第10話 存在しない地下八階
古いエレベーターの表示灯が、存在しない地下階を示していた。
地下2階、地下3階、地下4階。
これはダンジョンの階層表示ではない。
設備用の地下階表示だ。
東京都第7ダンジョン、通称・深草迷宮の2層旧搬入口に、地下4階へ降りる設備は登録されていない。
一般公開図面にも、ヴァルトが提出した資料にもない。
それでも表示灯は、地下5階、地下6階へとゆっくり数字を下げていく。
表示灯の赤が、暗い搬入口の壁ににじんだ。
「トウマさん」
「はい」
「乗ってはいけません」
私が続けるより早く、トウマさんは職員へ手を上げていた。
「全員、エレベーターから3メートル下がってください。三倉協力者の判断を優先します」
その言い方に、周囲がすぐ動いた。
昨日と違って、指示がそのまま通る。
私はエレベーターの前にしゃがむ。
扉の下、石畳の溝、金属の継ぎ目。
黒い滲みは、扉の中からあふれているのではない。
石畳に伸びた筋の先が、扉の下へ向いている。
逆だ。外へ流れ出たのではなく、扉の下へ吸い込まれる向きに筋が残っている。
見ただけでは、何を動かしているのかまでは分からない。
けれど、自然発生の流れ方ではなかった。
「流れが逆です」
私は言った。
「周期を見ます。自然発生なら、こんな一定の間隔にはなりません」
ヴァルト担当者の顔が歪む。
「根拠のない推測を」
「では、周期を確認しましょう」
トウマさんが即座に言った。
「三倉協力者の現場観察に対し、ヴァルト担当者が根拠のない推測と発言。測定を続けます」
私は清掃バッグから残滓計を出し、計測を開始する。
数値は跳ねない。
代わりに、一定の間隔で小さく上下する。
床が3秒だけ細かく震え、奥のワイヤーが短く鳴る。
そのたびに、扉の下に残った青い結晶片だけが外へ押し出される。
さっき見た黒い筋は、前に何かが扉の下へ吸い込まれた跡だった。
青い結晶片は、いま奥の機械が動くたびに、隙間から外へ押し返されている。
向きは逆で、同じ流れでもない。
自然発生ではなく、機械が刻む周期だった。
「自然発生のゲートではありません」
私は表示灯を見上げる。
地下5階、地下6階と、表示灯の点灯位置はまだ下へ移っている。
「表示は下へ向かっています。でも床の振動と、ワイヤーに荷重がかかる音は、下から荷を上げる設備の動きです」
「搬出用ですか」
トウマさんが短く聞く。
「まだ断定できません。でも、人を乗せる動きではありません」
ヴァルト担当者は、唇を薄く結んだ。
「では、記録に残しましょう」
トウマさんがすぐに続けた。
「存在しない地下階表示。機械的な周期反応。三倉協力者は、通常のゲート反応ではないと判断」
ヴァルト担当者の指が、資料端末のフチを強く押した。
トウマさんが、彼の前へ半歩だけ出る。
「直接接触は禁止です」
「私は何も――」
「あなたの重心が三倉協力者側へ動きました」
トウマさんは声を上げなかった。
その姿勢と、点いたままの記録端末だけで、担当者はもうこちらへ寄れない。
「これも残します」
担当者は歯を食いしばった。
私は残滓計を持つ指の力を少しだけ抜いた。
トウマさんと、点いたままの記録端末がある。
その距離があるだけで、手元の震えが減る。
表示灯は、地下8階で止まった。
存在しないはずの地下8階。
エレベーターの奥で、低い音がした。
荷重がかかった音、古いワイヤーがぎしりと鳴る。
「来ます」
私は白テープを石畳へ貼った。
エレベーター扉から3メートル、左右の壁まで。
人が越えてはいけない線。
「この線より前に出ないでください。黒い泡は石畳の溝を走ります。踏めば、靴底から足首へ上がります」
職員たちが頷く。
ヴァルト担当者だけが、白テープを睨んでいた。
トウマさんが言う。
「ミオさん。開けますか」
「いいえ」
私は首を振った。
「開けたら証拠が壊れます。向こうが開くまで待ちます」
待つあいだ、白テープの向こう側だけがやけに広く見える。
薬剤が効く時間、残滓が落ち着く時間、石畳が乾く時間。
私はエレベーター扉の下に、吸着シートを半分だけ差し込んだ。
全部ではない。
証拠を取るための半分。
残り半分は、黒い泡が生まれた時に止めるため。
「証拠採取と封止を分けます」
「手順も残します」
トウマさんが言う。
声は、いつもの半歩後ろから聞こえた。
私は頷き、扉の下から残滓計を少し横へずらした。
残滓計の数値が上がる。
表示灯は、地下8階、地下7階、地下6階へ戻り始めた。
何かが上がってくる。
職員のひとりが、無意識に後ずさる。
ヴァルト担当者は、汗をかいていた。
「あなたは知っていたんですか」
私は思わず聞いた。
トウマさんがこちらを見る。
でも、トウマさんは止めなかった。
担当者は唇を噛む。
「現場のことは、現場判断で」
「その表現で残します」
トウマさんが言う。
「ヴァルト担当者は、存在しない地下階表示と周期反応について、現場判断という語を使用」
担当者は「現場判断」と言い直しかけて、口を閉じた。
記録欄に残った語は、もう声で消せない。
表示灯が、地下3階へ戻る。
地下2階、今いる階で止まる。
扉の隙間から、白い冷気が漏れた。
低層にはない、鉱石と湿った鉄を混ぜたような匂いが広がる。
吸着シートが、青く染まり始める。
「深層素材の反応です」
私は言った。
扉はまだ開かない。
それでも、青く染まり始めた吸着シートが先に証拠になっている。
端末画面には、存在しない地下階表示、機械的な周期反応、青く染まり始めた吸着シートが3つの枠で並ぶ。
でも、扉の向こうだけはまだ記録になっていない。
その時、職員の図面端末に通知が出た。
未登録の縦穴を検出。
さっきまで空白だった場所に、灰色の縦線が1本。
地下深くまで、まっすぐ走っている。
職員のひとりが、図面端末を持つ手を止めた。
「図面に、出ました」
ヴァルト担当者は、開きかけた口を閉じた。
私は白テープの内側で、両足を石畳に据えた。
隠し昇降機は、もう公式図面に残った。
扉の向こうに何があるか分からないまま、エレベーターの扉が1センチだけ開いた。
中から出てきたのは、黒い手ではなかった。
白いコーティング剤を厚く塗られた金属ケースが、扉の隙間から押し出されるように現れた。
角には古い傷があり、表面のコーティング剤はところどころ焼けたように乾いている。
扉の横に置いた残滓計の数値と、さっき青く染まり始めた吸着シートが、同じ推測を裏づけた。
金属ケースが、私の前に出ていた。
ケースの側面には、ヴァルトの管理番号が刻まれていた。
VLT-N404-C06。
昨日の未報告ゲートに映ったN404が、この番号の中にもある。
社内管理用の番号で、外には出ない前提だったのだろう。
「隠し昇降機の記録を出してください。運用ログ、搬出物一覧、VLT-N404-C06の管理番号照合表。今ここで」
トウマさんが低く言い、夏目主任名の追加提出命令を送信した。
現場の誰かの端末が短く鳴る。
職員が、ケース側面のVLT-N404-C06と、未登録の縦穴の検出時刻を1つの記録欄に並べた。
ヴァルト管理番号VLT-N404-C06付きの封止ケース。
隠し昇降機から出現。
記録欄に、時刻が入る。
担当者の手が、端末の上で止まった。
ケース側面、VLT-N404-C06のすぐ下に。
赤黒く、乾いた跡のような文字。
返せ。
私は、白テープの端を握ったまま動けなかった。
指先の感覚が、白テープの端だけに固まる。
コーティング剤のひびの奥で、硬いものがこつ、と当たる音がした。




