えた瞬間、音が消えた。


 無許可の音声介入。


 私が?


 助けた四人の震える肩が、すぐそばにある。

 足元に残った白テープが、まだ私の指に貼りついている。

 なのに、画面の中では、責任の矛先が私の声に向けられていた。


 清掃ログ端末を支える指に力が入らなくなった。罠は止めたはずなのに、今度は記録の上で、私が事故を招いたことにされようとしている。


『ミオさん』


 監査コメントが重なった。


『反論は後で通せます。今は記録を先に出しましょう』


 その言い方で、清掃ログ端末を支える指に少しだけ力が戻った。黙れ、ではない。次に映すものを示してくれている。


『記録で勝ちます』


『清掃ログを開けますか』


 私は顔を上げる。


『まず、受付番号と送信時刻を出しましょう。配信開始前の申告だと分かるように、画面に残してください』


 流れていた文字が、数拍だけ途切れた。


 私は震える指で、清掃ログ端末を開く。

 そこには、レオが丸めた警告メモと同じ内容が、時刻付きで残っていた。


 十七番扉。右回廊。スーパーギガデスチワワかみくだき地獄、壁面獣像の攻撃ライン、拘束鎖の異音、黄色い清掃中の札の破損。未清掃申告、配信開始前に送信済み。


 コメント欄の誰かが、最初に気づいた。


 《待って》

 《18:43?》

 《受付ってこれ?》

 《配信前?》

 《声明と逆じゃない?》

 《ミオのせい無理ある》


 レオが、スマホを握ったまま青ざめる。

 ハヤテさんのカメラが、清掃ログの受付時刻へゆっくり寄った。

 リコさんはアキトさんの肩を支えたまま、小さく言った。


『……ミオちゃん、ちゃんと止めてたんだ』


 トウマさんが言った。


『その映像は消さないでください。ここから先は、本配信の救助映像ではなく、事故調査です』


 私は端末を握り直す。


 手はまだ震えていた。

 けれど、今度は白線ではなく、記録をたどって進む。


「わかりました」


 私はハヤテさんの予備カメラに向けて、清掃ログ端末を掲げた。


「三層右回廊の未清掃申告を、公開します」


 画面の中で、受付時刻が白く光った。

 その横で、さっきのヴァルト公式声明が赤いまま残っていた。


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