魔界の姫君の家出と、絶望のアップルパイ
「うん、いい匂いだ。これなら美味しく焼けてるはずだぞ」
穏やかな昼下がり。
『お悩み相談所・止まり木』のキッチンには、甘く香ばしい匂いが漂っていた。
俺、ジンは、手作りの石窯から焼き立てのパイを取り出し、満足げに頷いた。
中身は、庭の家庭菜園で採れたリンゴを使った自家製アップルパイだ。
ルミナが森の奥から持ってきた『呪怨の赤林檎(※俺にはただの元気なリンゴの木に見える)』が、予想以上に早く、ツヤツヤとした立派な実をつけてくれたのだ。
「ジン様……! その恐るべき瘴気を放つ『呪怨の果実』を、あのような甘美な香りの兵器へと練成されるとは……! いったい、どこの国を毒殺して滅ぼすおつもりですか!?」
キッチンから少し離れた壁に張り付きながら、エプロン姿のルミナが戦慄に満ちた声を上げる。
相変わらず彼女の冗談はスケールが大きくて物騒だが、俺は「今日のおやつだよ」と笑って答えた。
その時だった。
ドクンッ……! ドクンッ……!
部屋の棚に飾っていた赤黒い宝石――先日、殲滅の悪魔ガリウスさんが置いていった『魔除けの置物(直通の召喚石)』が、突如として脈打ち始めた。
「え? なんだこれ」
俺が不思議そうに近づくと、宝石からどす黒い魔力が噴き出し、空間を切り裂くように小さな『冥門』が開いた。
「ひぃッ!? ま、魔界のゲート……!? ジン様、お下がりください!」
ルミナが狼狽しながら俺の前に立ち塞がろうとするが、ゲートから飛び出してきたのは、巨大な悪魔ではなく、小柄な人影だった。
「ふははははっ! 開いた、開いたわ! 愚かな人間どもよ、ひれ伏しなさい!」
現れたのは、黒いゴシックドレスに身を包み、背中に小さなコウモリの翼を生やした、十五歳くらいの可憐な少女だった。
頭には小さな二本の角が生えており、自信満々にふんぞり返っている。
「我は魔界の王族にして、最強の血筋を引く高貴なる眷属! ヴァニアである! 貴様が、お父様……コホン、ガリウスをたぶらかしたという人間ね!」
彼女はビシッと俺を指差して、尊大な態度で言い放った。
なるほど。ガリウスさんが「最近口をきいてくれない」と嘆いていた、年頃の娘さんらしい。父親の召喚石をこっそり持ち出して、家出(?)してきたのだろう。
だが、俺の【全言語翻訳(Lv.MAX)】にかかれば、彼女が必死に保とうとしている「魔界の姫としての矜持」や「威圧感」の裏にある、本当の感情が、痛いほど正確に脳内再生されてしまうのだった。
『お父様のバカバカバカッ! せっかく新しくネイル塗ったのに全然気づいてくれないし、「最近太ったか?」とかデリカシーないこと言うし! もう絶対口きいてやんないんだから! ……でも、お腹空いたなぁ。あ、なんかここ、すっごくいい匂いがする……!』
「…………」
俺は、ツンと澄ましているヴァニアちゃんの顔と、チラチラと石窯の上のアップルパイを盗み見ている視線に気づき、思わず吹き出しそうになった。
「いらっしゃい、ヴァニアちゃん。お父さんと喧嘩して、家出してきたの?」
「な、ななななっ!? なぜそれを!」
『えっ!? なんでわかったの!? 私、一言もそんなこと言ってないのに! この人間、心読めるの!? やだ、恥ずかしいっ!』
顔を真っ赤にして狼狽するヴァニアちゃん。
翻訳スキルが優秀すぎるせいで、彼女がただの「お腹を空かせた、等身大の反抗期の女の子」にしか見えない。
「ちょうど今、アップルパイが焼き上がったところなんだ。甘いものは好きかな? よかったら、お茶にしよう」
「ふ、ふん! 魔界の姫である我が、人間界の粗末な食べ物など……っ!」
『アップルパイ!? 大好き! 食べたい食べたい食べたい! ああっ、でもここで素直に頷いたら威厳が……っ!』
「美味しいよ? 毒なんて入ってないし、特別にアイスクリームも乗せちゃおうかな」
「……ア、アイスクリーム!? しょ、仕方ないわね! そこまで言うなら、この私が特別に味見してあげるわ!」
チョロい。あまりにもチョロすぎる。
俺は微笑みながら、ヴァニアちゃんをテーブルに案内した。
▼▼▼
(ああ……終わった。魔界は、ジン様の手に落ちたのだ)
一部始終を部屋の隅で見ていたルミナは、胃を激しく痛めながら、白目を剥きそうになっていた。
ルミナの目には、今の光景が全く別の恐ろしい意味に映っていた。
魔界の姫君が、圧倒的な威圧感を放って現れたにもかかわらず、ジンは微塵も動じず、たった数言で彼女の心を折ってみせた。
あまつさえ、先ほどまでルミナが恐れていた『呪怨の赤林檎』を使用した極悪非道なパイ(おそらく、一口食べれば魂を支配される洗脳兵器)を、笑顔で勧めているではないか。
(四天王の娘を、いや、次代の魔界を担う姫君を、あんなにも容易く手懐け、お茶会の席に座らせてしまうとは……! 人質にとるどころか、根こそぎ精神を支配して、魔界ごと蹂躙するおつもりだわ……!)
ルミナのガタガタという震えを他所に、テーブルでは平和なティータイムが始まっていた。
「はい、お待たせ。熱いから気をつけてね」
「ふ、ふん。いただくわ……」
ヴァニアちゃんはフォークでパイを切り分け、恐る恐る口に運んだ。
次の瞬間、彼女の瞳がキラキラと星のように輝いた。
「おいひぃぃぃぃっ!! 何これ!? 生地がサックサクで、中のリンゴがとろとろで甘酸っぱくて……魔界の最高級スイーツより美味しいっ!!」
『ヤバイヤバイヤバイ! ほっぺた落ちるぅぅ! これ毎日食べたい!』
「それはよかった。うちの庭で採れたリンゴだから、新鮮なんだよ」
ジン様の手にかかれば、呪怨の果実すら極上のスイーツに変わるのか、とルミナが震えている中、ヴァニアちゃんはあっという間にパイを平らげてしまった。
「おかわり、あるかな?」
「うん、あるよ。でも、その前に少しお話ししようか」
俺は温かい紅茶を淹れながら、ヴァニアちゃんに向き直った。
「お父さん、君が突然いなくなって、今頃すごく心配してると思うよ。ガリウスさん、仕事が忙しくて疲れてるみたいだけど、君のことは本当に大切にしてたから」
「……お父様なんて、私のこと全然見てないもん。いっつも仕事仕事で血の匂いさせて帰ってくるし、私が新しいネイルしても何も言ってくれないし……」
ヴァニアちゃんは、ぽつりと本音をこぼした。
「そっか。ネイル、綺麗に塗れてるね。星空みたいでよく似合ってる」
「えっ……! ほ、ほんと……?」
「うん。でもね、お父さんは何百年も戦いの中で生きてきた悪魔だから、そういう細かいオシャレに気づくのが苦手なだけなんだよ。だから、君から『見てみて』って教えてあげたら、きっと喜んで褒めてくれると思うな」
俺が優しく頭を撫でてやると、ヴァニアちゃんは顔を真っ赤にして俯いた。
「……人間って、変なの。全然怖くないし、私の話、ちゃんと聞いてくれるし……お父様が『すごい人間がいる』って言ってたの、本当だったんだ」
『どうしよう、このお兄ちゃん、優しすぎる……! ドキドキしてきちゃった……!』
魔界の姫君は、すっかり毒気を抜かれて、ただの恋する乙女のような顔になっていた。
「そろそろ帰らないと、お父さんが本格的に軍隊を率いて探しに来ちゃうかもしれないからね。お土産に、残りのアップルパイも包んであげる。これをお父さんと一緒に食べながら、仲直りしておいで」
「……うん。わかった」
ヴァニアちゃんは素直に頷き、お土産の包みを大切そうに抱えた。
そして、ゲートを潜る直前、振り返って俺に言った。
「あのね! 私のことは、ヴァニアって呼び捨てにしていいわ! そ、それから、これ! 私の『王属の刻印』! 何かあったら、私がお父様より先に飛んできてあげるんだからねっ!」
彼女はペタッと、俺の手の甲にコウモリの羽を模した可愛らしい紋章を押し付けると、顔を真っ赤にして魔界へと帰っていった。
「ふふっ。嵐のような子だったな。でも、仲直りできそうでよかった」
俺は手の甲の紋章(※シールか何かだと思っている)を見ながら微笑んだ。
一方、ルミナは。
「『王属の刻印』……。魔界の王族が、自らの魂と魔力のすべてを捧げ、永遠の隷属を誓うという絶対不可侵の契約……」
ルミナは虚ろな目で壁に寄りかかり、再び胃薬をボリボリと咀嚼していた。
「ジン様は……ついに、魔王の血脈すらも完全に支配下に置かれたのですね……。ああ、この『止まり木』こそが、世界の中心……。私はなんて恐ろしい場所でメイドをしているのでしょうか……ッ!」
ルミナの盛大な勘違いと胃痛は、今日もとどまることを知らないのだった。




