第3話 その配信は事故記録になります
黒いゲートが、その場で開いた。
昨日の清掃ログにも、作業前に確認した申請図面にもない。
自然に出たのか、誰か生み出したのかは、まだ分からない。
《何?》
《ゲート?》
《これ未報告ゲートに見えますね、申請図面外ですよね》
《これ掃除係が出したやつ?》
《掃除係が万能だと思ってるやついて草》
《映像消すな》
コメント欄の速度が、さらに上がる。
ハヤテさんの予備カメラが、奥の黒いゲートを大きく映した。
次の瞬間、黒いゲートが部屋の空気を一気に呑み込んだ。
部屋中の空気が一斉に吸い寄せられる。
爆発を逆回しにしたような衝撃が、罠部屋を一度だけ駆け抜けた。
石煙が横へ倒れ、白線の外に落ちていた大きな石材が、黒いゲートの方へ一気に滑った。
誰かが声を上げるより早く、アキトさんの左足首へ石材の角がぶつかり、そのまま白線の外側へ押し飛ばした。
『ぐっ……!』
アキトさんの声が、配信のマイクに入った。
膝が折れ、盾のフチが地面を叩く。
アキトさんの左脚が崩れた石材の下に挟まれた。
その時、吸い込みで落ちかけたカメラを、ハヤテさんが反射的に持ち直す。
次の瞬間、カメラを抱え込んだ姿勢のまま、ハヤテさんの体はゲートの方へ引っ張られ、奥の石壁に叩きつけられた。
頭の側面が壁に当たり、そのまま動かなくなる。
動かない手の中で、予備カメラの自動追尾モードが、勝手に起動した。
カメラレンズが黒いゲートから外れ、入口近くにいる人物を捉える。
そこに、私が映った。
灰色の清掃服に、汗で額に貼りついた前髪。
白テープを握った小さい手。
泣きそうな顔。
もともと救助に入った時点で、自分の声が配信に入ることは分かっていた。
現場にたどり着く頃には全てが終わっていて、
私はその外から作業する清掃員でいられると思っていた。
違った。
カメラの中心に、私の顔がいる。
コメント欄が流れるのが見える。
大勢の人に見られているのが。
《顔映った》
《白線の人この子?》
《清掃服ガチじゃん》
《切り抜き来るぞ》
切り抜き。
その文字で、指先が冷えた。
業務端末の画面に、別の画面が重なって見えた。
ずいぶん前に切り取られた、自分の動画だ。
前のチームにいた頃。
事故対応が終わったはずの現場で、テレビ取材があった。
記録の更新時刻だけが、まだ動き続けていた。
私は現場の表示の異変に気づいていた。
警告をしに行こうとした。
でも、レンズの赤いランプが点いた瞬間、用意した返答は全部消えた。
震えた声と数秒の沈黙が、そのまま電波に乗った。
警告は、その沈黙に飲まれて出てこなかった。
その日のうちに切り抜きが上がり、ミームになった。
笑い声のスタンプを乗せたアレンジ動画が何種類も流された。
話題が冷めるまで、1週間もかからなかった。
それなのに、人前で口を開くたび、あの沈黙だけが今も蘇る。
警告できなかった沈黙が。
今もそうだった。
業務端末に映る配信画面の上に、当時の自分の動画が透けて重なる。
震えた声も、固まった口も、答えを失った数秒の表情も。
カメラの前で、もう一度再生されているような気がした。
意識が現場に戻ってくる。
「ハヤテさん、あ、アキトさんの……踵を、白線、石材、えっと、リコさんの肩……私、じゃなくて」
言葉がほどけた。
どこから何をすればよいか、声にできない。
『ミオさん、聞こえる? アキトさんの脚、まだ動かない』
リコさんの声が、罠部屋の奥から割り込んだ。
名前を呼ばれた、ということだけが、辛うじて頭に届いた。
でも、言葉はまだ出てこない。
その時、画面の隅で、ハヤテさんが小さくうめいた。
頭を打って気絶していたハヤテさんが、リコさんの声につられるように、意識を取り戻していた。
胸元の予備カメラに目を落とし、映っているのが私だと気づいて、震える指を操作パネルへ伸ばす。
『追尾モード……解除します』
吸い込みの衝撃で勝手に起動していた機能が、ようやく切れた。
予備カメラの光が、罠部屋の床と、私の靴先を照らす。
画面の中の自分が、消える。
息が、戻ってきた。
本配信の同接表示は、見ない。
数字を頭に入れた瞬間、私は言葉が出なくなるのを知っている。
画面の端ではなく、石畳と白テープだけを見る。
配信者として名乗るんじゃない。救助に入った清掃員として、ここから先を記録に残す。
「清掃員、三倉ミオ。これより、3層右ルートを安全化します」
配信に声を乗せて、自分から名乗った。
その声が思ったよりまっすぐで、少しだけ驚いた。
震えは残っている。怯えていないわけじゃない。
震えたまま清掃バッグのベルトを握り直し、私は罠部屋の奥へ踏み込む。
まずは周囲を観察する。
天井から降りた獣像が、鎖に吊られたまま揺れていた。左の壁から突き出した獣像は、顎を開いたまま盾のそばで止まり、吊り鎖だけが小刻みに軋んでいた。崩れた石畳は段差になっている。
湿った空気には鉄と焦げた魔素の匂いが混ざり、奥の黒いゲートのフチだけが、割れ残った結晶灯の光を鈍く返していた。部屋の空気はそこへ細く流れ、左の鎖がゆっくり張り詰めていく。
中央にレオ、右奥にリコさん、入口寄りにハヤテさん。盾役のアキトさんが、崩れた石材の下で片膝をついていた。
本配信では、アキトさんの顔は盾のフチやカメラの影に隠れがちだった。
自分は目立たないまま、誰かの前に立つ人だった。
その左脚が、崩れた石材の下から動かない。
「アキトさん、聞こえますか」
『……ミオ、さん』
低い声。生きている。けれど、石材はまだ脚を押さえつけている。
私は清掃バッグから白テープのロールを取り出した。
白テープを引き出し、石畳の目地に合わせて貼る。
画面に出していた白線を、現場の床に固定していく。
1本、2本、3本。
靴1足ぶんの幅。
そこだけは、獣像の顎も崩れた石材も届かない。
魔素吸着シートを床に貼ると、足首の高さまで漂っていた白い石煙が、シートの周りで沈んでいった。
固定スプレーを左の獣像の根元へ吹く。吊り鎖の震えが一拍止まり、すぐにまた小刻みに震えはじめる。
崩れた石材の下には、滑り止めの小板を差し込む。
小板を押し込むと、石材の削りかすがぱらぱら落ち、脚を挟んでいる石材の左端が指1本ぶん沈んだ。
石材を持ち上げるのは無理だ。差し込んだ小板を白線側へ滑らせ、アキトさんの左脚を板ごと逃がすしかない。
踏み込めば死ぬ場所を、1歩ずつ歩ける通路に変えていく。
コメント欄は、この配信映えのない状況でも流れ続けていた。
《これマジで清掃?》
《手つきガチ》
《戦闘よりヒヤる》
私は白テープの粘着面を少し強く押した。
さっきまで笑っていたコメント欄では、私が次に何をするのかを追う声が増えていた。
奥の黒いゲートが、さらに開いた。
周囲の空気が目に見えて吸い込まれていく。
さっきまで天井へ昇っていた白い煙が、今度は黒いゲートへ向かって横に走った。
吸い込みが強まるたび、左の獣像につながる鎖が黒いゲート側へ引っ張られる。
固定スプレーを吹いたばかりの石材の端から、白い削りかすが細くこぼれた。
「アキトさんを抜く猶予は、2分とありません」
声に出すと、通話が静まった。
『そんなに短いのかよ』
レオが言った。
「このまま吸い込まれ続けると、獣像の土台が持ちません。鎖ごと落ちます」
レオが舌打ちした。
吊り鎖のきしみだけが、一瞬だけ耳に残った。
「今から、アキトさんには私の合図で力を抜いてもらいます。横から声を入れられると、事故が起こります。配信のためではなく、仲間の命のために黙っていてください」
コメント欄の流れが、一気に速くなった。
《白線の人、容赦ねえ》
《アキトさん、動かないで!》
《今はミオの合図だけ聞け》
レオは口を開きかけ、閉じた。
それだけで十分だった。
私はアキトさんのそばに膝をつく。
「アキトさん、左脚は痛みますか」
『痛い、です。でも、感覚はあります』
「よかった。今から石材を持ち上げるのではなく、脚の下に板を差し込んで滑らせます。無理に抜かないでください」
『はい』
最後まで丁寧な返事だった。
派手な配信の数字のために、こういう人が画面の隅で怪我をする。
「リコさん、こちらへ。白線の上だけを通って、アキトさんの肩を支えてください」
『私が?』
「はい。お願いします」
リコさんは一度だけレオを見た。
それから、自分で頷いた。
『やる』
白線の上を、リコさんが1歩ずつ来る。
足元の白テープを、一歩ごとに視線で確かめている。私が貼った印を踏まないように。
コメント欄の流れが少しだけ細くなった。
画面の向こうで、知らない人たちが打ち込む手を止めて待っているのが分かる。
「3、2、1で、アキトさんは力を抜く。リコさんは肩を支える。レオさんは黙る」
『……はい』
レオが、かすかに答えた。
その小さな返事まで、配信のマイクが拾った。
《教育されてて草》
《サイレントモードだ》
「3」
鎖がきしむ。
「2」
白テープが指に食い込む。
「1」
アキトさんが歯を食いしばり、身体の力を抜いた。
リコさんが肩を支える。私は小板の端を握り、白線側へ一気に引く。
板が石材の下を擦り、アキトさんの左脚が白線の内側へ抜ける。
直後、左側の獣像を留めていた石材が崩れ始めた。
私は2人の腕を取って、白線の内側へ下がった。
落ちた石材が、さっきまで私たちのいた場所を潰す。
石煙と悲鳴が同時に上がる。
コメント欄が、一瞬だけ止まった。
《アキトさん生きてる》
《間に合った》
《白線の人検索した》
《リコちゃんえらい、リコえら》
私は石畳に手をついた。
救助完了。
アキトさんはリコさんの腕に肩を預け、肩を小さく上下させている。
ここはもう、白テープの内側だ。
膝に力が入らず、指も震えている。
もう立てない、と身体が訴えている。
私は本配信の画面を見た。
同接、9万3千。
数字を見た瞬間、端末を持つ手がまた冷えた。
さっき映った顔も、震えた声も、もう消せない。
それでも、まだ終わっていない。
清掃バッグのベルトを握り直し、私はもう一度立ち上がる。
「では、清掃を続けます」
ハヤテさんのカメラがゲートを映す。
申請図面のどこにも載っていない黒いゲート。
そのフチに、管理番号が一瞬だけ光った。
自然に開いた穴に、もちろん番号なんてついていない。
その一瞬の光を、カメラが逃さず拾った。
――管理番号N404




