勇者のセカンドライフと、聖騎士団の決死なる大進軍
「……はぁ、重い。でも、心地いい重さだ」
早朝の澄んだ空気が満ちる『お悩み相談所・止まり木』の裏庭。
かつて異世界から人類の希望として召喚された勇者レオは、今、聖剣をクワに持ち替え、一心不乱に土を耕していた。
彼の額からは爽やかな汗が流れ、その表情には王国で『勇者』と崇められていた時には決して見せなかった、穏やかで充実した笑みが浮かんでいる。
「レオ君、精が出るね。腰、痛めてないかい?」
縁側から、淹れたての麦茶を持ったジンが声をかける。
レオはパッと顔を輝かせ、深々と頭を下げた。
「はい! ジンさん! 土をいじっていると、なんだか心の汚れまで落ちていくみたいです。元の世界でも、ずっとこういう静かな生活に憧れていたのかもしれません」
レオは、日本での過酷な受験勉強や、期待に応え続けなければならないプレッシャーから、知らず知らずのうちに心が擦り切れていたのだ。それをジンは、たった一杯のお茶と「愚痴聞き」で、数時間のうちに完全に癒やしてしまった。
『あぁ……最高。ジンさんの麦茶、なんでこんなに美味しいんだろう。ていうか、ポチ(フェンリル)の背中を枕にしてお昼寝できるとか、どんな天国だよ。もう一生ここで畑耕してたい。王国の人たち? 知らねぇよ、勝手にやってろよもう……』
ジンの脳内には、レオの解放感に満ちた本音が、心地よいリズムで響いていた。
「それはよかった。あ、そこにあるトマト……『殺人林檎』だったかな? ルミナがそう呼んでたけど、それ、もう収穫時だよ。一個食べてみる?」
ジンが指差したのは、ルミナが命懸けで植えた、禍々しく拍動する巨大な赤い実だった。
近づくだけで獲物の体温を察知し、毒の種を飛ばしてくるという超Sランク魔植物だが、今のレオにはそれが「少し元気な完熟トマト」にしか見えていなかった。
「いただきます! ……んんっ! 甘い! 瑞々しさが脳まで突き抜けるようです!」
レオは、神話級の魔植物をバリバリと豪快に咀嚼し、無邪気に笑った。
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(…………人類は、本当に終わったのですね)
小屋の影からその光景を見ていたルミナは、もはや涙も出ないほどの絶望感に包まれ、震える手で五錠目となる胃薬を口に放り込んでいた。
ルミナの目には、今の平和な光景が『地獄の縮図』に見えていた。
聖なる力を宿していたはずの勇者が、魔王の手によって完全に骨抜きにされ、邪悪な魔植物の毒果実を笑顔で食らっている。
あの聖剣――神が授けたとされる伝説の武器が、今はただの農具として土を弄ぶために使われているのだ。
(ジン様……。あの若き勇者を、単に殺すのではなく、その誇りと使命感を根こそぎ奪い取り、自らの農園を耕す『物言わぬ奴隷』へと作り変えてしまうとは……。なんと、なんと恐ろしくも慈悲のない支配術……!)
ルミナは、楽しそうに笑い合う二人を見て、改めて誓った。
自分だけは、自分だけはこの御方の不興を買ってはならない。もし、自分がこの「平和な地獄」から放り出されれば、待っているのはさらなる絶望だけなのだから。
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一方その頃、エルディア王国の王都は、建国以来最大のパニックに陥っていた。
「……勇者レオの聖命反応が、消失しただと……ッ!?」
王城の会議室。
国王の咆哮が、豪華なシャンデリアを揺らした。
報告を行った宮廷魔術師たちは、床に額をこすりつけ、蛇に睨まれた蛙のように硬直している。
「はっ……。召喚の魔法陣に刻まれた勇者殿の魂の刻印が、突如として『魔の森』の深部で沈黙いたしました。通常、これは……対象の死亡、あるいはそれ以上の『魂の変質』を意味いたします!」
「馬鹿な……ッ! 勇者は聖剣を持っていたのだぞ!? 神の加護があるあやつが、数時間で敗れるなど……!」
会議室に、凍りつくような沈黙が流れる。
彼らにとってレオは、莫大な税金と禁忌の魔力、そして国家の命運すべてを注ぎ込んで呼び出した、最後の、そして唯一の切り札だったのだ。
「陛下。もはや、猶予はございません」
重苦しい空気の中、一人の女性が立ち上がった。
王国最高位の聖職者であり、聖騎士団の総長を務める『聖光の乙女』クラリス。
彼女の背中には、純白の翼を模したマントが翻り、その美貌には一切の妥協を許さない厳格な正義の光が宿っていた。
「勇者殿を失った今、放置すればあの魔王は、周辺諸国を飲み込み、世界を漆黒の闇で覆い尽くすでしょう。……我ら聖騎士団が、全戦力を以て『深淵の森』へ大進軍を開始します」
「クラリス……! しかし、相手は竜王や悪魔を従える怪物なのだぞ!?」
「構いません。神の正義は、数や力に屈することはないのです。たとえこの命が尽きようとも、邪悪なる魔王の首を撥ねてご覧に入れましょう。……これより、神聖大討伐を発動します!」
クラリスの宣言と共に、王都中の鐘が鳴り響いた。
重装歩兵三万、聖騎士三千、高位魔術師五百。
一国の存亡をかけた、まさに文字通りの「総力戦」が幕を開けたのである。
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数日後。
『深淵の森』の入り口に、地平線を埋め尽くすほどの鋼鉄の波が押し寄せていた。
整然と並んだ騎士たちの鎧が太陽の光を反射し、数千の軍旗が風にたなびく。
その中心で、白銀の甲冑に身を包んだクラリスは、愛馬を駆って森の深部――ジンのボロ小屋がある方角を見据えた。
「……見えました。あれが、報告にあった『絶望の要塞』ですね」
クラリスの瞳が、森の奥に佇む一軒の小屋を捉える。
彼女の『聖視』には、小屋の周囲を渦巻く強烈な魔力反応(※実際には、ジンがお客さんのために用意したお茶の湯気と、幸せな魔物たちの余剰魔力)が、不吉な黒い霧のように映っていた。
「なんと禍々しい……。周囲には神話の魔獣たちの気配。そして……あそこにいるのは、勇者レオ殿か!?」
クラリスが双眼鏡を覗き込み、息を呑んだ。
そこには、泥だらけのシャツを着て、笑顔で「大きなカブ」のようなものを引き抜こうとしているレオの姿があった。
その隣では、恐るべき漆黒の竜王が「グガァァ(※いいぞ、もっと腰を入れろ若造!)」と吼えながら、尻尾でレオの背中を応援するように叩いている。
「…………ッ!!」
クラリスは、怒りのあまりその双眼鏡を握り潰した。
「ああ、なんていうことでしょう……。勇者殿が、あんなにも楽しそうに魔物と戯れているなんて……。魂を汚され、誇りを汚され、完全な傀儡へと成り果てている……ッ!」
彼女の中で、一つの結論が出た。
あの魔王は、ただ強いだけではない。
人類の希望である勇者を「堕落」させ、その笑顔を蹂躙することを楽しむ、救いようのない『絶対悪』なのだと。
「全軍、突撃ッ!! 邪悪なる魔王を討ち、囚われし勇者の魂を浄化するのです! 神の裁きをその身に刻みなさいッ!!」
「「「おおおおおおおおおおおおおおおッ!!!」」」
数万の軍勢が、大地を揺らしながらジンのボロ小屋へと殺到した。
まさに、世界を揺るがす最終決戦の火蓋が切って落とされたのである。
一方、その頃のジン。
「……ん? なんだか外が騒がしいな。あ、レオ君。ちょっと表を見てきてくれる? もしかしたら、新しいお客さんの団体さんかもしれないから、お茶の準備しておかないと」
「了解です、ジンさん! 俺、愛想良く対応してきますね!」
エプロンを締め直したレオが、爽やかな笑顔で「聖剣」を肩に担ぎ、数万の軍勢が押し寄せる玄関先へと向かっていった。
この圧倒的な「認識のズレ」が、ついに物理的な衝突へと発展する。
人類最強の聖騎士団と、最強の(無自覚)魔王陣営。
勝負の行方は、もはや誰にも予測できなかった――。




