静止した魂の天秤と、冥界からの沈黙の刺客
『深淵の森』の朝は、相変わらず世界のどの場所よりも平和で、そして異常な活気に満ちていた。
「よし、銀河の花もすっかり根付いたみたいだね。この調子なら、来月にはまた星雲の実が収穫できるかもしれないぞ」
麦わら帽子を深く被り直した俺、ジンは、ジョウロから魔力で最適化された水を撒きながら、満足げに頷いた。
庭の隅にそびえ立つ、宇宙のバックアップデータこと『創生の種』が発芽した巨大な花は、朝の光の中でも瑠璃色の銀河を美しく瞬かせている。
「ジン君。花の世話もいいけど、少し厄介なことになっているかもしれないよ」
俺の背後から声がした。
振り返ると、裏庭に建設された『天界出張所(プレハブ小屋)』の窓から、ヨレヨレのスーツにドテラを羽織った男――宇宙の創造神(社長)が、ノートパソコン(※天界のシステム端末をジンがDIYでカスタマイズしたもの)を片手に、難しい顔をしていた。
「厄介なこと? またどこかの星系でブラックホールでも暴走しましたか?」
「いや、そうじゃないんだ。ここ最近、天界のメインサーバーに送られてくる『魂の精算データ』が、完全にストップしているんだよ」
創造神が、モニターのグラフを指差す。
その波形は、ある日を境に「ゼロ」のまま、ピタリと水平を描き続けていた。
「魂の精算データ?」
「そう。生きとし生けるものが寿命や事故で命を落とすと、その魂は一度『冥界』へと送られ、罪と業を精算されてから天界のシステムへと循環してくる。宇宙の生命を回す、最も重要な基幹産業だよ。それが……先日、我々が魔界へ行くバスの中で『双六』をした日を境に、ただの一つも上がってきていないんだ」
創造神は、ジンの顔をジトッと見つめた。
「君が、『死の概念』を『一回休みの休憩時間』に書き換えてしまったからね。エルディア星だけでなく、隣接する次元を含めた広大なエリアで、現在『誰も死なない(死んでもちょっと寝たら生き返る)』という異常事態が発生しているんだよ」
「あー……。そういえば、そんなこともありましたね」
俺は頭を掻いた。
「いやぁ、平和でいいことじゃないですか。みんな元気に長生きできるなら、それに越したことはないですよ」
「人間からすればそうかもしれないが……この『死なない世界』のしわ寄せをモロに食らっている部署(世界)があるはずなんだ。少し、嫌な予感がするね」
創造神が渋い顔でプレハブの窓を閉めた、まさにその時だった。
▼▼▼
ジンたちがのんきな朝の会話を交わしていた頃。
次元の最下層、すべての魂が行き着く終着点――『冥界』。
かつては絶え間なく流れ込んでくる魂の河で潤っていたその世界は、今や未曾有の「大不況(システム停止)」に直面していた。
魂を計る巨大な『審判の天秤』はピタリと静止し、死者の罪を裁く閻魔庁の照明(魔力火)は、エネルギー不足により今にも消えかかっている。
「……本日も、流入した魂はゼロ。精算業務、および輪廻転生システムへの転送量は、三十日連続で完全停止しております」
真っ暗な玉座の間。
青白い炎を纏った骨の秘書官が、無機質な声で報告を読み上げた。
玉座に深く腰掛けているのは、冥界の絶対的支配者であり、死という概念そのものを司る王、ハデス。
彼の瞳の奥で、静かな、しかしマグマのような怒りが燃え上がっていた。
「……現場の死神たちからの不満は、もはや限界を超えつつあります。魂の回収が達成できないため、給与として支給される『死の魔力』が払えず、数百万の死神が路頭に迷う状態です」
「閻魔庁の門前では、『仕事をさせろ』『死を取り戻せ』と、武装した死神たちのストライキが暴動に発展しかけています。このままでは、冥界という組織が経営破綻を引き起こします」
報告を聞くハデスの拳が、玉座の肘掛けを粉々に砕いた。
「……すべては、エルディア星の『特異点』……ジンとかいう人間の仕業だ。あ奴が『死のルール』を書き換えたせいで、我々の存在意義そのものが宇宙から消されようとしている」
ハデスは立ち上がり、玉座の間に整列している『漆黒の影』たちを見下ろした。
それは、通常の死神とは次元が違う。冥界の理から外れた者を強制的に刈り取るために生み出された、感情も痛覚も持たない究極のシステムエージェント――『冥府の執行官』たちである。
「天界の連中はあの男に懐柔され、魔界の者どもはあそこに居座っていると聞く。だが、我ら冥界は違う。我々は情に流される生物ではない。宇宙の循環を維持するための『冷徹なる歯車』だ」
ハデスが、漆黒の大鎌を掲げる。
「行け、執行官ども。エルディア星へ潜入し、対象『ジン』を概念ごと抹消しろ。我らの『死』を、あの星に取り戻すのだ」
『――御意。対象ヲ、例外ナク初期化シマス』
影たちは、一切の感情を交えることなく、氷のように冷たい声で応え、一瞬にして虚無へと溶け込んでいった。
▼▼▼
再び、ボロ小屋の裏庭。
「あ、大根の葉っぱに虫がついてる。レオ君、後で木酢液撒いておいてくれる?」
「了解っす、ジンさん!」
ジンが勇者に畑の手入れを頼んでいたその時。
背後の空間が、音もなく、前触れもなく『スッ』と縦に割れた。
「……ッ!?」
縁側でお茶を飲んでいた元・暗殺者のルミナが、持っていた湯呑みを落としそうになるほど激しく身震いした。
殺気ではない。それは、生命活動を真っ向から否定する、圧倒的で絶対的な『死の気配』。
空間の裂け目から、音もなく三つの漆黒の影が滑り出てきた。
ボロボロの黒いローブを目深に被り、その手には、光すらも吸い込む禍々しい大鎌が握られている。
「ジン様! 後ろですわッ!」
ルミナが叫ぶよりも早く、聖騎士クラリスが聖剣を抜いてジンの前に飛び出した。
だが、執行官の放つ冷気は、クラリスの聖なる闘気すらも一瞬で凍りつかせるほどに強烈だった。
『――対象・ジンヲ確認。これヨリ、例外規定ニ基ヅキ、強制削除ヲ実行スル』
執行官たちは、名乗りを上げることも、威嚇することもない。
ただ機械的に、ジンの首を撥ね飛ばすためだけに大鎌を振り上げた。これまでの魔王や天使たちが見せたような「誇り」や「感情」が一切存在しない、純粋な殺戮のアルゴリズム。
だが。
ジンの【全言語翻訳(Lv.MAX)】スキルは、この冷徹なシステムエージェントの殺意を、脳内でこのように変換してしまったのである。
『――対象(顧客)を確認。これより、自社の存亡を懸けた、強引な訪問営業(ノルマ達成)を実行する!』
「…………」
ジンは、振り下ろされる大鎌を前にして、眉をひそめた。
「あー……。君たち、もしかして最近業績が悪くて倒産しそうになってる会社の営業さん?」
ジンは、麦わら帽子の上の『神使の輪』を無意識に輝かせながら、飛んできた大鎌の刃を、ジョウロの先で「カィィンッ」と軽く弾き返した。
カッ……!!!
ジンの「強引な営業マン」という解釈により、物理法則が捻じ曲げられる。
執行官の持つ大鎌(魂を刈り取る概念兵器)は、ジンのジョウロに触れた瞬間、刃の威力を完全に失い、ただの『分厚いカタログ(営業資料)』へと質量を変異させられた。
『――エラー。武装ノ概念出力ガ阻害サレマシタ。再試行シマス』
驚くべきことに、執行官たちは自身の武器がカタログに変えられても、一切の動揺を見せなかった。
天界の兵器や神々でさえパニックに陥るジンの『概念改変』を受けても、彼らは感情がないゆえに「エラーなら別の手段で殺すだけだ」と、即座に次の攻撃プログラムへと移行したのだ。
ズズズッ……!!
執行官の足元から、対象を内部から腐敗させる『死の泥沼』が広がり、ジンの足元へと急速に迫る。
「あっ、こら! 庭に泥を持ち込まないでよ! さっきお掃除ロボが綺麗にしてくれたばっかりなのに!」
ジンが、足元の泥沼に向かってペシッとジョウロで水をかける。
すると、死の泥沼は瞬く間に『殺菌効果のあるアルコール消毒液』へと変換され、蒸発してしまった。
『――エラー。環境浸食プログラム、強制停止。……別ルートヨリノ攻撃ニ移行』
執行官たちは、後方に音もなく飛び退くと、三位一体となって新たな呪殺陣を空中に描き始める。
「…………えっ?」
ジンは、初めて目を丸くした。
これまでの「クレーマー(魔王や神々)」たちは、ジンのデバッグ(おもてなしや説教)を受けると、大抵は驚愕して毒気を抜かれ、麦茶を飲んで大人しくなっていた。
だが、この黒いローブの男たちは違う。
麦茶を勧める隙も、おにぎりを渡す隙も与えず、ただひたすらに、機械のように「次の攻撃(営業)」を仕掛けてくるのだ。
「なるほど……。この人たち、相当切羽詰まってるんだな。会社(冥界)のノルマが厳しすぎて、何が何でも契約(命)を取らないと帰れないみたいだ」
ジンは、彼らの無機質な連続攻撃を「必死すぎる営業スマイルの裏返し」と勘違いし、深く頷いた。
「でも、うちはそういうの、間に合ってますから! はい、これお茶菓子(温泉まんじゅう)! 持って帰って、会社のみんなで食べて!」
ジンが、縁側に置いてあった温泉まんじゅうの箱を、執行官たちに向かってポンと投げ渡した。
『――未知ノ飛来物ヲ検知。爆発物ノ可能性アリ。迎撃シマス』
執行官の一人が、飛んできた温泉まんじゅうの箱を、冷酷に大鎌の柄で弾き飛ばした。
ポスッ。
哀れなまんじゅうの箱は、地面に転がり、中身が土の上にこぼれ落ちてしまった。
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(…………本日の、二錠目)
キッチンの窓からその光景を見ていたルミナは、静かに胃薬を飲み込みながら、ゴクリと生唾を飲んだ。
「あ、あの刺客たち……ジン様の『おもてなし(物理法則の書き換え)』を、機械的な判断で完全にスルーしましたわ……!」
ジンの「懐柔」が、初めて正面から拒絶された瞬間であった。
温泉まんじゅうを地面に落とされたジンは、ピタッと動きを止め、麦わら帽子の奥で目を細めた。
「……なるほど。食べ物を粗末にするなんて。君たち、本当に『余裕』がないんだね」
ジンの声から、いつもの温もりが消え、静かな『圧』が周囲の空気を重く沈み込ませる。
『――ターゲットノ敵対レベル上昇。コレヨリ、制限ヲ解除シ、対象ノ存在する空間ゴト切除スル』
執行官たちのローブが膨れ上がり、深淵の森の木々が、彼らの放つ死の気配に当てられて一瞬で枯れ果てていく。
いつものように「優しくして解決」というわけにはいかない。感情を持たぬ冥界のシステムと、理不尽極まりない特異点の、全く噛み合わない異次元の闘いが幕を開けようとしていた。




