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第16話 止める白線

 搬出扉の隙間から漏れる青黒い光は、濡れたような艶を帯びて脈打っていた。


 明るくなって暗くなり、膨らんで縮むそれは照明ではない。未報告の、開いたままのゲートだ。


 私は第3試験区画の入口で、白テープを握ったまま止まった。


 搬出扉の手前には、2本の車輪跡があった。


 細い。でも、深い。重い台車が、何度も同じ場所を通った跡だ。


 車輪跡の外側に、灰色の魔素汚染の跡が薄く残っている。

 内側だけ、妙にきれいだった。


 深層素材を載せた台車が、何度もここを通った。

 車輪が灰色の魔素汚染を押しのけ、その一部が白い仮設ラインの下へ入り込んでいる。


 深町さんが避難補助導線と呼んだ白い線の下へ。


「三倉?」


 レオさんの声が、第3試験区画の奥から届いた。


 彼はまだ、1歩も動いていない。


 赤いジャケットの足元で、固定スプレーの半円が白く固まっている。


 その向こうで、リコさんがカメラライトを搬出扉へ向けていた。


 彼女の手は震えていた。でも、ライトは顔ではなく足元を照らしていた。


『ミオ、見える? 扉の内側、台車が2台。手前は素材、奥は機材みたい』


「見えます。手前の素材台車を見ます。ライト、そのまま足元へ。透明カバーが反射するので、台車本体へ直接当てないでください」


『わかった』


 リコさんはすぐに角度を下げた。


『これ、前に見た』


 リコさんの声が、かすかに揺れた。


 青黒い素材の塊の内側で、細い光が1本、右後輪のほうへ流れた。


 音はほとんどない。それでも、右後輪の下に挟まった魔素汚染の縁で、青黒い光だけが細かく震えている。


 深層素材がゲートの脈動に合わせて、わずかに明滅していた。


 動かしてはいけない。あれは荷物ではなく、まだダンジョンとつながっている危険物だ。


「台車に触らないでください」


 私は、できるだけゆっくり言った。


「扉も閉めない。台車も動かさない。扉の内側に風を入れない」


『閉めないのか?』


 レオさんが聞き返す。


 レオさんの視線は、開いた搬出扉へ向いていた。開いているなら閉めたいし、危ないものが見えているなら隠したい。


 でも、隠すために閉めてきた人がいた。


 3年前も、今日も。


「閉めたら、扉の下の灰色の魔素汚染が巻き上がります。台車を押したら、車輪に挟まった魔素汚染とコーティング剤が剥がれます」


 私は搬出扉の下を見た。


 石畳と扉の隙間に、コーティング剤の薄い黄色の膜がある。


 表面は乾いている。でも、フチだけが湿っていて、乾いたふりをしているだけだ。


「コーティング剤、表面だけ乾いています。内側はまだ生きています。動かすと破れます」


『破れると?』


「灰色の魔素汚染も素材もゲートに吸い込まれます。証拠が残りません」


 自分で言って、視線が台車の透明なカバーから離れなくなった。


「ここは避難路じゃありません。搬出路です。ゲートから素材を引き出すための通路です」


『公式カメラ、搬出扉奥を拡大します』


 マシロさんの声は、会場スピーカーから流れ、配信にも入った。


 大型スクリーンに、台車の車輪跡が映る。


 灰色の魔素汚染、黄色のコーティング剤、白い仮設ライン、青黒い素材。


 どれかひとつなら、言い訳できた。


 でも、車輪跡も魔素汚染もコーティング剤も、搬出扉から会場外へ向かう同じ経路に並んでいた。


 搬出扉から第3試験区画へ、第3試験区画から壇上裏へ、壇上裏から会場外へ。


『深町リョウスケ氏』


 夏目主任の声が落ちた。


『この搬出扉奥の素材台車は、イベント申請書に記載されていない。未報告ゲート本体も同様だ。説明を求める』


 会場側のざわめきが、配信音声越しに聞こえた。


 深町さんは何か言った。


 けれど、マイクが拾う前に、トウマさんが記録時刻を読み上げた。


『現時点で優先すべきは、説明より現場保全です。ミオさん、封鎖できますか』


 できます、と言いたかった。でも、簡単に言ってはいけない。


 今度の白線は、進入禁止の線では足りない。


 人を止めるだけではなく、台車も、車輪跡も、魔素汚染の跡も乱さないための線がいる。


 私は清掃バッグを石畳へ置いた。


 白テープ、吸着シート、固定スプレー、採取フィルム、保護用の透明シート。


 いつもの道具が、今日は全部、証拠を守る道具になる。


「レオさん、中継を続けてください」


『ああ』


「リコさん、搬出扉の左下を照らしてください。石畳だけ。透明カバーには当てない」


『うん』


 リコさんのライトが、扉の左下を照らす。

 石畳には、透明な小さなスロープ材が貼られていた。台車の車輪が段差を越えるためのものだ。


 その端には、灰色の魔素汚染と薄い黄色のコーティング剤が、踏まれて湿り、乾いて、また踏まれた層を作っていた。層の間には、深層素材由来の青く光る結晶片が挟まっている。


「左下の車輪跡、3層になっています。今日の1回だけではありません」


『3層?』


 レオさんが復唱する。


「一番下に古い灰色の魔素汚染。その上にコーティング剤。さらに表面に今日の魔素汚染。封止してからも台車を動かしています」


 会場が、はっきりと揺れた。


 コメント欄の文字が走る。


 《は?》

 《封止後も搬出?》

 《これ避難導線?》

 《これはコーティング剤の上から再搬出してますね。ヴァルト側のログ整合性が問われます》


 私は文字を追わないようにした。


 見るべきなのは、石畳の車輪跡と、車輪に入り込んだ灰色の魔素汚染の位置だ。

 それでも、流れる文字の中で、封止後、避難導線、魔素汚染の跡、という言葉だけが目に入った。


「白線を引きます」


 私は膝をつき、第3試験区画の入口からテープを伸ばした。


「1本目。人の停止線。搬出扉から2メートル手前。誰もこの線を越えない」


 テープが石畳に貼りつく。


 真っ直ぐには貼らない。


 魔素汚染の跡が濃く残っている側を避けて、台車から離れるように少しだけ弧を作る。


「2本目。台車の保全線。車輪跡を囲みます。足を入れない。清掃具も入れない」


 レオさんが中継する。


『1本目、人の停止線! 2本目、台車の保全線! 車輪跡を踏むな、道具も入れるな!』


 さっきまで命令されることを嫌っていた人が、今は私の言葉を短く、強くしてくれている。


 その声に、奥の配信者たちが従う。


 黒い鎧の男性が剣を抱えたまま頷き、青い照明下の2人が壁に手をつけたまま動かない。


「3本目。ゲートの脈動を見るための目印を置きます」


『目印?』


「ゲートの動きに合わせて、黒い滲みが出る位置です。今から3回見ます」


 私は白テープの端を押さえた。


 青黒い光が、暗くなる。


 1。明るくなる。扉の下の灰色の魔素汚染の縁の内側に、黒い滲みがほんの少し差す。


 2。暗くなる。透明なカバーの内側の細かい魔素汚染の粒が沈む。


 3。明るくなる。


 台車の右後輪に挟まった魔素汚染の縁で、黒い滲みが半拍遅れて震える。


 ゲート本体は開いたままだ。

 けれど、一番強く揺れているのは、台車の右後輪側に出た黒い滲みだった。


 搬出台車の右後輪が、ゲートの吸い込みに連動している。


「右後輪が危険です」


 私は台車の下を指した。


「あそこの黒い滲みだけが、半拍遅れて震えています。ゲートの吸い込みに合わせて揺れています」


「そこを動かすと、吸い込みが台車側へ強まります」


『右後輪、絶対触るな!』


 レオさんの声が飛ぶ。


 リコさんがライトを、透明カバーの反射で右後輪が見えなくならない角度に固定した。


『ミオ、これでいい?』


「はい。そのまま。リコさん、すごく助かります」


 一瞬、リコさんの手が止まった。

 ライトの輪が、右後輪の手前で小さく震える。


『……うん。今度は、見てるだけにしない』


 その声のあと、光はもう揺れなかった。


 小さな声だった。

 でも、配信には流れた。


 《ライトぶれてない》

 《リコ、そのまま》

 《今は全員で止めろ》


 私は吸着シートの置き方を指示した。


「青い吸着シートの端だけを、台車の保全線の外側へ。投げない。拭かない。置いたら手を離してください」


 スタッフが台車の保全線の外から手を伸ばし、指定した場所へ吸着シートの角だけを重ねた。


 扉の下の魔素汚染に触れない。


 車輪跡にも触れない。


 黒い滲みが次に出る場所の、手前だけを押さえる。


『拭くな! 吸わせるだけ!』


 レオさんが叫ぶ。


 ゲートの光がまた膨らみ、扉の下の灰色の魔素汚染の縁に黒い滲みが差した。でも、広がる前に吸着シートの端で止まった。


 黒い泡がひとつ、扉の下で膨らみかけて、しぼむ。


 会場から、低い歓声が仮設壁を震わせた。


 私はまだ喜ばなかった。止めたのは黒い滲みの広がりで、ゲート本体はまだそこにある。


『搬出扉奥から、通信が入っています』


 マシロさんの声が変わった。


『ヴァルト本社側の遠隔管理端末から、ゲート制御信号を検出。ログ表示します』


 大型スクリーンの端に、短い文字列が出た。


 遠隔停止要求。

 対象、現場保全ロック(搬出台車固定)。

 処理、解除。

 素材回収優先。


 私は、言葉の意味を理解するより先に叫んでいた。


「固定解除しないで!」


 第3試験区画の全員が固まる。


「その『停止』は、ゲートを止める命令じゃありません。現場保全ロックを解除して、台車の固定を外す命令です」


『どういうことだ』


 夏目主任の声が低くなる。


「台車の固定を外すと、右後輪が動きます。車輪に挟まった魔素汚染が剥がれて、コーティング剤が破れます」

「ゲート側の吸い込みも、それに合わせて強くなります」


 私はスクリーンの文字を見た。


 素材回収優先。


 人の退避でも、証拠保全でもない。

 この状況で、まだ素材を持ち出すつもりだ。


 白テープを押さえる指に、痛いほど力が入った。

 怒りで手順を飛ばしたら、証拠を壊す。


 今やることは、台車を動かさない位置に線を引くことだ。


『深町氏』


 夏目主任の声が、会場のざわめきを止めた。


『本社側から搬出台車の固定解除命令が出ている。あなたの管理権限で停止できるか』


 深町さんの声が、少し遅れて入った。


『私の直接権限ではありません。本社側の自動安全処理です。危険物を区画外へ隔離するための――』


『では、現場責任者の承認は』


 夏目主任が、深町さんの言葉を切った。


『現場責任者の承認は、緊急時に一括で付与されます。個別の台車を、私が指定したわけでは――』


『管理者承認欄に、あなたの識別子が出ている』


 夏目主任が即座に返した。


 大型スクリーンの端に、もう1行が表示される。


 承認者、深町リョウスケ。


 深町さんの声が、マイクの前で詰まった。


『……緊急時の標準承認です。停止ではなく隔離を優先する規定で』


「違います」


 私は遮った。

 今度は、迷わなかった。白い仮設ラインは、もう第3試験区画から搬出扉へ伸びている。


「危険物を区画外へ出すための導線が、今ここにあります。あなたが避難補助導線と呼んだ道です」


 配信画面の中で、車輪跡がその線に重なる。


「避難する人の足跡はありません。あるのは台車の車輪跡です」


 マシロさんの映像が車輪跡を大きく映す。

 白い仮設ラインの下には、灰色の魔素汚染が残っていた。

 その先では黒い滲みが、2本の車輪跡と同じ幅で会場外へ伸びていた。


 言葉にするたび、旧搬入口で読んだハルトさんのメッセージが頭に浮かんだ。


 深町さんが来た。通常補修だから触るな。


 事故前日、ハルトさんは兄へそう送っていた。

 ハルトさんはきっと、石畳の溝に塗られたコーティング剤を見た。

 搬出側へ続く白い表示線と、その手前で塞がれた溝を見た。

 危険なものが外へ運ばれる。そう疑って、止めるために確かめようとした。


 でも、止めるところまでは届かなかった。だから今度こそ、私は最後のテープを貼った。


 搬出扉の前で、台車の車輪跡を壊さない距離に半円を描く。

 人の停止線は外側に残し、半円の内側に収まるのは、すでに残っている2本の車輪跡だけになるようにした。


「この半円の内側は、避難導線ではありません」


「危険物搬出導線です。人も台車も通しません。遠隔命令が来ても、台車をここから先へ動かしません」


 マイクがその声を拾い、会場スピーカーが一拍遅れて同じ言葉を返した。


 コメント欄に、遅れて文字が増えていく。


 《避難路って言ってた道?》

 《台車の跡ある》

 《え、待って》

 《白線で止めた》

 《人通すな》


 コメント欄のざわめきが流れる間も、私はハルトさんの写真に写っていた旧搬入口の石畳を思い出していた。

 視界がぼやけかけて、目の前の魔素汚染とテープの境目が少しにじむ。


 私は一度だけ瞬きをして、魔素汚染を見た。


 私が白線で囲った半円を、マシロさんの映像が赤くなぞった。

 人の停止線、台車の保全線、ゲートの脈動を見る目印。


 3本の線が、搬出扉の前でひとつの禁止区域になる。


『事故調査課、夏目』


 会場スピーカーが、はっきり鳴った。


『現場保全命令を発令する』

『第3試験区画搬出扉奥、深層素材台車、未報告ゲート本体、搬出導線全域を保全対象に指定』

『ヴァルト本社および現場管理者による遠隔操作、物理移動、清掃、コーティング剤追加を禁止する』


 大型スクリーンの端で、さっきの文字列が灰色に変わった。


 搬出台車固定解除、未実行。


 ざわめきが止まった。


『深町リョウスケ氏。あなたには現場管理者として、危険物搬出導線を避難補助導線として提示した疑いがある』

『現場保全妨害のおそれあり。現場警備班、深町氏を現在位置で確保。端末操作を停止させろ』


 配信者たちのカメラが、一斉に壇上側へ向いた。


 大型スクリーンには、「承認者、深町リョウスケ」の行だけが赤く残っている。


 深町さんの顔は見えない。でも、壇上側で椅子の脚が床をこする音がした。

 逃げようとして、周囲に止められているらしかった。


 人間側の操作は止まった。

 深町さんの指示では、台車はもう動かせない。


 次に動いたのは、ゲートの向こうだった。

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