王国の精鋭隠密、魔王城(ボロ小屋)のあたたかなおもてなしに絶望する
「ハァ……ハァ……ッ! こ、ここが……報告にあった『深淵の森』の異常発生源……!」
エルディア王国軍、特務隠密部隊の副隊長ゼクスは、深い茂みに身を潜めながら、目の前の光景に驚愕し、歯の根をガチガチと鳴らしていた。
王国最強の暗殺者であるルミナが消息を絶ってから数週間。
事態を重く見た上層部の命により、決死の覚悟で森の深部へと潜入したゼクスが見たものは、この世の終わりのような光景だった。
(な、なんだあの結界は……!? 触れただけで魂が消滅しそうなほど濃密な、竜王クラスの魔力が練り込まれている! しかも庭には、近づく者の命を吸い尽くす『吸血魔蔓』が群生し、極めつけは……あの青いスライムと、銀色の巨狼!)
ゼクスは自身の目を疑った。
王国軍が三個師団を投入しても勝てるかどうかわからない歩く大災害『溶解粘性体』が、なぜか庭の落ち葉をせっせと掃除している。
そして、神々すら震え上がる神話の魔獣『フェンリル』が、日向ぼっこをしながら腹を出して寝転がっているではないか。
(間違いない……。このボロ小屋に偽装した要塞こそが、世界を滅ぼす真の魔王城……ッ! 早く……早く王国に持ち帰って、勇者召喚を急がせなければ……!)
ゼクスが冷汗を拭い、音を立てずに後ずさろうとした、その時だった。
『ワンッ!』
背後から、無邪気な鳴き声が聞こえた。
振り返ると、いつの間にかフェンリルがゼクスの背後に回り込んでいた。その巨大な影が、ゼクスを完全に覆い隠している。
「ひぃぃぃぃッ!?」
音もなく背後を取られた恐怖と、圧倒的な死のプレッシャー。
ゼクスは白目を剥き、そのまま泡を吹いて気を失った。
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「……んっ……ここは……?」
ゼクスが目を覚ますと、そこは仄暗い地牢……ではなく、日差しが差し込む温かな木造の部屋だった。
ふかふかのベッド(※ただの干し草のマットレス)に寝かされ、額には冷たいタオルが乗せられている。
「あ、気がつきましたか? よかった」
穏やかな声に振り向くと、そこにはエプロン姿の人の良さそうな青年――ジンが、湯気の立つマグカップを持って微笑んでいた。
(こ、こいつが……魔物たちを束ねる真の魔王……!)
ゼクスは跳ね起きると、隠し持っていた短剣を抜き放ち、ジンに向かって構えた。
「う、動くな魔王! 俺はエルディア王国特務部隊のゼクス! 貴様の野望はここまでだ! 煮るなり焼くなり好きにしろ、俺は王国騎士として誇り高く死――」
ゼクスが決死の覚悟で啖呵を切ろうとした瞬間。
ジンの【全言語翻訳(Lv.MAX)】スキルが、ゼクスの言葉の『裏にある真の感情』を正確に捉え、脳内に日本語として直接再生し始めた。
『嫌だぁぁぁッ! 死にたくないぃぃ! ていうか俺、今月に入ってから休み1日もないんですけどぉ!? 残業代も出ないし、上司は「気合で偵察してこい」って無茶振りばっかりだし! もうこんなブラックな職場辞めて、実家で農業手伝いたいよぉぉぉッ!!』
「…………」
ジンは、構えられた短剣など全く気にせず、深い、深い同情の眼差しでゼクスを見つめた。
人間社会のドロドロした本音に疲れ果てて森に引きこもったジンにとって、ゼクスの悲痛な「社畜の心の叫び」は、痛いほど共感できるものだった。
「……ゼクスさん、と言いましたね。お仕事、本当にご苦労様です。さぞかし、ブラックな環境で過酷な労働を強いられているのでしょう」
「なっ……!?」
ゼクスは息を呑んだ。
自分の素性はおろか、心の奥底で抱えていた「王国(ブラック企業)への不満と疲労」を、ただ見つめられただけで完全に見透かされたのだ。
(ば、馬鹿な! 読心術……いや、俺の精神構造を瞬時に解析して丸裸にしたというのか!?)
「短剣なんて下ろして、まずは温かいお茶を飲んでください。カモミールと、うちの庭で採れた『特製のハーブ(※魔植物)』をブレンドしたものです。胃の痛みに効きますよ」
ジンが優しくマグカップを差し出す。
だが、ゼクスにはそれが「飲めば自我を崩壊させる精神支配の毒薬」にしか見えなかった。
「ふ、ふざけるな! 誰がそんな怪しいものを……」
「ジン様のお手製のお茶を拒むとは。万死に値するわね、人間の塵芥」
背後から、氷のように冷たい声が響いた。
ゼクスが振り返ると、そこには美しいエルフのメイドが、殺気を放ちながら冷酷な瞳でこちらを見下ろしていた。
「お、お前は……! 行方不明になっていた、王国最強の暗殺者ルミナ……ッ!? なぜ、お前のような英雄が、魔王のメイドなどやっているんだ!」
「英雄? 笑わせないで。私はジン様の慈悲により、この絶対的なる聖域の末席を汚すことを許された、ただの愚物よ」
ルミナはうっとりとジンを見つめた後、再びゼクスに殺意の目を向けた。
「ジン様の温情にすがりなさい。飲まないなら、ここで貴方の四肢を切り刻んで、庭の肥料にするわよ」
「ひぃッ!?」
ゼクスは震える手でマグカップを受け取り、半泣きでそのお茶を飲み干した。
「……あ、あれ?」
『うわぁぁぁ、何これめっちゃ美味しいぃぃ! 徹夜明けの体に染み渡るぅぅ……!』
ゼクスの心の叫びが、再びジンの脳内に響く。
本当に疲れ切っているのだな、とジンは苦笑した。
「ゼクスさん。上司の無茶振りでこんな森の奥まで来させられて、本当に大変でしたね。でも、無理して命を削ることはないんですよ。時には逃げることも、自分を守るためには必要です」
ジンは優しくゼクスの肩を叩いた。
「もし、今の職場(王国軍)が辛くて耐えられなくなったら、いつでもここに休みに来てください。美味しいお茶と、愚痴を聞く時間くらいは、いくらでもありますから」
「…………ッ!!」
ゼクスの目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
王国では誰も自分の苦労を労ってくれず、使い捨ての駒として扱われてきた。それなのに、敵であるはずの魔王が、誰よりも深く自分の心を理解し、あまつさえ「逃げ場所」まで提供してくれたのだ。
(なんて……なんて恐ろしいお方だ……。圧倒的な力を見せつけるだけでなく、人間の最も弱い心に寄り添い、内側から支配してしまう……。これでは、どんな忠誠心の厚い騎士でも、一瞬で籠絡されてしまう……!)
ゼクスの心は完全に折れた。
もはや、この魔王に抗うなど不可能だという絶対的な敗北感に包まれながら、彼はベッドから這い出し、その場に深く土下座をした。
「ま、負けました……。貴方様の底知れぬ深謀遠慮と、その恐るべき『支配の力』……。このゼクス、完敗でございます……!」
「えっ? いや、勝負とかしてないですけど……」
「必ずや……必ずや、この御恩は忘れません! 失礼いたしますッ!」
ゼクスは涙を拭いながら立ち上がり、弾かれたように小屋を飛び出して、森の奥へと走り去っていった。
「……帰っちゃった。あれで良かったのかな?」
「はい、ジン様。あの程度の虫ケラ、ジン様がわざわざ手を下すまでもないということですね。ジン様の海よりも深い寛大さに、このルミナ、改めて惚れ直しました!」
ルミナが目を輝かせて拍手をしている横で、ジンは「また社畜のお客さんが来たら、今度は肩もみでもしてあげよう」と、のんきに考えていたのだった。
そして後日。
王国へと生還したゼクスが、「魔王は人の心を完全に支配する術を持っています! 我々では到底敵いません! 至急、勇者の召喚を!」と半狂乱で報告したことにより、王国の『異世界勇者召喚計画』が決定的なものとなるのだが……それはまた、別の話である。




