天界の真面目な監査員と、陥落の極上ヘッドスパ
「……ここが、エラーの発生源。対象『ジン』の生息エリアですね」
『深淵の森』の上空数千メートル。
純白の法衣に身を包み、背中に二枚の光の翼を生やした美しい青年が、冷徹な瞳で眼下の森を見下ろしていた。
彼の名はエリエル。天界のシステムを管理する『監査部』に所属する、生真面目で職務に忠実なエリート下級天使である。
(セラフィエル様が無断で放棄した『神使の輪』……最高管理者権限が、下界のただの人間に渡っているなど、天界の歴史においてあり得ない大事件。私は監査官として、対象から速やかに権限を剥奪し、必要であればこの宙域ごと初期化しなければならない)
エリエルの表情は険しかった。
報告によれば、対象はすでに管理者権限を悪用し、世界のソースコードを書き換えている(※アブラムシを消しただけ)という。
どれほど邪悪で、どれほど狡猾なハッカー(魔王)が待ち受けているのか。
「いざ。天の裁きを下しましょう」
エリエルは翼を畳み、音もなくボロ小屋の庭先へと降下した。
そして、彼の視界に飛び込んできたのは、想像を絶する『地獄の光景』であった。
「なっ……!?」
庭の畑では、人類の希望であるはずの勇者レオが、「今日はトマトの育ちがいいっすね!」とクワを振るっている。
そしてその隣では、魔界の絶対君主たる大魔王ゼアノスが、麦わら帽子を被り、「うむ! 俺の配合した魔界式肥料が効いているな!」と笑顔で土いじりをしているではないか。
勇者と大魔王が、肩を並べて農作業をして、あまつさえ笑い合っている。
世界の『光』と『闇』の頂点が、完全に渾沌と化して融合しているのだ。
(ば、馬鹿なッ! バグだ、あり得ないバグだ! 勇者と大魔王が共存するなど、エルディア星の根本的なアルゴリズムが完全に崩壊している!)
エリエルが驚愕と戦慄でフリーズしていると、ボロ小屋の縁側から、のんきな足音と共に一人の青年が現れた。
「ん? おや、見ない顔だね」
麦わら帽子を被り、その頭上に、天界の超次元デバイスである『神使の輪』をフワフワと(まるで飾りのように)乗せた青年。
彼こそが、ターゲットであるジンだった。
「き、貴様がジンですね……ッ! 私は天界監査部のエリエル! 貴様が不当に所持している管理者権限を回収し、この狂った世界を正常化するために参りました!」
エリエルは、背中の光の翼を広げ、天使としての絶対的な神威を放ちながらビシッと指を突きつけた。
「さあ、おとなしくそのリングを返しなさい! 抵抗するなら、貴様を宇宙の歴史から直接デリートしますよ!」
凛とした、威厳に満ちた天の使いの宣告。
だが、ジンの【全言語翻訳(Lv.MAX)】スキルは、このエリエルの真面目すぎる『職務へのプレッシャー』と『過酷な労働環境への悲鳴』を、容赦なく脳内再生してしまったのである。
『お願いします、その会社の備品を返してくださいぃぃぃッ! 先輩が勝手に置いていったせいで、僕が上司から「今すぐ回収してこい」って怒鳴られて、休日出勤させられてるんです! これ回収できなかったら僕、始末書どころかクビになっちゃうんですぅぅぅッ!』
「…………」
ジンは、威圧的な態度をとりながらも(心の中で)大号泣しているエリエルを見て、深く、深く同情した。
(なるほど。この前のセラフィエルさん(前任者)が、会社のパソコンかなんかを俺に押し付けて飛んじゃったから、本社の監査部? とかいう部署の後輩くんが、尻拭いで回収に来させられたのか。……どこの世界も、下っ端のサラリーマンは辛いなぁ)
ジンは、頭の上から光の輪っかを取り外すと、エリエルに向かって優しく微笑みかけた。
「わざわざ遠くからご苦労様です。これ、回収に来たんですよね? いつでもお返ししますよ」
「えっ……? あ、あんなにも強大な力を、いともあっさりと……?」
エリエルは拍子抜けして、思わず間の抜けた声を出した。
絶対的な権力を、一切の執着もなく差し出すとはどういうことだ。
「でも、その前に少し休んでいってください。顔色、すごく悪いですよ。目の下にひどいクマができてますし」
「なっ……! わ、私は天使です! 疲労などという概念は……」
『うわぁぁぁん! 毎日毎日、何千もの星のバグチェックで徹夜続きなんだよぉぉ! 上司はパワハラだし、休みはないし、もう頭が割れそうに痛いんですぅぅ!』
「ほら、そこに座って。冷たい麦茶、淹れますから」
ジンは、半ば強引にエリエルを縁側に座らせ、キンキンに冷えた麦茶を差し出した。
「こ、こんな得体の知れない液体……」
エリエルは警戒しつつも、喉の渇き(※天使も精神的に疲れると渇きを感じる)に耐えきれず、一口飲んだ。
「…………ッ!!」
『なんだこれぇぇぇ!? 五臓六腑に染み渡るぅぅぅ! 乾ききった社畜の心に、暴力的なまでの優しさが流れ込んでくるぅぅっ!』
「エリエルさん、と言いましたね。毎日パソコン……じゃなくて、世界の監視? で目を酷使してるんでしょう。頭皮がガチガチに固まってますよ。ちょっと失礼しますね」
ジンは、エリエルの背後に回ると、お湯で温めた蒸しタオルをエリエルの目元に乗せ、そのまま両手でエリエルの頭部を包み込んだ。
「ひぃッ!? な、なにを……!」
「いいから、力を抜いて。……はい、極上ヘッドスパの開始です」
グッ、と。
ジンの指の腹が、エリエルの頭皮の最も凝り固まったツボを、絶妙な力加減で押し込んだ。
「アッ…………!?」
『痛気持ちいいぃぃぃぃぃッッ!! なんだこれ、なんだこれ!? 脳髄が直接マッサージされてるみたいだ! 今まで溜まっていた何万時間分の眼精疲労が、一気に溶けていくぅぅぅ……!』
「どうですか? パソコン作業が続くと、側頭筋が張って頭痛の原因になるんですよ。こうやって円を描くようにほぐしてあげると……」
「はわぁぁぁぁ……っ……ああぁぁぁ……っ……」
天界のエリート監査官は、ジンの『ゴッドハンド(物理)』の前に、わずか数十秒で完全に堕落し、口から魂の抜けたようなだらしない声を出して白目を剥きかけた。
▼▼▼
(…………本日の、二錠目)
柱の陰で、ルミナは静かに胃薬を飲み込んでいた。
彼女の目には、今の光景が『神への恐るべき反逆』にしか見えていない。
(天界から遣わされた監査官が、ジン様の『精神汚染マッサージ』によって、完全に自我を破壊されています……。もはや、あの天使はジン様の傀儡。この世界を初期化しに来たはずが、逆に魂をフォーマットされているのです……!)
「はい、お疲れ様でした。スッキリしましたか?」
「はっ……!? わ、私は……!」
ジンが手を離すと、エリエルはハッと我に返った。
信じられない。頭痛と疲労で常に靄がかかっていた視界が、抜けるようにクリアになっている。背中の羽も、かつてないほど軽く感じられた。
「あ、ありがとうございます……ジン様。いえ、ジン殿」
エリエルは、思わず最上級の敬語を使ってしまっていた。
「どういたしまして。で、この輪っかですよね。ほら、持って帰って上司さんに渡してあげてください。これで怒られずに済みますよ」
ジンが、光の輪っかをエリエルに差し出す。
だが、エリエルはそれを受け取らなかった。
いや、受け取れなかったのだ。
(この方は、ただの人間ではない。世界のバグを……勇者や魔王の『心のバグ』すらも包み込み、正常化(?)させる、究極の『癒やしの特異点』だ! このリングは、この方にこそふさわしい!)
エリエルは、姿勢を正し、ジンに向かって深々と頭を下げた。
「……ジン殿。その『管理者権限』は、どうかそのままお持ちください」
「えっ? いいんですか?」
「はい! 私は直ちに天界へ帰還し、上層部へ報告いたします。『エルディア星には、宇宙の理を凌駕する至高の存在がいらっしゃる。決して手を出してはならない』と!」
「……はぁ。まあ、怒られないならいいんですけど。でも、エリエルさんも無理しないでくださいね。たまには有給取って、休みに来てください」
「ジン殿ォォォッ!!」
エリエルは、ジンのブラック労働者への深い理解と優しさに感涙し、滝のように涙を流した。
そして、「必ずや、上層部の誤解を解いてみせます!」と固く誓い、光の翼を羽ばたかせて、猛スピードで天界へと帰っていったのである。
「……帰っちゃった。忙しい人だなぁ」
ジンは、再び光の輪っかを麦わら帽子に乗せ、のんきに冷めた麦茶を飲んだ。
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一方、その光景を見ていたルミナは、戦慄に震え上がっていた。
「あ、ああ……。ジン様は、監査官を居候にすらさせず、あえて天界へ帰還させた……。完全に洗脳した彼を『スリーパーエージェント(工作員)』として本社に潜り込ませ、天界の内部から組織を崩壊させるおつもりなのだわ……!」
ルミナの盛大な勘違いは、もはや宇宙規模の陰謀論へと発展していた。
そして、ルミナの予想通り(?)。
天界へと帰還したエリエルが、上層部の会議で「ジン様は至高の存在です! あの御方に逆らうなどあり得ません!」と熱弁(布教)を振るった結果。
『監査官エリエルが、わずか数十分で完全に洗脳されたぞォォォッ!! エルディア星のジンは、神の精神すら支配する最悪のウイルスだァァァッ!!』
天界の本社が、過去最大のパニックと絶望に陥り、ついに『最高位の神』が直接重い腰を上げることになるのだが……ジンがそれを知るのは、もう少し先の話である。




