第14話 白線の人、説明会場へ
深層フェスの安全統括説明会は、配信向けの会場で開かれていた。
壁一面の大型スクリーンには探索者事務所のロゴとスポンサー名が並び、中央の壇上には深町リョウスケが立っていた。
彼は、黒いスーツの襟元を整えながら、落ち着いた声で話していた。
『本イベントでは、全試験区画において事前安全確認を完了しています。第3試験区画についても、ヴァルト安全管理部が責任を持って――』
スクリーンに、避難導線図が映る。
太い矢印は、第3試験区画から壇上裏の搬出ゲートへ伸び、そこから関係者廊下へ抜けている。
『万が一の際は、こちらの搬出導線を避難補助導線として使用します』
責任を持って。
その言葉で、3年前の旧搬入口を思い出した。
久我ハルトさんが、事故の前日にコーティング剤を見つけた場所だ。
メッセージには「深町さんが来た、通常補修だから触るな」と残っていた。
その深町さんが、今、何百人もの前で安全を語っている。
3年前、私はあの名前を書類で見ただけで、何もできなかった。
あの時から、深町リョウスケはずっと現場を動かす場所にいた。
今度は、見るだけでは終わらせない。
私はダンジョン庁の移動車両の中で、その配信を見ていた。
車両はもう、会場の関係者入口へ入っている。
トウマさんの端末には、旧搬入口の写真と、事故調査課の小鳥遊マシロさんから届いた第3試験区画の設営写真が並んでいた。
緑色の「安全確認済み」表示。
その下には、第3試験区画の石畳が映っていた。
石と石の細い溝に、薄い黄色のコーティング剤が厚く盛られている。
旧搬入口と同じだ。
通常補修なら、汚染を取り除いて、溝はそのまま残す。
これは、汚染ごとコーティング剤で塞いだ塗り方だ。
「ミオさん、読み取れますか」
「読み取れます。今も同じ隠し方です」
答えた声が、自分でも少し硬かった。
外から歓声が聞こえた。
観客が待っているのは安全説明ではなく、危険な区画が開く瞬間と、誰かが深層素材を取る場面だ。
その熱が、建物の外壁越しにこちらへ押しつけてくる。
私は清掃バッグを肩にかけた。
白テープ、吸着シート、固定スプレー、採取フィルム。
戦う道具ではない。
でも、止める道具だ。
「ミオさん」
トウマさんが車を降りる前に言った。
「会場に入ったら、深町氏は、あなたが怒って責めに来ただけだと印象づけようとします」
「はい」
「最初に話すのは、人のことではなく、現場のことにしてください。コーティング剤の塗り方が通常補修と違うこと、採取した結晶片のこと。物の話から入ってください」
「はい」
「それから、観客に下がってもらうために、白テープで境界を引いてください」
清掃バッグの重みが、肩に沈んだ。
「分かりました」
関係者入口を抜けると、説明会場の裏へつながる廊下に出た。
その先は、仮設の連絡通路を経由して第3試験区画の搬出ゲート裏まで続いている。
足元の仮設シートはまだ新しい。
でも、その継ぎ目に灰色の魔素汚染の筋が残っていた。
搬出導線に沿って、会場裏まで伸びている。
「トウマさん、ここも」
「記録します」
彼はすぐに端末を向けた。私はしゃがみ、シートの継ぎ目に採取フィルムを押し当てる。
採取フィルムには、灰色の魔素汚染の筋と、深層素材由来の青く光る結晶片が一緒に残った。観客席のすぐ裏まで届いている。
説明会場の扉が開いた。
深町さんの声が、はっきり聞こえた。
『一部SNSで、旧事故に関する根拠不明の情報が流布されています』
『しかし本日の深層フェスとは無関係です』
『私たちは安全を最優先に』
私は扉の前で立ち止まった。
旧事故、根拠不明、無関係。
3つの言葉で、3年前の旧搬入口と今日の会場を切り離そうとしている。
でも、旧搬入口の事故前日写真では、区域番号『B-3』の白い枠の先にエレベーター扉の下の錆が写っていた。
今日の搬出導線図の矢印も、壇上裏の搬出ゲートへ向かっている。
場所は違うのに、危険を隠した溝の先はどちらも搬出側へ続いていた。
トウマさんが扉を押した。
会場の光が一気に入ってきて、視線が集まった。
壇上の深町さんもこちらを見て、一瞬だけ表情が消えたあと、すぐに整った笑みを戻す。
「瀬名トウマさんですね。説明会中ですので、個別のご質問は後ほど」
「質問ではありません」
トウマさんが、私の隣で短く返した。
「証拠保全済み記録に基づく、安全停止要請です。判断を出したのは、現場の清掃担当者です」
深町さんの視線が、トウマさんから私へ移った。
ざわ、と会場が揺れた。
配信者たちのカメラがこちらへ向く。
コメント欄がスクリーン横のサブモニターに流れていた。
同接表示の桁は、入場説明のころより2つ増えている。
切り抜き用の短いタグが画面端で点滅し、誰かが「白線の人が来た」と書いた瞬間、流れが一段速くなった。
《え、白線の人?》
《深町いるじゃん》
《説明会に乗り込むのは草》
《いや顔がガチ》
深町さんは、壇上の端へ1歩動いた。
「安全停止要請というのは、非常に重い言葉です。根拠をこの場で示せないなら、イベント進行妨害に」
根拠を示す。
それだけなら、車の中で何度も並べた。
でも、コメント欄とカメラがこちらへ向いた瞬間、声の出し方が分からなくなった。
「足元から」
トウマさんが低く言った。
「示します」
私は、思わず前へ出ていた。
声が震えないように、清掃バッグの肩紐を握る。
「三倉ミオです。第3試験区画の入場ゲート前に、通常補修ではないコーティング剤の跡があります。石畳の溝を塞ぐ塗り方です」
深町さんの目が、細くなる。
「現地確認もしていない方が、写真だけで断定するのは危険ですね」
「断定ではなく、停止要請です」
トウマさんが言った。
「危険の蓋然性が高い時点で、試験区画への入場は止めるべきです」
「写真を」
私はトウマさんに頼んだ。
会場スクリーンの端に、ダンジョン庁の緊急安全割込表示が出る。
深層フェスの安全規約では、緊急安全基準が発令された場合、庁の安全表示が会場設備に優先される。
大型スクリーンの一部が切り替わる。
マシロさんが事故調査課経由で差し込んだ画面に、第3試験区画の石畳写真、旧搬入口の3年前の写真、旧搬入口で保全した採取フィルムが順に並んだ。
第3試験区画の写真には、石畳の溝を覆う黄色いコーティング剤。
旧搬入口の写真には、同じ塗り方の跡。
その採取フィルムには、白く焼けたコーティング剤片。
会場のざわめきが大きくなる。
《同じじゃね?》
《塗り方同じじゃね》
《これフェス会場の写真?》
《溝に蓋する塗り方は通常補修じゃないですね》
《塗り方が似てるだけで止めるの?》
《第3もう待機列できてるぞ》
深町さんは、まだ笑っていた。
「似ている、という印象だけで安全統括を止めることはできません。会場設営には似た資材が使われることも――」
「資材の色だけではありません」
私は清掃バッグから、白テープを1本取り出した。
壇上へ上がるのではなく、会場の石畳へ貼る。
入口から壇上までの通路を横切るように、白線を貼った。
通るための線ではない。
観客席側へ下がってもらうための境界だ。
「この白線の向こう、壇上側が、深町さんの示した搬出導線です」
会場が静かになる。
「灰色の魔素汚染の筋は、第3試験区画の前で止まっていません。搬出用の仮設ラインに沿って、この会場裏まで続いています」
私は採取フィルムを掲げた。
光を受けて、フィルムの結晶片がいくつも青く光った。
「この会場裏で、同じ青い結晶片を採取しました。観客席の裏まで届いています」
これは過去の事故ではなく、今の足元の話だった。
配信者たちが自分の靴を見て、スタッフが通路の端へ目を落とした。
コメント欄の速度が上がる。
《足元やばいの?》
《今どこ》
《また白線?》
《いや続けて》
《第3行くな》
深町さんの笑みが、ほんの少し薄くなった。
「採取したというなら、正式な分析を待つべきでしょう。イベントを止めるほどの――」
「待てません」
私は遮った。
「石畳の溝を塞いだコーティング剤は、汚染を取り除くためのものではありません」
私は足元の白線を指した。
「灰色の魔素汚染は、溝の中に残ったままです。上からコーティング剤を塗って、見えなくしているだけです。だから、仮設シートの継ぎ目にも同じ跡が出ています」
私はスクリーンに残っている避難導線を見た。
「スタッフは、この搬入口から関係者廊下へ出入りしています」
矢印は、スクリーン横の搬入口から壇上裏へ続いている。
「登壇者は、ここを通って壇上へ出ます」
その先に、第3試験区画へ向かう搬出ゲートがある。
「そして、この先へ進めば避難できるように見せています」
スクリーンの矢印と、床に貼った白線が同じ場所を示している。
矢印の先へ進むには、この白線を越えなければならない。
「でも、ここは避難導線ではありません。汚染を会場外へ運ぶ搬出導線です」
採取フィルムには、灰色の魔素汚染の跡と青い結晶片が一緒に残っていた。
ただの汚れなら、青く光る結晶片は出ない。
スタッフや配信者がこの場所を踏めば、魔素汚染が靴底につく。
そのまま会場の外へ出れば、どこまで運ばれたか分からなくなる。
深町さんが、マイクを持ったまま壇上の端へ動いた。
視線は観客ではなく、壇上裏の扉へ向いている。
その先は、さっき彼が避難補助導線と呼んだ場所だった。
説明会を中断し、関係者対応に切り替え、時間を稼ぐつもりなのだと思った。
でも、私は先に白線を引いていた。
「そこは通れません」
会場全体が彼の足元を見た。
壇上の端、黒い革靴の先、その下の仮設シートの継ぎ目に、薄い灰色の魔素汚染の筋が残っている。
「壇上裏の搬出導線にも、第3試験区画から続く灰色の魔素汚染の筋があります。今そこを踏むと、汚染を会場外へ運びます」
深町さんは、そこで動けなくなった。
さっきまで自分で「万が一の避難導線」と説明していた道が、公開の画面上で塞がれている。
会場のカメラは、深町さんの顔ではなく、彼の靴先と白線を映していた。
配信者のカメラも、靴先と白線を捉える。
配信者の誰かが、思わず声を上げた。
「マジで止まった」
「深町さん、足元映していいですか?」
「いや映ってる、全部映ってる」
コメント欄が荒れる。
《白線で封鎖は熱い》
《深町どこ行くの》
《白線の人つよつよナリ》
《そこ危ないのか》
《第3試験区画止めろ》
深町さんは、ゆっくりマイクを持ち直した。
「会場の皆さん、落ち着いてください。これは演出ではありませんが、現時点で人体への影響が確認されたわけでは――」
「人体への影響が出てからでは遅いです」
トウマさんが言った。
「3年前も、同じ危険に気づいた探索者がいました」
会場のざわめきが、少し沈む。
私は、アキトさんの声を思い出していた。
ハルトは、逃げたんじゃなかったんですね。
明日、責任者に確認すると書き残した人が、その確認に行けなかった。
だから、今度は。
「深町さん」
私は壇上を見上げた。
私はまっすぐ深町を見た。
書類で名前を見ているだけだった私は、もういない。
アキトさんから、記録使用の許可はもらっている。
「3年前、久我ハルトさんは、今日と同じコーティング剤の塗り方を見つけていました。通常補修ではないと気づいたからです」
深町さんの笑みが、完全に消えた。
会場のざわめきも、一瞬止まった。
「その時、あなたは『通常補修だから触るな』と言った」
スクリーンの端には、事故前日の写真とメッセージの保全済み表示が残っている。
「アキトさんの端末に、事故前日のメッセージが残っています。写真も、送信ログも、複製保全済みです」
「個人の端末記録を、この場で――」
深町さんは、そこで言葉を切った。
「……ここで止めたら、ヴァルトは、もう」
マイクが、その小さな声を拾った。
近くの配信者が、スマホを持つ手を止めた。
深町さん自身が、その言葉に目を見開いた。
「彼を証拠にするためではありません」
言葉が少しだけ熱くなった。
でも、怒鳴らなかった。
怒りで前へ出れば、足元の証拠を自分で壊す。
「昔と同じ危険な通り道を、今も避難導線として隠しているからです」
私は、スクリーンの第3試験区画写真を指した。
「ハルトさんが残した確認を、今度は果たします」
私は床の白線へ視線を落とした。
「第3試験区画へ入らないでください。いま引いた白線より観客席側へ下がってください」
マシロさんの声が、会場スピーカーから流れた。
『ダンジョン庁技官、小鳥遊です』
『緊急安全基準に基づき、第3試験区画への入場一時停止を要請します』
『入場ゲート前、搬出導線、壇上裏を封鎖。現地職員、白線封鎖に従ってください』
続いて、別の低い声。
『事故調査課、夏目』
『要請ではなく指示に切り替える。第3試験区画を封鎖』
『深町リョウスケ氏は現在位置で待機。導線上の灰色の魔素汚染の筋と踏み跡を保全しろ』
会場がどよめいた。
配信者たちが一斉にスマホを掲げる。
誰かが「第3止まった!」と叫んだ。
スタッフが走る。
でも、その走り方が危ない。
「走らないで!」
私は反射的に声を上げた。
「搬出ゲートの前を避けて、観客席側の通路から回ってください。走ると魔素汚染が散ります」
スタッフの足が止まる。
私は会場の石畳へ、白テープを次々に貼った。
通っていい場所を示し、魔素汚染の残る継ぎ目を避けさせる。
スタッフの靴が、線の前でそろって止まる。
配信者のひとりが、自分のカメラを足元へ向けた。
「見える? 白線の人、会場を封鎖してる」
コメント欄に、短い言葉が重なった。
《止めてくれてる》
《え、もう中止?》
《第3の人戻れ》
《レオ、第3向かってない?》
壇上の深町さんは、もう声を出さなかった。
マイクを握ったまま、白線の手前で、自分が「避難補助導線」と呼んだ場所を見下ろしている。
会場の大型スクリーンには、その足元と私の引いた白線が、
ひとつの画面の中に並んで映り続けていた。




