ルミナの休胃日と、普通の温泉街での異常な卓球
「…………うぅ、胃が……。私の胃壁が、ついに自己防衛のために魔力障壁を展開し始めました……」
『深淵の森』のボロ小屋。
ピカピカに磨き上げられた縁側で、元・暗殺者のルミナは、青白い顔で毛布にくるまり、小刻みに震えていた。
魔界の慰安旅行でのマグマ風呂、地下迷宮の床下収納化、そして庭に咲いた「銀河の花」。宇宙の根幹を揺るがす異常事態を間近で見続けた結果、彼女のストレス(と胃薬の消費量)は限界を突破していたのである。
「ルミナ、顔色がすごく悪いよ。最近、ちょっとバタバタしてたから疲れが出たんだね」
畑作業を終えたジンが、麦茶を持って心配そうに顔を覗き込んできた。
「ジ、ジン様……。お気遣い痛み入ります。ですが、私のこの不調の原因は……その……」
(ジン様、貴方様の圧倒的な『無自覚な世界改変』のせいです、とは口が裂けても言えませんわ……ッ!)
「よし、決めた。今日はみんなで、ルミナの『休胃日』にしよう!」
ジンがポンと手を叩く。
「……休胃、日?」
「そう。魔界の温泉(※マグマ)も良かったけど、ルミナには刺激が強すぎたみたいだからね。今回は、人間の村にある『普通の温泉宿』にみんなで日帰り旅行に行こう。静かで、ゆっくりできるところへ」
「ふ、普通の人間の……温泉……!」
その言葉を聞いた瞬間、ルミナの瞳に一筋の光が差し込んだ。
空間が歪むこともなく、致死性の毒ガスが噴き出すこともなく、ただ温かいお湯が湧いているだけの『普通』の温泉。
(ああ……! ジン様は、ちゃんと私のことを気遣ってくださっていたのですね……ッ!)
「ゼフさんも、ゾルギアさんも、たまには人間の文化に触れるのもいいでしょ?」
「フハハ! ジン殿がそう言うなら、人間どもの保養所とやらを視察してやろう!」
『フォッフォ。儂も肩が凝っておってな。楽しみじゃて』
大魔王と古代邪神が、悪気なく(むしろウキウキと)賛同する。
ルミナは嫌な予感を覚えつつも、「普通の温泉」という魅力に抗えず、一行は人間の温泉街へと出発することになった。
▼▼▼
王都エルディアから少し離れた山間にある、風情豊かな『紅葉温泉郷』。
一行は、人間の冒険者や老人に変装(※大魔王は初老の剣士、邪神はお爺ちゃん、掃除機ロボは行李の中に隠蔽)し、温泉街の石畳を歩いていた。
「おおー、いい雰囲気だなぁ! 温泉の匂いがするし、お土産屋さんもいっぱいある!」
ジンが温泉まんじゅうを頬張りながらご機嫌に歩く。
「……はぁぁ、普通です。空が紫色に割れていません。魔獣の咆哮も聞こえません。本当に普通の人間の温泉街ですわ……」
ルミナは、感動のあまり泣きそうになりながら、周囲の平和な景色を噛み締めていた。
勇者レオと聖騎士クラリスも、「久しぶりの人間界の休日っすね!」とリラックスしている。
老舗の温泉旅館にチェックインし、一行はさっそく自慢の露天風呂へと向かった。
「……極楽、ですわ……」
女湯の露天風呂。ルミナは、澄み切った無色透明の天然温泉に肩まで浸かり、深いため息を漏らした。
隣ではクラリスが「聖なる力が自然と回復しますわ……」と微笑んでいる。
魔界の『紅蓮泉(マグマ風呂)』では、一秒たりとも気を抜けなかった。しかしここでは、ただお湯の温もりと、秋の風に揺れる紅葉の美しさだけがある。
(ああ、ジン様が提案してくださった休肝日。私の胃壁も、今ならゆっくりと修復されていくのが分かります……)
ルミナが至福の時を味わっていた、その時である。
ドッゴォォォォォォンッ……!!!!
突如として、男湯の方向から、山を一つ吹き飛ばしたかのような凄まじい爆発音が轟き、旅館全体がグラリと揺れた。
「ひぃッ!? な、なんですの!?」
クラリスが悲鳴を上げる。
ルミナの研ぎ澄まされた暗殺者の聴覚が、男湯での会話(惨劇)を正確に捉えていた。
『フハハハハ! ジン殿、見たか! これが我が魔界の秘技、『暗黒物質スマッシュ』だ!』
『フォッフォッ! 若いのぅ。儂の『混沌のカット』の前には、その程度の球など止まって見えるわい!』
『おー、二人ともすごいラリーだなぁ! 卓球台の真ん中から空間が割れてるよ!』
「…………」
ルミナは、湯船の中で静かに両手で顔を覆った。
「温泉卓球……。人間の温泉宿の定番である卓球台を、大魔王と古代邪神が使ってしまったのですね……。普通のピンポン玉に、星を砕く魔力を乗せて……」
▼▼▼
風呂上がり。
浴衣姿に着替えた一行は、温泉街の遊技場(射的や輪投げがある場所)に集まっていた。
「いやぁ、お風呂上がりの卓球は汗をかくね。二人とも、人間界の台を真っ二つに(物理的に空間ごと)割っちゃダメだよ」
ジンが、フルーツ牛乳を飲みながら笑う。
ゼアノスとゾルギアは「す、すまんジン殿。力加減が難しくてな」と苦笑いしていた。
「あ、射的がある! みんなでやろうよ!」
ジンが、店先に並ぶコルク銃を見つけて駆け寄った。
「おお! 標的を撃ち落とすのだな! 我の『絶望の魔眼』で、あの景品を塵にしてくれる!」
ゼアノスが、物騒な呪文を詠唱しようとする。
「ゼフさん、ダメだよ。ちゃんとこのコルク銃で撃ち落とすのがルールなんだから」
ジンがたしなめ、自らコルク銃を構えた。
「狙うのは……あの一番上の、特大のクマのぬいぐるみだな」
ジンが、銃口を的に向けた瞬間。
ジンの無意識の『魔力最適化』が発動した。
ただのコルク栓が、天界の神々が使う『神罰の光矢』と同等の神聖エネルギーを帯びて光り輝き始めたのだ。
「ちょっ、ジン様!? そのコルク、ものすごい質量を持って……ッ!」
クラリスが止める間もなく。
スパーンッ!!!
放たれたコルク(光の矢)は、一直線に特大のクマのぬいぐるみに向かい……ぬいぐるみどころか、射的の棚、店の奥の壁、さらにその後ろにあった裏山の一部を、円形に綺麗に『浄化(物理的消去)』して、空の彼方へと消えていった。
「…………えっ」
射的屋の親父が、ポカンと口を開けて、裏山まで見通せるようになった店の奥を見つめている。
「あー……。ちょっと火薬が強すぎたかな? おじさん、ごめんね。壁、すぐに直すから」
ジンが慌てて頭上の『神使の輪』を光らせると、消滅した壁と裏山が、わずか数秒で『元の状態よりも頑丈でピカピカな高級建材』へとパッチ修正(復元)された。
おまけに、特大のクマのぬいぐるみは、神聖な光に包まれながら、自らフワフワと飛んできてジンの腕の中に収まったのである。
「よし、ゲット! ヴァニアちゃんのお土産にしよう!」
ジンが満面の笑みで親指を立てる。
「…………本日の、一錠目」
遊技場の入り口で、ルミナは浴衣の帯の間から、真新しい胃薬の瓶を取り出し、封を開けた。
「終わりました……。ジン様にかかれば、人間の温泉街の射的ですら、地形を変える神の御業となってしまう……。大魔王も邪神も、もはやジン様のデタラメな能力の前では『ただの背景』でしかありません……」
「ルミナ、お待たせ! 次はスマートボールやろうよ! レオ君が玉を出しまくって、台が壊れそうなんだ!」
ジンの無邪気な声が、温泉街の夜空に響く。
ルミナの「休胃日」は、わずか数時間の入浴タイムで終了し、結局彼女は、胃薬の小瓶をギュッと握りしめながら、カオスな温泉街の夜を駆け回ることになるのであった。




