第15話 第三試験区画、全員停止
夏目主任の指示が会場スピーカーから流れ切らないうちに、私とトウマさんは説明会場を出て、関係者用の仮設通路へ入った。
コメント欄の最後の1行が、まだ目に残っている。
レオさんが、第3試験区画へ向かったかもしれない。
仮設通路の白いシートの上を、私はトウマさんと並んで歩く。
奥の突き当たりが、第3試験区画の入口だ。
「ミオさん、配信映像を」
トウマさんが端末をこちらへ向けた。画面には、第3試験区画の中の配信映像が映っていた。
配信者たちはカメラの前で手を振り、観客は奥の展示台へ流れていた。
歓声と拍手の中、配信イベントは、もう始まっている。
映像の隅、配信者の足元で、石畳の継ぎ目から黒い泡がひとつ浮き上がった。
石畳の下に閉じ込めていた汚染が、表に出てきている。
配信者も観客も、まだ気づいていない。
「旧搬入口で見たのと同じ泡です」
私はトウマさんの端末から目を離し、自分の足元を見た。
仮設通路の中央には、奥の搬出扉から漏れた薄い灰色の魔素汚染の膜が広がっていた。
ここまで届いている。
そこを通れば、靴底に汚染が付いてしまう。
その靴のまま奥へ進めば、第3試験区画の石畳まで汚染を運んでしまう。
運んだ先で、新しい黒い泡が生まれる。
奥の事故を止めに来たのに、ここで新しい事故を起こしてしまう。
私は清掃バッグから白テープを取り出し、通路の右端に1本貼った。
曲がり角の手前にも、もう1本。
トウマさんが端末を操作した。
「マシロさん、第3内の全配信映像を出せますか」
『出します。公式カメラ3台、配信者カメラ7台。音声混線しています』
画面が分割された。
第3試験区画、白い仮設ライン、石畳の溝、素材採取用の展示台、そしていくつものカメラライト。
レオさんの赤いジャケットは、入口から10メートルほど奥にいた。腰に、赤いポーチも残っている。
その斜め前に、別の人気配信者グループ。
黒い鎧の男性が大きな剣を担いでいる。
女性2人組の魔術配信者が、青い照明の前で手を振っている。
奥では、スタッフが観客導線を押さえようとしていた。
多すぎる。
レオさんだけではなく、止める相手が画面の中に散らばっている。
《白線の人、見えてますか》
《第3もう入ってる》
《黒い泡ある》
《止めて、お願いだから止めて》
コメント欄の流れが、目の端で光る。
見たい、ではなかった。
止めて、という言葉がいくつも重なっていた。
同接の数字は上がっているのに、画面の空気は祭りではなく避難放送に近かった。
急上昇タグの横で、登録者数や案件タグではなく、危険を知らせる言葉だけが増えていく。
私は端末の映像を足元から順番に見た。
顔ではなく足元、誰が有名かではなく、どの靴底が灰色の魔素汚染を拾っているか。
第3試験区画の石畳は、一見きれいだった。
イベント用に磨かれていて、白い仮設ラインも真新しい。だから、危ない。
真新しい仮設ラインの下に、灰色の魔素汚染が隠れている。
「危ない順に言います」
自分に言い聞かせるように言った。
「一番危ないのは、奥の展示台前。黒い泡が石畳の溝から出ています」
「次に左側の青い照明下。仮設ラインの端に灰色の魔素汚染の筋が見えます」
「3番目が入口側、レオさんの右足元。まだ泡は出ていませんが、靴底の溝に灰色の魔素汚染が入り込んでいます」
『記録しました』
マシロさんの声が硬い。
『各配信のコメント欄へ、ダンジョン庁名義で停止指示を流します』
「コメントだけでは足りません」
私は画面の中のレオさんを見た。
彼は公式コメントの停止指示に気づいていた。
でも、カメラを意識している。
戻れば逃げたと言われ、進めば復権できる。
そういう顔だった。
画面の外へ押し出された日の声が、ほんの一瞬だけよみがえった。
でも今は、仕返しをする時間ではない。
レオさんを止めなければ、彼だけでなく、周りの配信者も巻き込まれる。
「マシロさん、レオさんの配信音声に、こちらの通話を入れられますか」
『できます。ただ、相手側が切る可能性があります』
トウマさんが頷き、公式スタッフへ指示を飛ばす。
数秒後、こちらの端末にレオさんの配信音声がつながった。
『第3試験区画、思ったより静かだな。封鎖とか言ってるけど、現場判断で』
「レオさん」
レオさんのマイクが、私の呼びかけを拾った。
レオさんの足が止まり、カメラが揺れた。
『……三倉?』
「足元を映してください。今すぐです」
『またお前の白線芸かよ。こっちは復帰1発目で』
「右足の靴底の溝に、灰色の魔素汚染が入り込んでいます」
レオさんの言葉が止まった。
カメラが、少しだけ下がる。
赤い靴紐、黒い石畳、白い仮設ライン。そのすぐ外、靴底が触れた石畳の溝に、灰色の魔素汚染の筋が細く残っていた。
『これが何だって』
「靴を持ち上げないでください。引きずらないで。その場で止まって」
『命令すんな』
「命令ではありません。あなたの右後ろ、青い照明下の白い仮設ラインの端に、灰色の魔素汚染の筋が出ています」
レオさんのカメラが、反射的に右後ろへ向いた。
青い照明の下。
女性配信者が、まだ笑顔でカメラに手を振っていた。
そのヒールの先で、黒い泡がひとつ膨らんだ。
ぱちん、と弾ける。
画面の音が、嫌に軽かった。
《何、今の》
《泡?》
《床から出たぞ》
レオさんのカメラが、半拍だけ足元から外れた。
「レオさん、あなたが一番近くで声を届けられます」
『俺が?』
「はい。今から――」
言いかけて、いくつもの配信画面が目に入った。
このまま話せば、複数の配信へ同時に入る。
そこで声が止まった。
誰にどの順番で伝えるかは見えている。
でも、このまま説明すれば、届く前に次の泡が生まれる。
『短く言え。俺が叫ぶ』
その一言で、言うべきことが絞れた。
「私の指示を、そのまま中継してください。あなたの声なら、第3の中にいる配信者が聞きます」
沈黙。
画面の中で、レオさんの指の関節が白くなっていた。
いつもの軽い笑いは出ない。画面の端で、録画中を示す赤い点だけが点いている。
でも、青い照明下の女性配信者は、まだ泡に気づいていない。
奥の展示台前では、黒い鎧の男性が1歩踏み出そうとしている。
レオさんは、カメラを持つ手を一度だけ握り直した。
『全員、止まれ!』
彼の声が、第3試験区画に響いた。
配信者の声ではなく、リーダーの声だった。
『顔を見るな、足を動かすな! 三倉の指示を聞け!』
コメント欄が一瞬、止まったように見えた。
次に、爆発した。
《レオが三倉って呼んだ》
《お前が言うんかい》
《助かる》
《止めろ止めろ》
コメント欄の勢いで、白テープの芯を握る指に力が入る。まだ緩める場面ではない。
レオさんは、カメラに向かって頭を下げた。
『頼む。ふざけてる場合じゃない。第3の中にいるやつ、俺の声が聞こえるなら止まってくれ。お願いします』
お願いします。
その言葉で、清掃バッグのベルトが肩に食い込んだ。次の指示を出すのが一瞬遅れそうになった。
あの日、レオさんは私を画面の外へ押し出した。
掃除係はいらない、と言った人が、今は他の配信者を死なせないために頭を下げている。
「ありがとうございます」
私は短く言った。
長く言うと、崩れそうだった。
「では中継してください。奥の黒い鎧の方、剣を下ろすと体が前へ傾きます。そのまま膝だけ緩めて、左足のつま先を内側へ5センチ」
『奥の黒い鎧! 剣そのまま! 膝だけ緩めろ、左つま先内側5センチ!』
画面の奥で、男性が動きを止めた。
最初は怒鳴り返そうとしていた顔だった。
でも、足元の石畳の溝から黒い泡がもう1つ浮き上がったのを見て、指示通りにした。
泡が、彼のブーツの外側で止まる。
「青い照明下の2人、カメラを足元に向けてください。ヒールを上げないで、かかとはつけたまま体を後ろへ」
『青い照明の2人! 足元映せ! ヒール上げるな、かかとつけたまま後ろ!』
女性配信者の口元が固まった。
カメラが足元へ向く。
白い仮設ラインの端に、灰色の魔素汚染の筋が細くにじんでいる。
にじみ出た先だけ黒く濡れて、泡へ変わりかけていた。
「スタッフさん、左壁の消火器ボックスの横に清掃具ラックがあります。黄色のモップではなく、青い吸着ワイパーを取ってください」
通路のスタッフが走りかけた。
「走らないで!」
私とレオさんの声が重なった。
『走るな! 白線の外側、通路の右端!』
スタッフがびくっと止まり、歩き直す。
その足元を見て、私は次の白テープを貼った。
通路のこちら側からでも、溝に残った灰色の魔素汚染の筋がどちらへ続いているかは見える。
映像の足元、コメント欄の指摘、現場スタッフの靴跡、清掃具の位置。
それを重ねると、次に止める場所が見えた。
「青い吸着ワイパーを、白い仮設ラインの上に置いてください。拭かない。押さえるだけです」
『拭くな! 置け! 押さえるだけ!』
スタッフの手が震えている。
ワイパーが白い仮設ラインの上に置かれた瞬間、灰色のにじみの勢いが弱くなった。
黒い泡が、膨らみきる前にしぼんだ。
《止まった》
《拭かないの大事なのか》
《清掃具で区画止めてる》
《戦闘勢、マジで動くな》
会場側の大型スクリーンにも、第3試験区画の映像が映されていた。
説明会場で足止めされた深町さんは、そこから逃げられない。
壇上の端、私が引いた白線の手前。
自分が安全だと説明した搬出導線の前で、第3試験区画の事故進行を全員と同じ画面で見ているはずだった。
『深町氏、現場のコーティング剤について説明を』
夏目主任の声が会場スピーカーから低く響いた。
『あなたが避難補助導線として示した搬出ゲート前で、灰色の魔素汚染と黒い泡が確認されています。なぜ安全な避難導線の足元に、こんな汚れがある』
深町さんは答えない。
答えられない。
第3試験区画の石畳の溝から出ている黒い泡は、根拠不明の噂ではなかった。
今、配信に映っている。
今、止めなければならない危険だった。
『三倉、次!』
レオさんの声で、私は画面へ意識を戻した。
入口側の観客導線に、人の流れができかけている。
観客が退避しようとして、出口へ向かっているのだ。
でも、その出口は搬出導線と交差している。
さっき深町さんが、避難補助導線として示した場所。
出口へ向かえば、靴底についた魔素汚染まで会場の外へ出てしまう。
「観客導線を止めます」
私はスタッフへ向いた。
「観客席の前列を立たせないでください。後列から右側通路へ。前列は座ったまま、足を通路へ出さない」
「パニックになります!」
「立たせるほうがパニックになります。足元を見えなくするから」
トウマさんが即座に会場スタッフへ伝える。
マシロさんが公式コメントへ流す。
『観客の皆さん、足元の白線は越えない境界です。前列の方はその場で待機。後列の方は大型スクリーンの導線図と係員の誘導に従い、右側通路へ移動してください』
大型スクリーンの端に、移動用の簡易導線図が出る。
私がさっき貼った白線が、マシロさんの手で図の中の境界線になっていた。
進む線ではなく、止まる線、待つ線、踏んではいけない線。
第3試験区画の中では、レオさんが同じことを叫んでいた。
『入口に戻ろうとするな! 戻るやつが魔素汚染を踏む! 奥の黒鎧、そこで止まれ! 青照明の2人、手を壁につけろ! スタッフ、ワイパー押さえたまま!』
彼の声は荒い。
でも、逃げていない。
自分が目立つためではなく、全員を止めるために声を出している。
その姿が、少しだけ悔しいくらい、ちゃんとリーダーだった。
「レオさん」
『何だ!』
「あなたの左後ろ、石畳の溝をふさいでいるコーティング剤に隙間があります。そこへ固定スプレーを」
『俺、持ってねえよ!』
「腰の赤いポーチです。中身を抜いていなければ、固定スプレーが入っています」
レオさんが固まった。
画面の端で、彼の手が腰のポーチへ伸びる。
あの赤いポーチ。
私がグリッター・ファングにいた頃、撤収用に渡していたもの。
「邪魔だ」と言われながら、毎回補充していたもの。
追放されたあと、捨てられたと思っていた。
『……あった』
レオさんの声が、少し低くなった。
ポーチから固定スプレーが出てくる。
ラベルは擦れていた。
でも、残っていた。
「石畳の溝には直接吹かないでください。溝の手前、白い仮設ラインの外側へ、半円を描くように吹いてください」
『直接じゃない。手前、白い仮設ライン外側、半円』
彼は復唱した。
今度は、勝手に動かなかった。
スプレーの白い霧が、石畳に半円を描く。
黒い泡がその手前で止まり、ぷつぷつと小さく萎んだ。
レオさんのカメラが、足元を映し続ける。
派手な決め台詞も、見栄えのする剣撃もない。ただ、泡が止まり、誰も動かず、誰も死なない。
それが、今いちばん派手な成果だった。
『三倉』
レオさんが、小さく言った。
『俺、あのポーチ、とっくに捨てたと思ってた』
「今は後でいいです」
『わかってる』
彼は短く答えた。
『でも、今これに救われてる』
コメント欄がまた速くなる。
《レオ、そこは謝れ》
《今は止めろ、後で土下座しろ》
《生きてから謝れ》
生きてから。
私は白テープの残りを親指で押さえた。
誰も走らず、剣を振らず、出口へ殺到もしない。
ただ足元を見て、白線の前で止まっている。
「第3内、全員停止確認」
マシロさんが言った。
『公式カメラ上、移動中の配信者なし。スタッフ2名、吸着ワイパーで封止補助中。観客導線は後列から右側へ分離開始』
「黒い泡は」
『奥の石畳の溝で継続。ただし拡大速度は落ちています』
黒い泡は、まだ出続けている。消えたわけではない。
それでも、誰かが次の1歩を出す前に、数秒を稼げた。
私は第3試験区画の入口に着いた。
白い仮設ラインの向こうに、レオさんがいる。
目が合った。
配信カメラ越しではなく、直接。
レオさんは何か言いかけて、やめた。それから、ほんの少し頭を下げた。今度は、カメラに見せるための仕草ではなかった。
私は頷くだけにした。許したわけではない。
でも、止まってくれたことは事実だった。
「ミオさん、奥」
トウマさんの声がした。
同時に、レオさんのカメラが区画の奥へ向く。
展示台のさらに向こう。
搬出用と書かれた扉が、半分だけ開いていた。
その隙間から、青黒い光が漏れている。
別の配信音声から、リコさんの声が入った。
そうだ、第3試験区画には、リコさんも体験配信枠で入っていた。
『待って。奥の搬出扉の向こう、何かある』
カメラの映像が扉の向こうを大きく映す。
扉の向こうに、台車が見えた。
金属フレーム、透明なカバー、青黒く光る深層素材の塊。その奥に、黒い輪郭の楕円。
楕円の周りだけ、照明の線が折れている。
台車の影が、細くねじれていた。
スピーカーの声もそこで薄く歪んだ。
未報告ゲート。
会場スピーカーの向こうで、夏目主任の声が一段低くなった。
『深町リョウスケ氏。あなたが避難補助導線と呼んだ搬出扉の奥に、深層素材の搬出台車および未報告ゲートが映っています』
説明会場のざわめきが、配信音声越しにも聞こえた。
『これは安全判断ミスではない。危険物搬出導線を避難導線に偽装した疑いがある』
写真でも、ログでもない。
第3試験区画の奥に、深層素材と未報告ゲートがそのままある。
レオさんの配信画面が一瞬だけ揺れた。レンズが黒い楕円を画面中央に入れ直し、端の赤い録画点だけが小さく点いている。
『三倉』
彼の声は、さっきまでと違っていた。
『これ、フェス用の試験区画じゃない。ここを搬出に使ってる』
黒い泡が、搬出扉の下からまたひとつ弾けた。
私は白テープの端を親指で押さえ、芯から短く引き出しながら、残りの長さを目で測った。
避難列は止まった。誰も搬出導線へ踏み込んでいない。
でも、搬出扉の下では黒い泡がまだ弾けている。
人を帰すための白線は、入口側に引けた。
次は、あの扉の前に白線を引く番だった。




