第17話 回収要求、回収要求、回収要求
『管理画面に、搬出台車1号の回収要求が出ています』
マシロさんの声が、会場に響き、配信にも流れる。
大型スクリーンの端で、同じ行が何度も更新された。
回収要求、回収要求、回収要求。
『対象識別、搬出台車1号。深層素材コンテナ。表示は3秒周期で更新されています』
ゲートの光が、青黒く膨らんだ。
さっきまでの脈動とは違う。
搬出扉の下、石畳の溝には、灰色の魔素汚染がいつもと同じように残っている。
でも今、その溝から、黒い滲みが新しく流れ出してきた。
右後輪のほうへ、細く伸びていく。
白テープの端が、ふわりと浮く。
風はない。人も動いていない。
それでも、白テープの端だけが、ゲートへ引っ張られていく。
ゲートが、台車を取り返しに来ている。
「全員、そのまま。貼ってある白テープには触らないでください」
『押さえなくていいのか?』
レオさんが叫んだ。
彼はまだ第3試験区画の中で中継を続けている。
赤いジャケットの足元には、前に吹いた固定スプレーの半円が白く固まっていた。
「はい。押さえると、白テープの端のめくれ方が変わります。どの溝に動きが出ているのか、判断できなくなります。白テープのどの端が先に持ち上がるかを見ます」
『全員、白テープに触るな!』
レオさんが足を止め、周りのスタッフも白線の外で固まった。
扉の下の灰色の魔素汚染は、普通なら石畳に残った付着跡だ。
でも今は違う。
付着跡の横を、黒い膜が溝に沿って薄く伸びている。
その先の継ぎ目だけが、濡れたように光る。
「石畳の溝で、黒い膜が先に出ています。付着跡が動いたんじゃありません。溝を伝って、車輪側へ黒い滲みが広がっています」
『足元映像に時刻を付けて記録します』
マシロさんが即座に答えた。
「3秒より早いです。回収要求の表示が更新される前に、石畳の溝の黒い膜が動いています」
私は石畳の溝を見たまま、そう言った。
管理画面の表示は3秒周期。
でも、現場で吸引が来る周期は、それより早い。
透明なカバーの中で、深層素材が細かく震え始めた。
その振動が、台車のフレームを伝って右後輪の継ぎ目へ届く。
継ぎ目に残っていた魔素汚染の固まりが、震えで崩れた。
崩れた縁を、黒い滲みが回り込み、同じ角へ押しつけていく。
吸引が来るたびに、黒い滲みが固定スプレーの半円の外縁を削っていた。
このまま次の周期が来れば、半円が割れる。
右後輪の固定が外れる。
「右後輪側、固定スプレーにひびが入ります」
白い膜の外縁、その右後輪側の角に、黒い滲みが細くかかっている。
石畳には、削られた灰色の魔素汚染が粒のように残っていた。
次の周期で同じ場所から押されれば、白い膜の外縁からひびが走る。
『右後輪、映す!』
レオさんのカメラが足元へ向いた。
同時に、リコさんのライトが角度を変えた。
眩しすぎない。
でも、車輪と石畳の境目だけがはっきり見える角度。
『ミオ、これで見える?』
「はい。台車本体には当てないで、そのまま」
ぱき、と乾いた音がした。
固定スプレーの白い膜に、髪の毛ほどのひびが入る。まだ車輪には届いていない。
『見えた』
リコさんの声は震えている。でも、ライトは震えていない。
「助かります」
リコさんは何も言わず、ライトの先にある白テープの端を見つめていた。
『足元映像、残します』
トウマさんが言った。
『リコさんの声も入っている。今は説明より、次の周期を見てください』
私は、浮いた白テープの端を見た。
「はい。白テープの端も、同じ向きに引っ張られています」
回収要求。
回収要求。
画面の文字がまた重なり、白テープの端が搬出扉側へ取られかける。
青い吸着シートの角も、同じ向きに丸まった。
その動きで、2層旧搬入口で見た文字が戻ってきた。
返せ。
怪異ではなく、人間が残した文字。
久我ハルトさんの登録番号が、素材搬出タグへ変えられていた、あの場所。
持ち出した素材を返せ。
でも、証拠まで渡すわけにはいかない。
「返せって、言われても」
口から、勝手に漏れた。
レオさんが拾う。
『ミオ?』
「返すものと、返してはいけないものがあります」
私は吸着シートの端を見る。
さっき黒い滲みを受けた青いシートの角が丸まる。
できた隙間へ同じ滲みが入り込み、次の瞬間、めくれた端が石畳へぶつかった。
石畳との間に黒い滲みを挟んだまま、シートの角は浮いて戻りきらない。
「吸着シート、端がめくれます。3秒より早い。現場の周期を計測してください」
『計測します。2.48、2.51、2.49』
マシロさんのキー音が速くなる。
『ミオさんの読みと一致。現場の周期は約2.5秒。表示の3秒より早いです』
『事故調査課、夏目』
夏目主任の声が、会場全体を押さえた。
『現場保全命令を追加する』
『これはヴァルト本社の遠隔操作だけではない。ゲート側の物理反応を伴う』
『第3試験区画全域を準封鎖区域へ格上げする。三倉、必要な現場権限は』
「吸着シートの追加と、固定スプレーを使います。ただし扉の下には触りません」
『許可する。スタッフは三倉の白線外から補助。命令系統は事故調査課に一本化する』
深町さんの声は、もう割り込んでこなかった。
壇上側は見えない。でも、配信の端に会場コメントが流れていた。
《深町、止められてる?》
《囲まれてる?》
《まだゲート光ってる》
《そっち見て》
《ミオたん休む暇ないナリ》
深町さん側の声は、もうこちらまでは届かない。
けれど、ゲートの光はまだ膨らんでいる。
ヴァルトの遠隔命令は、マシロさんが記録に残した。
だから今、私が見るべきものは、人の顔ではない。
石畳だ。
どの溝から車輪側へ黒い滲みが回ってくるのか。
「吸引の方向を読みます」
私は膝をついた。
白テープ。吸着シート。固定スプレーの半円。台車の車輪側。搬出扉の下。
全部が同時に動いているように見える。
でも、順番がある。
最初に動くのは、搬出扉から見て右手前の溝だ。
右後輪より外側、台車から石畳1枚ぶん離れたところにある。
黒い滲みはその溝から石畳の上へ出て、右後輪へ向かう。
台車側の反応は最後だった。
ゲートは、まっすぐ台車を動かそうとしていない。
右手前の溝を回り込み、右後輪の固定を先に壊しに来ている。
「搬出扉から見て右手前の溝です」
『真っすぐじゃなくて迂回してるってことか?』
「はい」
溝の底に残った魔素汚染は、動いていない。
動いているのは、溝から外へにじみ出て、右後輪へ向かう黒い滲みだ。
そこへ吸着シートの端を置けば、車輪へ向かう勢いだけを落とせる。
「スタッフさん、吸着シートを追加します。搬出扉から見て右手前の溝、そこから外へ出てくる黒い滲みに端だけ当ててください」
「押さえないんですか」
「押さえると黒い滲みが溜まります。溝は塞がず、シートの端だけで受けます。車輪への直撃を1回外します」
スタッフが青いシートを持つ。手は震えている。でも、白線の外へ出ない。
私はテープで置き場所を示した。
「ここです。シートの端だけ、黒い滲みの通り道に重ねて。置いたら手を離す。押さえ続けない」
シートが石畳へ触れた。
次の吸引が来る。
端が浮きかけたが、シートの縁が溝から出た黒い滲みを受け止めた。
黒い滲みは右後輪へ当たる前に、そこで少し弱まった。
「今、拭かないで」
『拭くな!』
レオさんが即座に中継する。
「そのまま。車輪に当たる前で止めます」
私は固定スプレーを握った。
半円では足りない。前の半円は、搬出扉の手前で動きを止めるためのものだった。
今は、黒い滲みが右後輪へ届く前で止めたい。
面で固めれば、黒い滲みが固めた場所へ溜まる。
短い吹き跡を3つだけ置けば、道を塞がずに先端だけ止められる。
「固定スプレーは、右後輪へ届きそうな黒い滲みの先だけに吹きます」
『そこだけ?』
「全部固めると黒い滲みが溜まります。3点だけ。車輪までは固めません」
私は白線の外側から腕を伸ばし、石畳へ短く吹いた。
しゅっ。白い霧が、既存の半円の外縁へ重なる。
しゅっ。次に、吸着シートの端を抜けた黒い滲みの手前へ。
しゅっ。最後に、右後輪へ向かう黒い滲みの先へ。
線ではなく、点をつなぐ。
3つの吹き跡は、車輪の周りまでは届かない。
石畳に、短い白い吹き跡だけが残る。
次の周期で、吸引が来た。
ゲートの光が膨らみ、扉下から黒い滲みが押し出される。
白テープの端と吸着シートの端が同時に浮き、固定スプレーの古い半円に、ぱき、と細い割れが入った。
でも、その割れは車輪までは届かなかった。
黒い滲みの先は、新しい白い吹き跡のところで止まった。
台車側の車輪は震えた。
動かなかった。
今止めたのは、ただの仮止めだ。どこを完全に封鎖すればいいかは、まだ読めない。
『止まった!』
誰かが叫んだ。
『右後輪、動いてない!』
《止まった》
《掃除道具で?》
《戦ってないのに》
《車輪見ろ》
まだだ。
1回止めただけで、ゲート側の力が弱まったわけではない。
透明なカバーの中で深層素材がさらに細かく震えた。
さっきは端だけだった白テープが、今度は中央からめくれ始める。
吸引方向が、変わった。
「次、中央に来ます」
『中央に来るぞ!』
リコさんの声と同時に、搬出扉の下から黒い膜が伸びた。
石畳の溝に沿って5本に裂け、指を広げた手のように白線へ近づいてくる。
「剣を入れたら刃ごと持っていかれます。切らないでください。先端を映して」
『切るな! 先端、映せ!』
黒い鎧の男性が剣の柄から手を離し、青い照明下の女性配信者が悲鳴を飲み込む。
誰も攻撃しない。誰も走らない。
黒い膜は白線の手前まで伸び、吸着シートの端に触れた。
じゅ、と湿った音がして、シートの青が黒く滲む。
「交換しないでください。今剥がすと持っていかれます」
『吸着シートは交換するな!』
レオさんの声は少し枯れていた。それでも止めない。
『ミオ、次は何をすればいい』
「足元を映し続けてもらってください」
一瞬だけ沈黙したあと、レオさんのマイクが短いノイズを拾った。
『聞いてる全員、足元を映せ。顔じゃなくて足元だ。白線とシートと車輪を見えるようにしろ』
配信者たちのカメラが、次々に下を向いた。
派手な衣装も武器も表情も画面から消え、魔素汚染の付着跡、白テープの浮き、スプレーの割れ、吸着シートの端だけが残る。
私の画面だけでは追いつかない。
黒い滲みの分かれ方と白テープの浮き、車輪の震えを見失う前に、マシロさんの4分割表示が開いた。
『足元映像を統合します。白線、吸着シート、車輪、扉の下。4分割表示』
夏目主任が会場側へ告げる。
『深町リョウスケ氏の身柄は確保。ヴァルト現場スタッフの端末を一時保全する。第3試験区画の封鎖権限は事故調査課が保持する』
深町さん、確保。その言葉で、会場がまた揺れた。深町さんの連絡も、現場スタッフの端末操作も、いったん止まった。
けれど、車輪の震えと白テープの浮きはまだ止まらない。ゲートの光が今までより暗くなる。暗くなるのは、吸う前だ。
「次、大きいのが来ます」
『どこだ』
「……全部です」
白テープの端と中央、吸着シート、固定スプレーの白い吹き跡、台車側。
全部が同じタイミングで震え始めた。
吸い込む力は、もう1点に集中していない。石畳の上では、シートの端がまとめて浮き、黒い滲みが車輪側ではなく扉側へ引っ張られ始めている。
「皆さん動かないで。台車にも触らない。ライトは石畳。中継は足元。マシロさん、周期読み上げを」
『2.5秒。次、3、2、1』
吸引が来た。
白テープが一斉に浮き、吸着シートの端が黒くめくれる。
固定スプレーの半円がぱきぱきと割れ、透明なカバーの中で素材が1センチ浮いた。
『素材浮上!』
「ライトを下げて! 素材じゃなく石畳!」
『下げた!』
素材を見たら手が止まる。白テープと車輪を見れば、間に合う。
「全員、動かないでください。今触ったら、全部持っていかれます」
『全員、動くな! 触るな!』
レオさんの声が、配信を貫いた。
誰も動かなかった。
扉下からあふれ出た黒い膜は、行き場をなくして、吸着シートの端で広がるばかり。
指の形を作りきれないまま、ただの汚れになっていく。
汚れなら止められるし、どこから来たかも追える。
「素材の振動、落ちています」
『確認。浮上、1センチから3ミリへ低下』
マシロさんの声が少しだけ明るくなった。
車輪はまだ元の位置にあり、人は誰も動いていない。
『搬出台車、固定維持。右後輪、移動なし』
私はようやく、固定スプレーを握る指の力を少しだけ抜いた。
仮止め。それ以上ではない。
でも、ここで一度止まった。
私は固定スプレーの亀裂を見た。
割れの先が、途中で止まっている。
止まった場所は、私が吹いた点と点の間だった。
石畳1枚ぶん外側、コーティング剤の膜が薄く残った境目。
現場だけを見ても、そこへ何を置くべきかまでは読めない。
「マシロさん、事故前日写真を重ねてください。亀裂が止まった位置に、写真の石畳の溝とコーティング剤の境目を合わせて」
『写真ですか』
『久我兄から預かった事故前日写真、事故調査課保全フォルダから照合します』
トウマさんが続けた。
大型スクリーンの端に、3年前の写真が出た。2層旧搬入口、久我ハルトさんが送っていた、あの1枚。
ハルトさん。
彼も、この境目を見たのか。
私は何度も見ていた。
深町さんの姿、コーティング剤の跡、通常補修だから触るなという言葉。
でも、写真の端までは見ていなかった。
マシロさんが拡大する。
写真の左下、ただの反射だと思っていた場所に、短い矢印みたいな白い線があった。
『未確認線を検出』
マシロさんの声が震えた。
『写真内、区域番号の枠外側の白線跡。投影すると、亀裂が止まった境目と向きが一致します』
ただの反射ではなかった。
写真の端に、短い白線が残っていた。
「マシロさん、その写真、線だけ拡大してください」
『はい』
「トウマさん、アキトさんに確認を取れますか。写真と一緒に残っていた当時のメモに、何か書かれていないか確認したいです」
『すぐに連絡します』
私は画面上の白線から目を離さず、白テープを短く引き出した。




