第3話 その配信は事故記録になります
罠部屋の奥に映った黒いゲートを見て、コメント欄の速度が変わった。
《未報告ゲート?》
《三層ってこんなの出る?》
《事務所これ知ってた?》
《映像消すな》
《白線の人、逃げて》
笑いと茶化しで流れていた文字が、疑惑と警告へ変わっていく。
画面の隅には、配信監査の保存通知が残っていた。
――ダンジョン庁配信監査――
この配信は保存対象です。
担当:瀬名トウマ。
その通知は、助けというより、見られている証だった。私は熱い石煙の中にいて、手は汗で滑り、白テープの端は指に貼りついたまま剥がれない。
「清掃員、三倉ミオ。これより、三層右回廊を安全化します」
配信の前で、自分から名乗った。
その声が思ったよりまっすぐで、少しだけ驚いた。
震えは残っている。怯えていないわけじゃない。清掃靴の底は石畳に貼りつく。けれど、足元に白線を引ける場所が見えている時だけは、その震えより先に身体が動く。
十七番扉の中へ入る。
熱い石煙が頬に当たった。
罠部屋の中は、配信画面で見るよりずっとひどかった。
天井から降りた獣像が、鎖に吊られたまま揺れていた。壁から突き出した別の獣像は、半開きの顎を震わせている。石畳の目地は崩れ、足を入れたら引っかかる段差になっていた。
湿った空気には鉄と焦げた魔素の匂いが混ざり、黒いゲートの縁だけが、割れ残った結晶灯の下で水面みたいに光っていた。
中央にレオ、右奥にリコさん、入口寄りにハヤテ。そして後衛の盾役、アキトさんが、崩れた石材の下で片膝をついていた。
配信の切り抜きでは、レオとリコさんの姿ばかりが映り、アキトさんの顔は盾の縁やカメラの影に隠れがちだった。けれど、私は彼の靴の置き方を覚えている。控室に白テープを貼るたび、彼だけが踏まないよう半歩ずらして、ありがとう、と小さく言ってくれた。
「アキトさん、聞こえますか」
『……ミオ、さん』
低い声。生きている。でも左脚が石材に挟まれている。
そこへ、レオの声が割り込んだ。
『ミオ、まだ全員出せるんだよな。なら早くしてくれ』
コメント欄がすぐに噛みつく。
《まだ上からなの草》
《助けろじゃなくなったな》
《白線の人に命握られてる自覚ある?》
《アキトさんいたのか》
レオの声は聞こえたが、私はそちらを見ない。見たら、怒りで判断が遅れる。
「全員、私が貼る白テープの内側から出ないでください」
白テープを石畳へ貼る。
画面に出していた白線を、白テープで石畳に置き直す。
一本、二本、三本。幅は靴一足分しかない。狭い。でも、そこだけ獣像の顎も、崩れた石材も届かない。
『ミオさん、左の壁が鳴ってる』
リコさんの声は、さっきより落ち着いていた。ちゃんと見ている。
「リコさん、ありがとうございます。その音は比較的安全です。顎の前に出なければ大丈夫」
『わかった』
返事は素直だった。
《リコ早い》
《レオも聞け》
《今の返事いい》
レオの眉が上がり、視線がコメント欄へ泳いだ。
でも今、空気を読んでいる暇はない。
「ハヤテさん、予備カメラを足元に置いて。両手を空けてください」
『置いたら映像が』
「置いて」
『……はい』
ハヤテさんは今度は逆らわなかった。
足元に置かれた予備カメラが、私の靴と白テープを映す。
私は魔素吸着シートを広げ、舞い上がる石煙を押さえた。半開きの顎の根元へ固定スプレーを吹く。崩れた石材の下には、滑り止めの小板を差し込む。
石材が一度だけ鳴った。順番を間違えれば、足ごと下へ持っていかれる音だった。
死ぬはずだった踏み場を、一歩ずつ歩ける通路へ戻していく。
コメント欄は、この配信映えのない状況でも流れ続けていた。
《手つきガチ》
《これが清掃?》
《派手じゃないのに見てしまう》
《戦闘よりヒヤる》
《見てる場所多すぎ》
私は白テープの粘着面を少し強く押した。さっきまで笑っていたコメント欄が、今は白線の先を待っている。
奥の黒いゲートが、かすかに開いた。
空気が吸われる。
石煙の流れが反転する。
さっきまで天井へ昇っていた白い煙が、今度はゲートへ向かって横に走った。
「アキトさんを抜く猶予は、二分ありません」
声に出すと、通話が静まった。
『そんなに短いのかよ』
レオが言った。
「石煙がもう上ではなく横へ流れています。ゲートに吸われてるんです」
左の獣像の根元で、石の粉がこぼれていた。
「アキトさんを抜く前に、そこが崩れます」
足元を映さなければ、アキトさんを助けられない。黒いゲートを画面から外せば、事故の記録が残らない。
どちらかを捨てていい場面じゃない。
レオが舌打ちした。
『監査保存まで入るとか、大げさな』
「レオさん」
私は初めて、彼を真正面から見た。
「いまは黙っていてください」
部屋の音が、一瞬だけ遠のいた。
レオの顔が赤くなる。
でも私は続ける。
「声を荒げないでください。大きな声に反応して、左の鎖が戻ります。アキトさんの脚が抜ける前に石材が落ちます。配信のためではなく、命のために黙っていてください」
コメント欄の流れが、一気に速くなった。
《白線の人、容赦ねえ》
《アキトさん、動かないで!》
《レオの声で石ずれるってこと?》
《配信より命、当たり前すぎて草》
《掃除係ちゃん怒ったナリ》
レオは口を開きかけ、閉じた。それだけで十分だった。私はアキトさんのそばに膝をつく。
「アキトさん、左脚は痛みますか」
『痛い、です。でも、感覚はあります』
「よかった。今から石材を持ち上げるのではなく、脚の下に小板を入れて滑らせます。無理に抜かないでください」
『はい』
最後まで丁寧な返事だった。派手な配信の数字のために、こういう人が画面の隅で怪我をする。奥歯に力が入ったが、いま見るのは怒りではなく、石材の下の隙間だ。
魔素吸着シートを細く折って石材の下へ差し込み、小板を滑らせ、白テープをアキトの膝下へ通す。
「リコさん、こちらへ。白線の上だけを通って、アキトさんの肩を支えてください」
『私が?』
「はい。あなたが一番近い。できます」
リコさんの目が揺れた。
彼女は画面の中で、いつもレオの後ろにいた。
でも今は、自分で頷いた。
『やる』
白線の上を、リコさんが一歩ずつ来る。
コメント欄の流れが少しだけ細くなった。画面の向こうで、知らない人たちが打ち込む手を止めて待っているのが分かる。
「三、二、一で、アキトさんは力を抜く。リコさんは肩を支える。ハヤテさんは照明だけ。レオさんは黙る」
『……はい』
レオが、かすかに答えた。
その小さな返事まで、配信のマイクが拾った。
《教育されてて草》
《今だけはそのまま黙ってて》
《カウント始まった》
「三」
天井の鎖が鳴る。
「二」
白テープが指に食い込む。
奥のゲートが、暗い排水口みたいに空気を奪った。
石煙が横殴りに流れ、予備カメラの映像が煙に黒く呑まれる。
白テープの白が、煙で消えかける。カメラを足元へ寄せれば、ゲートが画面から外れる。ゲートを残そうと引けば、アキトの踵がフレームの外へ出る。
『ミオさん、照明が』
ハヤテさんの声が裏返った。
「ハヤテさん、カメラを半歩だけ引いて床に置いて。照明は斜め下。白テープを中央、奥のゲートを右上の端。ズームしないで」
『でも、ゲートを大きく映したほうが数字が』
「アキトさんの足元を映してください。照明が白テープから外れたら、脚を抜く角度を見失います。ゲートは画面の端に残ります。その映像が事故記録になります」
一拍遅れて、予備カメラの光が足元へ落ちた。
白テープが浮かび上がる。
ハヤテさんが、初めて数字だけではなく、救助と記録のためにカメラを使った。
「一」
アキトの脚が、石材の下から抜けた。
同時に、左側の獣像を留めていた石材が崩れた。
私はアキトさんとリコさんを白線の内側へ引き戻す。
落ちた石材が、さっきまで私たちのいた場所を潰した。
石煙と悲鳴が同時に上がり、一瞬だけ、コメント欄が止まった。
《助かった》
《アキトさん生きてる》
《間に合った!!》
《これ無料で見ていいの?》
《白線の人検索した》
《リコちゃんえらい》
私は石畳に手をついた。
膝に力が入らず、指も震えている。もう立てない、と身体が訴えている。
それでも、まだ終わっていない。
罠部屋の奥で、さっき配信に映った黒いゲートが、半分だけ開いていた。
未報告で、高危険度で、申請図面にはないゲート。
画面上部に、瀬名トウマ名義の監査コメントが重なった。
『ミオさん。そのゲートは、大手探索者事務所ヴァルトが提出した申請図面にありません』
コメント欄の速度が落ちる。
軽いコメントが消えて、疑問符だけが残った。
『救助判断は三倉さんに継続してもらいます。私は記録を保全します。今から、この配信は事故記録です』
レオの顔から、血の気が引いた。
ハヤテさんがカメラを拾いかけて、手を止める。
リコさんはアキトさんを支えたまま、奥のゲートを見ていた。
四人とも、白線の内側にいる。獣像の顎も、石畳の段差も、そこまでは届いていない。
まだ扉の外ではない。それでも、今すぐ顎が届く場所からは全員を外せた。
私は白テープを握り直す。
掃除係はいらない。
そう言った人たちの背後にあった汚れが、配信画面の中で浮かび上がっていく。
「ハヤテさん」
『はい』
「このまま映していてください」
私は本配信の画面を見た。
同接、九万三千。
コメント欄は、もう笑っていなかった。
《やっぱ未報告?》
《これ事故じゃなくて隠蔽?》
《ヴァルトの申請図面にないってこと?》
《白線の人、消されない?》
業務端末の関連通知に、グリッター・ファング公式アカウントを名指しする投稿が流れ込んだ。救助の切り抜きの横に、事務所へ説明を求める短い言葉が増えていく。
瀬名トウマ名義の通知が、静かに重なった。
『三倉ミオさん。あなたは違反者ではなく、保護対象です』
その一言で、ようやく手の震えが止まった。
私は白線の先を指した。ハヤテのカメラが、その先へ向く。
「では、清掃を続けます」
申請図面にはないはずの黒いゲートの縁で、管理番号が一瞬だけ光った。消える前に、ハヤテのカメラがそれを拾った。




